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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの黙示録 8章

2023年04月24日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 8章
香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈りと共に、神の御前に立ちのぼった。
(8・4)


第7の封印が解かれると7つのラッパのさばきが現れるのですが、その前に「半時間ばかり天に静けさがあった」と記されています(8・1)。嵐の前の静けさを思わせる不気味な静けさです。

いよいよ、7つのラッパのさばきが現れます。そのラッパも次々と吹かれ、最後の7番目のラッパが吹き鳴らされると、7つの鉢のさばきが現れます。

先にも申し上げたように、封印ひとつが1年を表しているのではありません。従って、7つのラッパ預言も7番目の封印の後に起きるのではありません。時間的な順序ととらえるより、むしろ、7つの封印に啓示されている出来事の詳細が「ラッパの預言」で明らかにされると考えるべきでしょう。

「封印」および「ラッパ」が啓示するような疫病・異常気象・戦争などによって世界情勢は大きく変化するでしょう。

第一のラッパが吹き鳴らされると……

「血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の3分の1が焼け、木の3分の1が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった」と記されています。血のまじった雹が何なのかは分かりません。

第二のラッパが吹き鳴らされると……

「火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」とありますが、「山のようなもの」とは隕石なのでしょうか。

それが海に落下すれば大津波で船舶の被害があるでしょう。また、そうなれば海洋生物の死滅による赤潮が発生し、海が血のようになるのかも知れません。黙示録ではさらにこう預言されています。

「海の3分の1は血となり、海の中の造られた生き物の3分の1は死に、舟の3分の1がこわされてしまった。」(8・8~9)

第三のラッパが吹き鳴らされると……

「たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた」と記されています。大きな星とは何でしょう。彗星が地球に衝突することなのか。もし、それが彗星であれば、その大きさによっては地球規模の大災害になるでしょう。

また、聖書では「星」は御使をあらわすことが多いので、何らかの使命を受けた天使、あるいは堕落した天使による働きだと解釈することもできます。具体的な解釈は断定できません。

いずれにせよ、その結果……、

「それは、川の3分の1とその水源との上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』と言い、水の3分の1が『苦よもぎ※』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」のです(8・10~11)。 ※1986年チェルノブイリ原発事故が起きた。チェルノブイリがロシア語で「苦よもぎ」を意味することから黙示録預言と関連づける解釈もあるが間違いだ。預言されている事象はチェルノブイリの規模をはるかに上まわる。

※世界中には多くの原発や原子力船や核弾頭が現存する。それを保守管理するだけの経済力と統率力がある国は安全に管理しているが、やがて、経済破綻や政変によって安全に管理できなくなった時代に、それが地球規模の危機を招くことになるだろう。

第四のラッパが吹き鳴らされると……

「太陽の3分の1と、月の3分の1と、星の3分の1とが打たれて、これらのものの3分の1は暗くなり、昼の3分の1は明るくなくなり、夜も同じようになった。」(8・12)
隕石とか彗星の衝突があれば、大規模な噴煙が発生し、それが太陽や月星の光をさえぎることで光の3分の1を失うでしょう。

さて、このような最終的なさばきに至るまでに、いかに沢山の「聖徒」と呼ばれる信者たちの祈りがささげられてきたことでしょう。

つらい出来事が預言される中でも、香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈りと共に神の御前に立ちのぼったという記録は希望の光です (8・4)

ここでは、御使(天使)が金の香炉をたずさえていますが、これは祈りをあらわしています。聖徒たちの祈りを御使が天へ持ち運ぶ姿です。旧約の神殿には、「金の香壇」が据えられていました。そこで祭司たちは香をたきましたが、それは祈りをあらわしていました。今や新約の聖徒たちの祈りは、祭司が香をたくようにして天に届けられるのです。

香をたくと、その煙が聖所に立ちのぼって満ちます。それと同じように、私たちの祈りは天使によって神の御前に立ちのぼり天に満ちます。どんな悲惨な状況の中でも、聖徒たちの祈りは天に届いています。ですから、あきらめずに忍耐強く祈りましょう。

暴虐が満ちる世界に終わりが来ますように。神の正しいさばきがなされて、神の義の支配する御国が来ますように。この地に神の御心が完全になされますように……。祈りの香が天に満ちるまで祈るのは、新約の祭司である私たちの務めです。


ヨハネの黙示録 7章

2023年04月22日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 7章
彼らは大きな患難を通ってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
(7・14)


第7章の記録は、すにで見てきた第1から第6の封印が預言する事柄と平行しておきる出来事だと考えられます。

もう一度整理しておきましょう。第1の封印から始まる患難期は、イスラエル(ユダヤ人)を中心に展開する時代です。それ以前の時代は――つまり今の時代は――異邦人の時代です。教会時代とも言います。

異邦人の期間は、異邦人の完成する時までのことです(ロマ11・25)。この「異邦人の期間」は、ダニエル預言の70週のうちの69週と残りの1週との間に割り込むようにして入っています。

異邦人の時代の主役であった教会が天に引き上げられると、第1の封印から始まる患難期へと入って行きます。

すると、再びイスラエル(ユダヤ人)が歴史の表舞台に登場します。

それは、旧約聖書に預言されている「神の御国」が成就する最終段階であり、イスラエル(ユダヤ人)を軸に展開されます。ダニエル預言の70週の〝最後の1週すなわち7年〟が時を刻み始めます。

旧約で預言されている内容とは……、
①終わりの時代にメシヤ(キリスト)が来られてイスラエルを救う。そして、
②罪と悪で満ちたこの世界をきよめる。その結果、
③メシアを王とした神の御国が実現する……というものです。

この旧約の預言(神の御国の預言)を象徴表現だと解釈する神学もあります。その場合、神の御国はキリスト教会によって実現されるのだと考えます。つまり、イスラエルに対する旧約預言は文字通りイスラエル民族に実現するのではなく、新約のキリスト教会に実現するのだと説明します。約束がイスラエルから新約教会に置き換わったのだという意味で、それを置換神学と呼びます。

しかし、この「朝マナ」では、旧約で約束された神の御国の預言は文字通り実現すると解釈しています。神の御言は永遠に変わらないのであって、イスラエル民族に約束されたのですから、その通りイスラエル民族に実現します。

さて、第7章4節に記された〝14万4000人はイスラエル民族の中からイエスを信じた特別な人々です(7・4~8)彼らは患難期にイエスの証人として世界中に派遣されるでしょう。 ※文字通りイスラエル民族の中からである。異邦人の救われる人数ではない。なぜなら、異邦人で救われる者は「数え切れない」と記されている(7・9)。某宗教団体はこの数字を根拠に、救われる人数には限りがあると教え、その中のひとりに入るようにと恐怖をあおって伝道しているが、間違った解釈である。

