今日のニュースに裁判所が青森県と国に1億4千5百万円の支払いを命じたというのがある。奥入瀬渓流の遊歩道でブナの枝が落ちてきて当たったために下半身麻痺になった女性が損害賠償を求めたものだ。たしかにこの女性は気の毒だ。しかし、ちょっとちがうんじゃないか。この判決はおかしい。
判決は「事故発生は予見可能で、現場は落木の危険があったのに対策が講じられていなかった」と述べた。遊歩道はたしかに県や国が整備したものだろう。しかしそれは自然の林の中を歩きやすいように道をつけたもので、林は自然林だ。その中を歩く以上、落木の危険があることは当然のことである。事故発生は予見可能であるのは、国や県だけでなく、そこを歩く人にも当てはまる。自然の中に自分がいるという心の備えがなかったのではないか。
この判決でさらに国や県が遊歩道の周辺の木を切り倒すことを恐れる。数年前北海道大学のポプラ並木を大学当局が切り倒したことを想い出す。当局は、古くなったポプラがいつ倒れるか分からない。倒れたら被害者から責任を追及されるのが恐いと考えたのだろう。食堂付近のポプラの群れを切り倒してしまった。また、有名なポプラ並木は入り口に立入禁止の看板を立ててしまった。一昨年の台風でたくさんのポプラが倒れてしまったので、大学当局はそれみたことかと喜んだに違いない。しかし、これもおかしい。台風が吹き荒れるような時には、だれでもポプラの木が倒れる可能性を想い出す。そんなときには並木のそばを通る時は慎重になるのが当たり前だ。大学が植えているからいつでもなにもおこらないと考える方がおかしい。
奥入瀬の事故にもどろう。国や県に責任があるのは、本当は遊歩道のまわりの木を切らなかったからではないのだ。そうではなく、遊歩道をコンクリートで固め、まるで都会を歩くような心持ちで奥入瀬渓谷を歩かせること、そのことに責任があるのだ。自然の中を歩くには、それなりの心がまえと、それなりの服装や足回りの準備が必要なのだ。ハイヒールとスカートをはいて、デパートを歩くように歩かせることこそが犯罪的なのだ。そこを裁判所もまったくわかっていない。
また、この女性もわかっていない。彼女は下半身不随になった気の毒な人だが、彼女が訴えるべきなのは、落木があるかもしれないと分かっていながら木を切らなかったためではなく、障害者が生きにくい世の中を訴えることなのだ。障害者になっても明るく生きていける保障とそのような世の中を望むべきなのだ。
以前からこういう勘違いが気になって仕方なかった。川や池に子供が落ちておぼれてしまった時に、必ず彼らの親は柵を作っていなかった川や池の管理者の責任を問う。川や池とのつきあい方を教えなかった自分の責任を問うことはない。本来川に柵なんかはないのが当たり前なのだ。ところがいたる所の川や池に柵ができ、ますます子供たちは川や池とのつきあい方を学ぶ機会を失ってしまい、すさんだ心になったり、どこかの川や池で命を失ったりする。自然とのつきあいをこそ教えるべきなのだ。そのおかげで、いたるところの川はコンクリートで固められ、柵で隔てられ、川で遊ぶなと言う看板で脅される。川は遊ぶところなのだ。公園や校庭ではなく、自然とマジでつきあうところなのだ。命をかけて遊ぶところなのだ。子供にとってそれが何よりの生きる自信に繋がり、自然を愛する心をつくる。
実は数日前に、このようなことがあった。4月の下旬に近くの森林公園で野草の観察をしようと仲間たちに呼びかけた。すると、森林公園の管理をしている団体から、公園は5月1日から開園だから、そのまえにそのような催しをするのは、なにかあっても責任がとれないから困る、ついては、責任者の名前、参加者のリスト、催しの目的、方法、などなどを事前に提出しろといってきた。もちろん責任をとるから、というつもりでそんなことを言ってきたのではない。責任をとりたくないからできればやめて欲しいと言うことを言外に言ってきたのだ。その役人的な言い方を聞いていて、私は公園のブランコから落ちて怪我をしても、公園の管理者を訴える親や、その訴えを認めてしまう裁判所の判決を思いだしてしまった。
奥入瀬の判決を聞いてこの管理団体はきっと森林公園の木を切り始めるだろう。森林公園とは一体なんだろう?都市型公園では味わえない自然を味わうための公園ではないか。そこで木が落ちてきたって当たり前のことでしかない。森や林の木は生きているのだから、枝が枯れたら落ちるだろうし、何十年かしたら木は寿命が来て倒れる。木が倒れることによる森林更新もあるのだ。それが当たり前の自然なのだ。
もっと子供たちを自然と遊ばせよう。子供と自然を隔てている看板、柵、コンクリートなどをなくそう。危険なところは立ち入り禁止にするのではなく、自然の危険さをきちんと教えて自然の中に入らせよう。100万人に一人くらいそれで死ぬ子がいてもそれは仕方ないことなのだ。