世界宣教のために、彼らの額には神からの「印」が押され(7・3)、この印によって患難期のあいだ保護されます。異邦人の時代のクリスチャンにも、聖霊によって証印が押されています(エペソ1・13)。何という恵みであり、そして使命でしょう。こうして聖霊に満たされた14万4000人の伝道者よって患難期に多くの人々がイエスを信じるようになります。

先には、キリスト教会の携挙――世間一般にはクリスチャン失踪事件として多くの関心を集めるであろう――があったのですから、事の真相を突きとめようと人々は聖書を調べるでしょう。その結果、大リバイバルの契機となるのです。

しかし、反キリストの圧政下で信じるのですから、多くの人々が殉教するでしょう。あらゆる国民……から、数え切れないほど大勢の群衆が白い衣をまとい神を讃美していますが(9)、彼らは患難期に14万4000人の伝道者によって救われた人々です。彼らは大きな患難をとおってきた人たちです(14)。 ※この大群衆の中に教会時代のクリスチャンも含まれているとする解釈もある。「患難期中期携挙説」あるいは「患難期後期携挙説」に立つなら教会も患難期に存在するからである。本書は「患難期前携挙説」に立っている。

患難期では、イエス・キリストの伝道者に水1杯でも飲ませる者は報いを受ける時代です。イエス様はそのことを次のように預言されました。

「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。」(マタイ10・42)

反キリストが血眼になってイエスの証人たちを殺そうとする時代に、彼らに差し入れをしたり見舞うことは命がけの行為です。これは立派な信仰告白です。彼らは救われます。
ですから、イエスはさらにこう言われました。

「その時、王(キリスト)は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている御国を受けつぎなさい。あなた方は、私が空腹の時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、獄にいた時に尋ねてくれたからである』。」(マタイ25・31~46)

イエスの証人たちに施したことは、キリストに対してであり、信仰告白なのだという意味です。

このように患難期は激しい試練の時です。では、異邦人の時代は試練がないのかといえば、そんなことはありません。今の時代も試練はあります。平穏な日本のクリスチャンでも、各自の人生の中で大なり小なり試練を通過します。

しかし、患難期は短期間に凝縮された試練です。異邦人の時代であろうが患難期であろうが、私たちが神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならないことに違いはありません(使徒14・22)

試練は私たちをきよめて本物にするためです。試練という道を経て、きよめられてから神の御国に入る。これが神のご計画です。

ですから試練の時、神への不平や不満で己を汚してはなりません。小羊イエスの血に信頼しましょう。この血を信じる者は衣生き方を白くすることになるでしょう。彼らは大きな患難を通ってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのであるとはそのことです(黙7・14)

イエスの血を信頼して試練を通過した者に、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです(7・17)

今の時代は患難期のような厳しい時代ではありません。むしろ、今は恵みの時、救いの日です。今日という日に信じてください。そして、キリストの花嫁として、花婿なるキリストの来臨を待つ者になってください。キリストの花嫁である教会は、患難期を前に天に引き上げられます。これが今は恵みの時、救いの日であるということの意味です。


ヨハネの黙示録 6章

2023年04月21日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 6章
地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに身をかくした。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか。
(6・15~17)


いよいよ小羊によって巻物の7つの封印が解かれます。7年の患難期の始まりです。ダニエルが預言した70週のうちの最後の1週が動き始めるのです。

ひとつの封印が1年に相当するのではありません。封印は年数をあらわしていません。7つの封印で語られる預言は、この患難期全体の大まかな内容を示しています。その詳しい内容は、その後に続く「ラッパの預言」「鉢の預言」で明らかにされると解釈するのがよいと思っています。

7つの封印を順々に解いて行き、7番目の封印を解くと、7つのラッパの預言が出てきます。これも順々に吹き鳴らされて各々の預言が語られます。

7番目のラッパが吹き鳴らされると、7つの鉢の預言が出てくる……といった構図になっています。ロシア人形のマトリューシカに似たところがあります。では、順に封印を解いてみましょう。

第一の封印……白い馬(支配者登場)

彼こそ反キリストです。サタンが人となったような人物です。テサロニケの手紙では「不法の人」とも呼ばれています。

彼は弓を手に持っており、また冠が与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出かけた(6・2)と預言されているように、反キリストは卓越した手腕で世界的なリーダーとして台頭し、様々な戦いを足がかりにして権力を手中におさめるでしょう。

ダニエルの預言によれば、この反キリストはイスラエルと契約を結ぶことになっています(ダニ9・27)

その画期的な契約によって、世界の火薬庫と呼ばれる中東問題を解決するのではないかと思われます。その功績が評価され、反キリストは世界的なリーダーとして台頭するようになり、人々の目には世界を統治するにふさわしい〝救い主〟のように見えるでしょう。そのため人々は彼の世界統治を承認するのです。 ※混乱した時代になればなるほど強力な統治を必要とする。戦争や紛争、世界規模の感染症等々に協議や多数決では時間がかかりすぎて、人々は疲弊し、民主主義より強力な独裁者を切望する気運となるだろう。それが正しい独裁者なら良いが……それはあり得ない。混乱した世界情勢は獣と呼ばれる反キリストの登場につながるだろう。

第二の封印……赤い馬戦争

「それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きな剣を与えられた」とあるように(6・4)、戦争によって世界の平和は瓦解します。

第三の封印……黒い馬飢饉

すると「小麦1枡が1デナリ、大麦3枡も1デナリ」という状況が記されています(6・6)。当時の物価で小麦8枡が1デナリでしたから、その水準からすれば異常な物価上昇です。庶民の穀物である大麦でさえも3枡が1デナリというのは激しい高騰ぶりです。戦争よって食糧難が発生するのでしょう。

第四の封印……青白い馬

その者の名は「死」です(6・8)。地上の4分の1の人々を死に追いやることになります。戦争や飢餓によって多くの人が死滅するようです。このような多くの死は、疫病によってもあり得ることです。

かつて14世紀に欧州で流行したペストによって欧州人口の3分の1が死亡、1918年のスペイン風邪※によって6億人が感染し4~5千万人が死亡しました。このような記録は黙示録の預言を想起させます。

  ※20世紀初頭に流行ったスペイン風邪は鳥インフルエンザに由来するものであった。日本では人口5500万人のうち39万人が死亡。人の往来いちじるしい現代であれば被害は爆発的なものになるだろう。また、原発とその使用済み核燃料の事故も原因になるかも知れない。
 ※21世紀に入って「新型コロナウィルス」が全世界に猛威を振るっている。人類は昔からウィルスと共存してきた。多数の死者を出しながら免疫を獲得しつつ現代まで来ているが、未知のウィルスは無数である。人類は未開の地に足を踏み入れ、深海にまで手を伸ばしてる。どんなウィルスと遭遇するか未知数である。その度に多くの死者を出すだろう。

第五の封印……殉教

神の言のゆえに、また、その証しを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを見た(6・9)と記されているのは、患難期に入ってからイエスを信じ、それゆえに殉教した人々です。

この人々とは、教会が天に引き上げられた後、つまり携挙の後にイエスを信じた人々です。この中には、かつては信仰が曖昧だったがこの期に及んで明確に信じて殉教に至った人もいるでしょう。以前は、福音を聞いたが侮ったり、信じ切れずにいたのですが、携挙という出来事を目の当たりにして、改めて聖書を読み、信仰に目覚める人もいます。

また、第7章で取り上げることになりますが、イスラエル(ユダヤ人)の14万4000人の伝道者によって世界宣教がなされるでしょう。すると、これによって、長い間、心をかたくなにしてきたユダヤ人がイエスを信じるようになるはずです。また、その世界宣教よってユダヤ人以外の多くの人々も信じるようになるでしょう。

こうして、神の刈り取りの時代……つまり、大収穫の時代を迎えるのです。この時代ほど、主イエスの御言が現実味をおびて感じられる時代はないだろうと思います。

主イエスは、「肉体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われました。それは、反キリストが実権を握る時代にイエスを信じることは殉教を意味するからです。

患難期に殉教した人々の霊魂が祭壇の下で叫んでいます(6・9)。旧約のレビ記によるなら、犠牲の血は祭壇の下に注ぎました。まさに殉教者の血もそのように祭壇の下で叫んでいます(レビ4・7)

聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、私たちの血の報復をなさらないのですか(黙6・10)。しかし、最終的な神のさばきはもう少し後のことになります。でも、確実にさばきはなされます。

黙示録の預言は、さばきによって滅び行く悲惨な出来事に注目しがちですが、一方でこの10節のように、正しいさばきを切望しながら非業の死を遂げた人々の叫びを忘れてはなりません。最終的には、神はご自身の義を基準に公平におさばきになるのです。

第六の封印……天変地異

神はなぜこのような恐ろしいことをゆるされるのですか。黙示録だけを見てそう感じてしまうのも仕方がありません。しかし、旧約から今日に至る罪の歴史を知ると、いかにおぞましく、かつ多くの血が流されてきたことでしょう。患難期の出来事は、そのような罪に対する神の御怒りです。サタンとそれに追従した者たちへのさばきなのです。

それと同時に、神は人類に悔い改めを迫っておられるのです。

出エジプトの直前になされたエジプトへの神のさばきを思い出してください。エジプトの王パロは、悔い改めるチャンスがあったにもかかわらず、何度も心をかたくなにしました。

患難期における人々の反応はふたつに分かれます。悔い改めて神に立ち返る者と、心をかたくなにして神をのろう者とのふたつです。

黙示録の預言では、多くの人々は神の御怒りから逃れようと、ほら穴や岩かげに身を隠します(6・15)。そして言うのです。我々をおおって御座にいます方の御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日がすでに来たのだ。だれが、その前に立つことができようか。(6・16~17)

そうです。だれも神の御怒りから逃れることはできません。しかし、唯一の隠れ場所があります。それは主イエスの十字架です。この十字架だけが、神の御怒りからかくまってくれます。

前述の出エジプトの際にも、神のさばきとして10の災いが臨みましたが、神を信じていたイスラエルの民は守られました。

これは終末の患難期の予表でもあります。エジプトでは最後の10番目の災いの時、小羊の血を玄関に塗ったイスラエルの家だけが死をまぬがれました。神の小羊であるイエスの血、十字架の血は私たちを御怒りから救うのです。主イエスこそ我が隠れ場です。詩篇の作者も次のように告白しました。あなたは我が隠れ場、我が盾です(詩119・114)


ヨハネの黙示録 5章

2023年04月20日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 5章
あなた(小羊イエス)こそは、その巻物を受け取り、封印を解くにふさわしい方であります。
(5・9)


黙示録に記された患難期の預言は、恐怖心をあおるのが目的ではありません。むしろその逆です。患難期は神の御国の実現に向けて経なければならないきよめの期間です。つまり、きよめられた先に希望があるわけです。だから、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」のです(マタイ24・13)。主を信頼して耐え忍ぶようにと教えています。

さて、天上では封印された巻物が登場します(黙5・1)。この巻物には世の終わりの、しかも最終段階について記されています。それは、神が御国を完成なさる最終段階のことであり、その直前には患難の期間があるのだと記されています。

世の終わりと御国の完成を預言したダニエル書は、この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれますと記録しています(ダニ12・9)。つまり、最終段階のことは封印されています。その封印は解かれないまま患難期まで持ち越されたと考えられます。

冒頭の聖句が示すように、神の小羊であるイエス・キリストこそ封印を解くにふさわしいお方です。つまり、封印された預言を成就するのはイエス・キリストだという意味です。その封印が解かれる毎に、患難期がひとつずつ実現するわけですが、同時に御国の完成へとひとつずつ近づくことになります。

神の国の完成のために、神はどのようなご計画をお持ちなのでしょうか。再びダニエル書をひもとくことにします。

あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。これは咎を終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。(ダニ9・24)

預言によれば、神の御国が完成するために70週が定められています。この場合の1週は7年を意味します。さらに預言は続きます。

エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤ油注がれた者なるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。(ダニ9・25)

※一般的にこの70週のことを〝ダニエルの70週〟とよぶ。その内、9章25節では「7週と62週」が経過、つまり70週のうち69週が経過する。この聖句は口語訳を要参照。

エルサレムを建て直せとは、紀元前445年ペルシャのアルタシャスタ王の勅令のことです。聖書の記録によれば、ネヘミヤがエルサレム再建のために派遣された時のことです(ネヘ2・1~8)。その時から7週と62週……合計69週を経て「エルサレムは広場と街路とをもって建て直され」ました。

こうして69週(7年×69=483年)を経てキリストが登場すると預言されています。しかし、キリストは「断たれる」のです。

その62週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。(ダニ9・26)

預言通りキリストはエルサレム再建命令(ネヘ2・1)から483年を経て来られましたが、十字架で殺されました。つまり〝メシヤは断たれた〟のです。

その後、エルサレムの都と神殿は、来るべき君の民―反キリストの軍隊のこと―によって破壊され、その荒廃は終わりまで続きます(ダニ9・26)。ここまでが70週の内の69週までの預言です。