判決は「事故発生は予見可能で、現場は落木の危険があったのに対策が講じられていなかった」と述べた。遊歩道はたしかに県や国が整備したものだろう。しかしそれは自然の林の中を歩きやすいように道をつけたもので、林は自然林だ。その中を歩く以上、落木の危険があることは当然のことである。事故発生は予見可能であるのは、国や県だけでなく、そこを歩く人にも当てはまる。自然の中に自分がいるという心の備えがなかったのではないか。
この判決でさらに国や県が遊歩道の周辺の木を切り倒すことを恐れる。数年前北海道大学のポプラ並木を大学当局が切り倒したことを想い出す。当局は、古くなったポプラがいつ倒れるか分からない。倒れたら被害者から責任を追及されるのが恐いと考えたのだろう。食堂付近のポプラの群れを切り倒してしまった。また、有名なポプラ並木は入り口に立入禁止の看板を立ててしまった。一昨年の台風でたくさんのポプラが倒れてしまったので、大学当局はそれみたことかと喜んだに違いない。しかし、これもおかしい。台風が吹き荒れるような時には、だれでもポプラの木が倒れる可能性を想い出す。そんなときには並木のそばを通る時は慎重になるのが当たり前だ。大学が植えているからいつでもなにもおこらないと考える方がおかしい。
奥入瀬の事故にもどろう。国や県に責任があるのは、本当は遊歩道のまわりの木を切らなかったからではないのだ。そうではなく、遊歩道をコンクリートで固め、まるで都会を歩くような心持ちで奥入瀬渓谷を歩かせること、そのことに責任があるのだ。自然の中を歩くには、それなりの心がまえと、それなりの服装や足回りの準備が必要なのだ。ハイヒールとスカートをはいて、デパートを歩くように歩かせることこそが犯罪的なのだ。そこを裁判所もまったくわかっていない。
また、この女性もわかっていない。彼女は下半身不随になった気の毒な人だが、彼女が訴えるべきなのは、落木があるかもしれないと分かっていながら木を切らなかったためではなく、障害者が生きにくい世の中を訴えることなのだ。障害者になっても明るく生きていける保障とそのような世の中を望むべきなのだ。
以前からこういう勘違いが気になって仕方なかった。川や池に子供が落ちておぼれてしまった時に、必ず彼らの親は柵を作っていなかった川や池の管理者の責任を問う。川や池とのつきあい方を教えなかった自分の責任を問うことはない。本来川に柵なんかはないのが当たり前なのだ。ところがいたる所の川や池に柵ができ、ますます子供たちは川や池とのつきあい方を学ぶ機会を失ってしまい、すさんだ心になったり、どこかの川や池で命を失ったりする。自然とのつきあいをこそ教えるべきなのだ。そのおかげで、いたるところの川はコンクリートで固められ、柵で隔てられ、川で遊ぶなと言う看板で脅される。川は遊ぶところなのだ。公園や校庭ではなく、自然とマジでつきあうところなのだ。命をかけて遊ぶところなのだ。子供にとってそれが何よりの生きる自信に繋がり、自然を愛する心をつくる。
実は数日前に、このようなことがあった。4月の下旬に近くの森林公園で野草の観察をしようと仲間たちに呼びかけた。すると、森林公園の管理をしている団体から、公園は5月1日から開園だから、そのまえにそのような催しをするのは、なにかあっても責任がとれないから困る、ついては、責任者の名前、参加者のリスト、催しの目的、方法、などなどを事前に提出しろといってきた。もちろん責任をとるから、というつもりでそんなことを言ってきたのではない。責任をとりたくないからできればやめて欲しいと言うことを言外に言ってきたのだ。その役人的な言い方を聞いていて、私は公園のブランコから落ちて怪我をしても、公園の管理者を訴える親や、その訴えを認めてしまう裁判所の判決を思いだしてしまった。
奥入瀬の判決を聞いてこの管理団体はきっと森林公園の木を切り始めるだろう。森林公園とは一体なんだろう?都市型公園では味わえない自然を味わうための公園ではないか。そこで木が落ちてきたって当たり前のことでしかない。森や林の木は生きているのだから、枝が枯れたら落ちるだろうし、何十年かしたら木は寿命が来て倒れる。木が倒れることによる森林更新もあるのだ。それが当たり前の自然なのだ。
もっと子供たちを自然と遊ばせよう。子供と自然を隔てている看板、柵、コンクリートなどをなくそう。危険なところは立ち入り禁止にするのではなく、自然の危険さをきちんと教えて自然の中に入らせよう。100万人に一人くらいそれで死ぬ子がいてもそれは仕方ないことなのだ。

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