残っているのは1週……つまり7年です。この最後の1週についてこう預言されています。

彼は1週の間、多くの者と堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです。(ダニ9・27)

このとは、文脈上はエルサレムを破壊した軍隊の「君」であり、ダニエルの預言した第四の獣のことです。この人物こそが反キリストです。預言では、残りの1週に彼がイスラエルと契約を結ぶことになっていますが、これはまだ実現していません。

つまり、69週までは実現していますが、残りの1週はこれからです。69週と1週との間に〝挿入された期間〟が生じています。

これが異邦人の救いの完成する期間、あるいは教会時代とも呼ばれる期間のことです。この異邦人の救いの期間とか教会時代が終わると、教会は天に引き上げられます。つまり携挙が起こるわけです。この時を契機に最後の1週(7年)が始動することになるはずです。

黙示録を読み進めて行くと分かることですが、患難期は7年続きます。この患難期の半ば、つまり3年半の時点で反キリスト(獣)は契約を破棄し、自分こそ神であると宣言して本性を現します。 ※この1週の後半……最後の3年半が最も厳しい時代になるので、〝大〟をつけて「大患難期」とよぶこともある。

こうして見ると、ダニエル書に預言された70週の最後の1週が、黙示録の患難期に相当することが分かります。患難期は大変な時代ではありますが、それは失望ではありません。神の御国の完成を目前にしているのです。このことは、どんなに厳しい時代を迎えても、そこには希望があることを教えています。

この巻物の封印がひとつひとつ解かれることによって、地上では神のさばきが始まります。神の御国を完成するために、サタンとその悪しき業をさばいてきよめるのです。

この時、サタンの側について罪にとどまり続ける人々は、サタンと一緒に神の御怒りのもとに滅ぼされます。しかし、イエスを信じた者はこのさばきを受けません。なぜなら、主がすでに十字架で代わりにさばきを受けてくださったからです。今後この世界がどのようになって行こうとも、この約束にしっかりとどまっていてください。

前置きが長くなりました。本題に戻ります。封印された巻物を手にしているのは、天の御座についておられるお方です(5・1)。このお方は4章2節でも記されていますが、姿や形は描写されていません。天の父なる神であると思われます。

この父なる神から〝小羊〟が巻物を受け取り、封印を解いて行かれるわけです。この小羊とはイエス・キリストです。神の御子です。小羊なる御子イエスが巻物を手にして、いよいよ最後の預言が成就して行きます。さばきであると共に完成の時です。ですから、天では賛美の大合唱がささげられます。

四つの生き物と24人の長老たちの賛美(5・8~10)。数え切れない程の天使たちの賛美(11~12)。そして、被造物たちによる大合唱です(13~14)。天での荘厳な礼拝です。圧巻の風景です。

その賛美の言葉に共通しているのは小羊こそ〝ふさわしい〟という表現です。小羊であるイエスこそ、巻物の封印を解くのにふさわしいお方です(9)。神の御国の完成に向かってさばきをなさるのは、イエス・キリストが一番ふさわしいです。適任です。他のどんな人物も神の国を完成することはできません。

また、小羊なるイエス・キリストこそ力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしいお方です(12)。さらに御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるようにです(13)

逆に言えば、神以外のいかなる者も相応しくないのです。天使が、力や富・知恵・勢い・ほまれ・栄光・賛美を受けるのは相応しくありません。しかし、受けようとして堕落した天使がいます。サタンとその仲間たちです。

人間も同じです。どんなに優秀な人間でも、賛美と誉れと栄光と権力を受けるのは相応しくありません。それを自分が受けようとして、人は堕落し破滅してしまいます。われらの神、イエス・キリストにこそ栄光がありますように。

◆◆◆◆◆◆

封印された巻物といえば、もうひとつ興味深い記録があります。それは旧約の預言者エレミヤが甥の土地を買い戻した時、土地の所有権を記した巻物に封印をした出来事です(エレミヤ32章)。

時はすでにバビロン軍に包囲されており、侵略と破壊が間近に迫っていました。そんな状況で、土地の所有権など何の意味があるでしょう。

それなのに、神はその土地を買い戻すように命じられ、エレミヤは命令に従って土地を買い戻し、土地の買い戻しの権利書を「封印」して壺に入れ、その土地に埋めました。

これは何を意味するのでしょうか。たとえこれから混乱した時代になっても、神はご自分の所有としたものを必ず買い戻すことの意思表明です。

全地は創造主である神の所有です。神の栄光のために造られたこの世界は神のものです。しかし、アダムとエバがサタンにだまされて以来、サタンが支配するところとなっています(Ⅰヨハネ5・19)

そこで神は、それを買い戻すために御子イエスの血を流されました。あの十字架の血は、人類を贖うためでありましたが、同時に全世界を贖うための支払いでもありました。

このように、神は、人類を買い戻すだけでなく、万物をも神の所有として買い戻すおつもりです。あの十字架の支払いによって、神は買い戻しの権利証書を手にしておられます。あとは、その権利証書にもとづいて実行に移すだけです。

それをなさる権威と力のある方はイエス・キリストですいよいよ小羊なるキリストが封印を解いて、この地を神の国として買い戻す計画が実行に移されようとしているのです。

御国が来ますように祈りましょう。国と力と栄光はイエス・キリストのものなのですから…。


ヨハネの黙示録 4章

2023年04月19日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 4章
24人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々かぎりなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して……
(4・10)


先の第2~3章はキリスト教会に対する主イエスからのメッセージでしたが、第4章からは場面が変わります。その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあったとあります(4・1)。その後とは〝教会時代の後〟という意味です。

教会時代とは、イエスを信じる人々によってキリストの花嫁が形成される時代のことです。この時代は、ユダヤ人の他に異邦人も加わり、隔ての中垣をこえた〝ひとりの人〟として形づくられる時代のことです(エペソ2・15)。その〝ひとりの人〟とはキリストの花嫁という〝ひとり〟です。

後に、キリストの花嫁なる教会の構成員はユダヤ人よりも異邦人の数が圧倒的に多くなりました。そこで、教会時代のことを〝異邦人の期間〟とも言います。異邦人の期間には終わりがあります(ルカ21・24)。それは「異邦人が完成する時」です(ロマ11・25)。この期間が終わると、スイッチが切り替わるようにして次の段階へと展開します。

そこで黙示録につながるわけです。教会時代が終わって、その後のことです。異邦人の期間が終わって、その後のことが黙示録4章からの記録です。

教会の時代は、〝教会が天に引き上げられる〟ことで終わります。教会時代の様々な試練を経て養われたキリストの花嫁なる教会は、天でキリストとの婚礼を迎えるために引き上げられるわけです。その出来事を神学用語で携挙と呼びます。

ですから黙示録4章では、教会が携挙されて場面は天上に移ります。

黙示録は象徴的な表現が多いため解釈も様々に分かれるところです。ですから、心を広くして、心のポケットをたくさん用意して読んでください。

いずれにしても、黙示録の文言だけによる性急な解釈は避けるべきです。多くのキーワードは旧約聖書にあります。そして、新約聖書もふくめた聖書全体からの理解が必要となります。

話しをもどして結論から申し上げます。第4~5章は、天に引き上げられた教会の様子が預言されており、第6~20章は、教会時代の後の地上における患難期の預言です。

この患難期を前に、キリストの花嫁である教会は天に引き上げられるのです。つまり携挙が起きます。携挙について聖書はこう記しています。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(Ⅰテサロニケ4・16~17)

すでに死んだクリスチャンが復活し、それと同時に、その時点で地上で生きているクリスチャンは一瞬にして復活の体に変えられて、天に引き上げられます。とても不思議な出来事です。

「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは残される」とイエスが言われたことも、この時の出来事、つまり携挙をあらわしていると考えられます(マタイ24・40)

携挙が実現した日を境に世界情勢は激変するでしょう。多くのクリスチャンが忽然と姿を消してしまうのですから、残された人々はいったい何が起こったのか、にわかには理解できないはずです。

しかし、地上に残された人々は聖書(特に黙示録)を手がかりにこの出来事が携挙であり、その後の患難期が何を意味しているのか、そして、この期間をどう生きるべきなのかをやがて理解することでしょう。そして、この「朝マナ」も、その人々に重要な視座を提供することになるでしょう。 ※携挙は〝患難期の直前〟にあると私は考えている。他にも、患難期の中期に携挙されるという説、患難期の最後だとする説もある。

教会(イエスを信じる人々)が〝患難期の前に〟携挙されると解釈する根拠が幾つかあります。ひとつは、患難期を預言している第6章以降に「教会」が登場しません。教会については第2~3章で記され、第4章からは「その後のこと」が記録されています(4・1)。つまり患難期は教会時代の後のことです。

いまは「教会の時代」です。教会はユダヤ人から始まりましたが、結果的には異邦人を中心に形成されました。旧約ではユダヤ人が中心でしたが、新約ではユダヤ人は隅に追いやられた格好です。

ユダヤ人(イスラエル)はイエスをキリストとして受け入れなかったので、もはやユダヤ人は歴史の表舞台から消えたかのように思われています。では、旧約で預言されていたユダヤ人の救いの計画は頓挫してしまったのでしょうか。

そんなことはないと聖書は主張しています。ユダヤ人(イスラエル)がイエスを信じないで心をかたくなにしているのは一定の期間であって、異邦人の救いが完成する時までです(ロマ11・25~26)

異邦人の期間が終わると、再びユダヤ人が歴史の表舞台に登場するはずです。患難期は民族的な救いを熱望するユダヤ人と、その実現を阻止しようとする反キリストを中心に展開するのです。

さて、先ほどの「異邦人の救いが完成する時」とは、教会時代の終わりを意味しています。異邦人を中心にして形成された教会が、キリストの花嫁として完成する時です。

その時が満ちたら、花婿なるキリストは花嫁を迎えるために天からくだって来られ、教会を天に引き上げられます。これが携挙です。

ですから教会は―クリスチャンは―花婿を待つ花嫁として、きよさを保って準備する者たちです。たびたび聖書は「目を覚ましていなさい」と警鐘をならしているのはそのためです。

かくして、花婿なるキリストは、愛する大切な花嫁を患難期の地上に放置しておくはずがないのです。その前に携挙されるでしょう。

以上が終わりの時代のアウトラインであり、黙示録を理解するための骨組みです。

さあ、天に引き上げられた教会の様子を見てみましょう。まず、天にひとつの御座とそこに着座しておられるお方があります(4・2)。父なる神であろうと思われます。5章1節からは、この御座に着くお方が巻物を手にしておられ、それをキリストである小羊が受け取る様子が描かれています(5・7)

次に、四つの生き物が描かれています(4・7)。これは、エゼキエル書1章に記されている幻と同じです。神なるキリストの属性を象徴的に表現する天使です。王である獅子、しもべである雄牛、人、そして神である鷲です。 ※これと連動するように、マタイ福音書は王なるキリスト、マルコ福音書はしもべなるキリスト、ルカ福音書は人であるキリスト、ヨハネ福音書は神であるキリストを描いている。

天では、主なる神への礼拝がささげられています。御座のまわりには24の座があって、24人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていたと記されています(4・4)

24人の長老とは、祭司として神に礼拝をささげる教会の姿をあらわしています。24は祭司の組分けの数であり、24人の祭司を筆頭に他の祭司が属する神殿礼拝のならわしに従っています(歴代上24章)

この24人の長老たちは、天に引き上げられたクリスチャンたちの代表であり象徴と考えられます。

天に携挙されたクリスチャンたちは、白い衣と金の冠をかぶっています。白い衣は聖徒たちの正しい行い、は地上での信仰の戦いと苦労に対する報いです。何と光栄ある主からの待遇でしょうか。

ところが、最高の栄誉である冠も、神の御前にはそれを投げ出して礼拝をします。24人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々限りなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して…とあるとおりです(4・10)

これこそ、神が求めておられる〝まことの礼拝者〟の姿です。神の御前では、どんな冠も誇りも自慢も何もかも投げ出して、神をほめたたえます。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者と……。このような天での礼拝を、地上でもささげようではありませんか。


ヨハネの黙示録 3章

2023年04月18日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 3章
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
(3・20)


(5)サルデスの教会(3・1~6)

「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と指摘されています(3・1)。信仰はあるけれど〝死にかけている教会〟です。だから、「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい」と主は励ましておられます(2)

死にかけているとは霊的な死のことです。それは霊的に眠っている状態のことです。あまりにも眠りが深くて、瀕死の状態です。そんな眠り込んだ教会にとって、主イエスの再臨は突然のように感じられることでしょう(3)

この教会がかろうじて立っていられるのは、少数ではありますが「衣を汚さない者」が生き残っているからです(4)。「衣」とは「行い」を意味します。信仰に基づいたきよい行いが、教会のいのちを吹き返すことになります。

信仰の価値観が軽んじられ、世俗化する中にあって、時代に流されず衣を汚さない少数の存在が、教会にとっていかに重要なことでしょうか。自分もそのひとりになろうと決心する者は幸いです。

教会の問題点をあれこれと批判するのは簡単なことです。このサルデスの教会も批判にさらされたなら、いくつもボロが出てくるような教会です。でも、その中にあって〝衣を汚さない者〟がいるからこそ、教会のいのちが保たれています。

そして、この〝衣を汚さない者〟たちによって教会は改革されて行きます。彼らは、霊的に死にかけている信者たちを励まし、信仰復興へと導くのです。私もそのひとりであろうと心に定めることは神の御心にかなう生き方です。

教会史でいえば宗教改革の時代です。中世の逸脱によって霊的いのちを失いかけた教会に、真のいのちを取り戻そうと取り組んだ時代です。その基本は聖書に立ち還ることです。イエスの「愛しなさい」との命令に愚直に立ち続けることです。

終わりの時代は、そのような宗教改革によってキリストの体としての本来の姿を回復する教会と、逆に、大きく逸脱する教会とに別れてくるでしょう。

次のフィラデルフィア教会とラオデキア教会はその両者の姿を啓示しています。

(6)フィラデルフィアの教会
(3・7~13)


フィラデルフィアの名のごとく、この教会は〝互いに愛し合う教会〟です。彼らは、「少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかった」教会です(3・8)※「兄弟愛」の意味。

どんなに小さくても、イエスの御言を守り、イエスの御名を否まない教会です。おおぜい集まっていても、迫害の時、主を否んで雲散霧消してしまう集いであれば何になるでしょうか。

イエスの御言を守るとは、イエスが言われた「互いに愛し合いなさい」という命令のことです。イエスの御言は聖書をひもとけばたくさんあります。でも、何が一番大切かと問うならこの御言です。終わりの時代に、「互いに愛し合う教会」に向かって教会は完成して行きます。

イエスの御名を否まなかったとは、イエスだけを礼拝する教会のことです。終わりの時代は、偶像礼拝が世界を取り巻くでしょう。そのような中で、イエスこそ主であると告白し、その礼拝を貫く教会です。聖書に啓示された神の意図は「まことの礼拝者を得る」ことです。偶像ではなく、イエスの御名だけを礼拝する者を、神は求めておられるのです。

私たちは、このフィラデルフィアの教会を目指します。互いに愛し合い、イエス・キリストだけを礼拝する教会です。キリストの花嫁にふさわしい教会として、完成を目指します。

フィラデルフィアのような教会には、だれも閉じることのできない門が開かれています(3・8)

これは主イエスとの親しい交わりの門です。その門はいつも開かれています。それを妨害するサタンの力も、その門を閉じることはできません。

私たちは、イエスを神の御子キリストだと告白します。この告白という〝岩〟の上に、キリストの教会は建てられています。ハデスの門もその教会に打ち勝つことはないとイエスは言われました(マタイ16・18)。つまり、死に至らしめるハデスの門―黄泉の力―に教会は打ち勝つのです。

それは、先ほどの「誰も閉じることのできない門」が教会に開かれており、この門を往来してキリストとの豊かな交わりがあるからです。これをサタンは閉じることができません。このような教会が、私たちの目指す姿です。教会史的に見れば、最後に完成するキリストの花嫁の教会です。

(7)ラオデキアの教会(3・14~22)

ラオデキアの教会に対しては、称賛の言葉がありません。形骸化した教会です。完全に眠った教会です。その目は世の事柄に向いています。

この教会に主は、あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしいと命じておられます(3・16)。しばし、自分がそうなっていないか吟味しなければなりません。

当時のラオデキヤは裕福な都市でした。地上の豊かさは祝福ですが、しかし、いつの間にか地上の富が主人になってしまいます。ラオデキア教会はそんな教会をあらわしています。これは〝富を主人とする教会〟です。

富が主人として居座っているので、キリストは中に入れなくて、「戸の外に立って」おられます。教会の中で「主人」であるべきお方が、なんと外に立っておられるのです。ラオデキア教会とは〝主イエス不在の教会〟です。

そこで主は、富を主人としないで、地上の富と引き替えにしてでも、金と白い衣と目薬を買いなさいと言われます(3・18)。「金」は永遠のいのち、「白い衣」は正しい行い、「目薬」は見えないものを見る目をあらわしています。

もちろん、それらをお金で買えるわけではないのですが、「富を主人としない」という意味で「買いなさい」と言っています。主人である富を差し出して、得なさいという意味です。

さあ、自分自身を点検してみましょう。主イエスは戸の外ですか。それならすぐにでもお迎えしなければなりません。主は親しく私たちと食事をしてくださいます。「食事」は聖書的には「最も親しい交わり」を意味します。

さて、すでに主イエスをお迎えしたものの、いまだにお入れしたことのない秘密の部屋はありませんか。応接間にはお入れしたのですが、「ここだけは、主よ、ご覧にならないでください」とお断りしている部屋はありませんか。

そんな部屋の外で主はノックして「この部屋はどうなっているのかね」とたずねておられます。開かずの部屋は、いつの間にか心の闇を作り出してしまいます。光である主イエスに入っていただきましょう。

その部屋は過去の出来事で傷ついて暗くなっている部屋です。また、自分を守るために過去を美化している部屋です。頑固さゆえに鍵のかかった部屋です。でも、大丈夫です。大切なことは、光である主イエスに入っていただいて、その部屋を栄光で照らしていただくことです。

イエス様は私の中で主人となるべきお方です。だからどの部屋にも自由に出入りしていただくべきです。なのに、応接間だけにお迎えして、客人のように扱われるのはなんと窮屈なことでしょう。

祈りましょう。主よ。私の中で主人となってください。そして、親しく食事をなさってください……と。


ヨハネの黙示録 2章

2023年04月17日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 2章
わたしが来る時まで、持っているものを堅く保っていなさい。
(2・25)


黙示録2~3章は、7つの教会にあてたイエス様からのメッセージです。①エペソ教会 ②スミルナ教会 ③ペルガモ教会 ④テアテラ教会(以上2章・以下3章) ⑤サルデス教会 ⑥フィラデルフィア教会 ⑦ラオデキヤ教会。この7つの教会です。これらの教会は当時の小アジアに現存していました。

2章~3章の預言は、この7つの教会宛てに記されているのですが、〝7〟が完全性を表していることからすると、この預言は全世界の教会に語られているとも解釈できます。ですから、現代教会も、7つの教会のどれかに当てはまります。あるいは、各自の信仰の状況に該当するとも言えます。

また、次のようにも解釈できます。7つの教会は初代教会から始まるキリスト教会の歴史として読むことができるのです。2千年の教会史のなかで、キリスト教会は様々な道を歩んできました。過去を振り返ってみると、キリスト教会は黙示録の7つの教会の歩みをたどってきています。

(1)エペソの教会(2・1~7)

信仰熱心な教会です。主はそれを褒めておられます。しかし、責めることがあります。それははじめの愛から離れてしまったことです(4)

どんなに熱心であっても、キリストの愛から離れると、やがてその熱心は「疲れてしまう熱心」に変質します。イエスへの真実な愛で始めたことが、いつの間にか競争心で駆り立てられることもあります。熱心さに疲れたなら、もう一度、はじめの愛に立ち返ってみてはどうでしょうか。頑張ることもできない罪人の私を、キリストはそのまま受けとめてくださったではありませんか。それがはじめの愛です。

また、キリストの愛から離れた熱心は「他者を責める熱心」とか「他者をさばく熱心」に変質します。これも困りものです。迷惑な熱心です。人にではなく、キリストに対して熱心であるべきです。

こんな時も「はじめの愛」に立ち返るのです。私たちの拠り所は、いつもキリストの愛です。わたしの愛のうちにとどまりなさいと言われイエスの御言を思い起こすのです。

教会史でいえば初代教会の時代です。この時代は聖霊に燃え、愛に溢れていました。キリストの愛が充満している時代です。ただ、このことから離れて、間違った教えが忍び込む時代でもありました。だから、使徒ヨハネはその手紙で何度も愛を強調しました。また、パウロの晩年の手紙では、はじめの愛から離れ堕落していく人々も報告されています。

※6節の「ニコライ宗の人々」とは、教会に階級制度を持ち込むことだと解釈される。教職者と信徒を区別し、教職者の中にも序列を設けたピラミッド型の教会形態である。

初代教会は愛を基としたネットワーク型の教会であり、ピラミッド型ではなかった。彼らは「ニコライ宗の人々のわざを憎んだ」。イエスもこれを追認なさっている。

(2)スミルナの教会(2・8~11)

迫害を受けながらも善戦している教会です。これからも受けるであろう試練のことを主はよくご存知です。9節のユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられているとは、ユダヤ教の律法主義者からの執拗な迫害のことと思われます。

迫害はなおも続くことが予告されています。投獄や殉教もあります。でも、終わりは必ずあります。「十日の間」とは、それが限られた期間であることを意味しています(10)

教会の試練はイエスご自身の戦いです。ご自分の体である教会が迫害を受けているのに、主が戦われないはずがりません。

だから、恐れてはならない」「死に至るまで忠実であれと励ましてくださいます(10)。その者には「いのちの冠」という賞が約束されています。スミルナの教会は責めるところがない教会です。迫害下にありながら善戦し、信仰を全うした教会だからです。

教会史でいえば、2~3世紀の「ローマ帝国による迫害を生き抜いた教会」に相当します。この時代は迫害に次ぐ迫害の時代でしたが、よくぞ生き抜いてくれました。彼らの殉教がなければ、今日まで信仰は受け継がれなかったでしょう。

(3)ペルガモの教会(2・12~17)

サタンの働きのまっただ中で勝利した教会です。「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけた」とはそのような状況です(13)。この勝利に至るまでには、最後まで信仰を捨てずに殉教した聖徒アンテパスもいました(13)

しかし、勝利の喜びで油断して、逸脱して行く危険性をはらんでいました。責むべきことが少しばかりあるというのです。それはバラムの教を奉じている者があるからです(14)

バラムとは、バラク王に買収された預言者のことです。旧約の民数記に記されています。バラムは異教の娘たちを利用してイスラエルの男たちをたぶらかし、偶像礼拝の習慣をイスラエルに持ち込むことを提案した男です。このことでバラムはバラク王から報酬を得たのでした。

そんな旧約時代の悪習慣が新約のキリスト教会にも入ってきました。バラムが王と結託して報酬を得たように、バラムの教えとは、国家権力とか世の利権と結びつくことを示しています。宗教と世俗の権力とが協力し合って共存共栄を目指したのです。

旧約聖書では、世俗の権力に取り入る生き方を「霊的姦淫」だと指摘しています。イスラエルにとって愛すべき夫である神を信頼せずに、エジプトとかアッシリヤと同盟を結んで生きのびようとしたのです。なのに、ペルガモ教会もそのバラムの教えを受け入れてしまったのです。

教会史でいえば、迫害に勝利したものの、ローマ帝国と同盟を結びローマの国教となった教会です。

紀元313年、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となりました。迫害の時代がようやく終わりました。でも、キリスト信仰は世俗の国家権力に承認されなければ成り立たないのですか。世が否定しようとも、神が義と認めてくださることこそ真の承認です。

やがて380年、ローマ帝国はキリスト教を国教として法律で定めました。これによりローマ帝国はキリスト教国となりました。ただ、この時点では他宗教も認められていましたが、392年にはキリスト教以外の宗教を禁じることになり、キリスト教徒でなければ不利な立場におかれる時代になりました。かつてはキリストを信じていると処罰されたのに、逆転して、キリストを信じない者が処罰される時代です。

こうしてキリスト教会は帝国と共に発展することになりました。キリストの花嫁であるはずの教会が、ローマ帝国の妻に成り下がってしまったのです。とはいえ、社会的には地位も上がり地上の豊かな富に潤うことになりました。

この時代は、バラムの教えの深みにのめり込んだキリスト教会です。だから、悔い改めなさいと主は言われます(16)。悔い改めないなら、キリスト自らが教会と戦われるとまで言われます。このままではキリストの敵となってしまいます。

15節ではニコライ宗の教えが入り込んできたことも指摘されています。エペソ教会では拒絶していたのに、ついにペルガモ教会では階級制度が導入されてしまいました。国教化された教会では、国の監督の下に教職者から信徒まで階級で統率され、世俗的な支配体制は強固なものになりました。

(4)テアテラの教会(2・18~28)

責められる点の多い教会です。でも主は、「あなたの行いと愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」と言ってくださっています。責められることのある私たちに対しても、主は公正にご覧になっています。そんな主の御前に、正直に歩む者でありたいと願います。

しかしながら主はイゼベルの働きを受け入れていることを責めておられます。「あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている」のです(20)

イゼベルという名の女預言者が当時いたのか、あるいは象徴表現としての「イゼベル」なのかわかりません。いずれにせよ、かつてイスラエルに偶像礼拝を持ち込んだイゼベルの働きを指摘しています。

かつてのイスラエルの王アハブは、異教の国シドンの王の娘であるイゼベルと結婚することによって、政治の安定をはかりました。しかし、それが霊的ないのち取りとなりました。

このイゼベルによってイスラエルに偶像礼拝が持ち込まれ、イゼベルの尻にしかれたアハブは、主の憎まれる悪を重ねた王として有名です。

このイゼベルのような働きは、昔も今も教会の中にあります。中世の教会もこの「イゼベルの教え」にすっかりやられてしまいました。異教の習慣を取り入れ、イエスではなくマリヤや聖人を崇拝し、教会の本来の姿から大きく逸脱しました。

イゼベルは、やがて黙示録後半から登場する大淫婦を想起させます。大淫婦は教会に霊的な姦淫をもたらす女として表現されていますが、このイゼベルのなれの果てと言えるでしょう。

そんな中でも、自分の持っているもの……つまり、キリストへの貞操であり、信仰を堅く保ちなさいと、冒頭の聖句は命じています(25)。信仰を堅く保つ者は「勝利を得る者」(26)です。

テアテラ教会は、教会史でいえば中世のキリスト教会の時代を現しています。

異教の日本、偶像に満ちた日本でイエスへの礼拝をまっとうするには、多くの試練を受けることでしょう。でも、主は、そのような日本で私たちが勝利者になることを願っておられます。それには報いがあります。「諸国民を支配する権威」です。これは来たる千年王国での栄誉ある立場のことです。

7つの教会すべてに、勝利する者への報いが記されています。教会が悔い改めて勝利することを願っておられます。神は、永遠の褒美を用意して、私たちの勝利を応援してくださっています。


ヨハネの黙示録 1章

2023年04月15日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 1章
恐れるな。私は初めであり、終りであり、また、生きている者である。私は死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉との鍵を持っている。
(1・17~18)


キリスト教会への迫害は、ローマ皇帝ネロによる迫害が有名です。紀元60年代のことです。この場合、ネロ自身の異常性からくる猟奇的なものでした。残虐性では際立つのですが、国家レベルの迫害ではありませんでした。

さらに歴史は進み90年代になってドミティアヌス帝の時代には、皇帝崇拝が強要されることで、国をあげての迫害となって行きました。従来の教会では「世俗の権威であっても従え」(ローマ13・1)と教えられてきましたが、皇帝崇拝は「神だけを礼拝せよ」との信仰の根幹に反することなので、クリスチャンは従わなかったのです。 ※その後も2~3世紀にわたってローマ帝国の迫害が続くが、各皇帝の時代によって迫害にも緩急の差があった。

使徒ヨハネが黙示録を記録したのは、ドミティアヌス帝時代にパトモス島に流刑された時のことです(黙1・9)。そんな試練の中で、イエス・キリストによって啓示された内容を記録したものです。

流刑の地でヨハネが見たのは栄光に輝くイエス・キリストでした。見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメンと記されています(黙1・7)

イエス様は復活後、雲に乗って天に引き上げられ、それと同じ有様で再び来られると約束されているのですが、そのことを指し示しています(使1・11)。また、預言者ダニエルが語ったキリストの来臨の様子も同じ描写です(ダニ7・13)

さらに、キリストの来臨を見る者は、かつて十字架で〝刺し通した〟あのイエスがキリストであると知って嘆く姿も、ゼカリヤ書12章10節に預言されているとおりです。

さて、ヨハネが目撃したキリストの様子が1章13~16節に記されているのですが、文字通りを絵にしてみるなら恐ろしお姿です。イエスの力強さや気高さを象徴的に現す描写であろうと思われます。このお方からの第一声が冒頭の聖句です。

(1)恐れるな。わたしは初めであり、終わりである。

私たちは「今」しか見ることができずに、今に振り回されます。今だけを見ていると、状況が悪くなれば恐れます。今に一喜一憂します。

しかし、 主イエスは、すべての事を始めたた方であり、終わりまで責任を持たれる方です。初めであり終わりであるとはそういう意味です。ですから途中である「今」は偶然ではなく、終わりの完成に向かっている今である故に恐れてはいけません。

私たちの「初め」は何ですか。それは、私たちが主イエスに似せて創造されたことです。私たちの「終わり」は何ですか。それは、私たちがイエスに似た者として完成することです。

私たちの主は、事をはじめておきながら、結末をこれから考えようというのではありません。気分屋さんが何となしに事を始め、迷いながらどこに向かおうかと模索しながら進んでいるのでもありません。

つまり、初めから終わりまで、すべて神の御手の中にあります。これが「初めであり、終わりである」「アルファでありオメガである」と言われる主イエスの宣言です。そんな主を信頼する故に「恐れるな」と言われています。

(2)わたしは生きている者である。

「生きている」が2回も述べられています。イエスは生きておられる方です。「死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている」お方です。

この力強い宣言は、迫害下にある人々に励ましと勇気を与えます。十字架の死は終わりではありません。永遠のいのちの始まりです。

生きておられる主を普段は見ることができません。でも、生きておられて私たちと共におられます。だから恐れてはいけません。

不慮の事故で失明した妻を支えた某夫の実話です。

目の見えない妻が職場に通うために、当初、夫は妻につきそって出勤し、帰宅時間になると、再び彼は自分の仕事を切り上げて妻の職場に行き、帰り道もつきそいました。

数ヶ月後、夫は、「ぼくも自分の仕事が忙しくなるので、これからは君ひとりで通勤してくれ」と提案しました。そして、そのために練習と準備を重ねて、ついに彼女はひとりで通勤することになりました。

初日はやっとの事で通勤できました。そして数日が経過した時のことです。ある人が彼女に、「あなたは愛されているんですね」と声をかけてくれました。

その人が言うには、彼女がバスに乗り降りするときも、家に入るときも、陰でそっと見守っている男性がいると言うのです。その服装や様子からして、その男性は自分の夫だと分かりました。

彼女は、自分に付き添ってくれない夫を冷たい人だと思っていたのですが、実は、彼女が自立できるように見守っていてくれていたことを知り、深い感動で涙したそうです。

イエス様は私の目には見えないだけで、この夫のように、いつも見守っていてくださいます。だから、恐れることはありません。

(3)わたしは死と黄泉ハデスとの鍵を持っている。

黄泉(ハデス)とは「死者の行く所」です。イエス様はその黄泉と死に関する鍵をお持ちです。死の牢獄から私たちを解放してくださるのは、その鍵を持っておられるイエスだけです。

また、罪ある者たちを死の牢獄に投げ込むのも、その鍵をお持ちであるイエスです。そのようなイエス様を、私たちは信じているのです。何を恐れることがあるでしょうか。

黙示録が記された迫害の時代と同様に、今日も不安や恐れの時代です。イエスがどのようなお方かを知ることこそ、恐れに打ち勝つ基本です。

さて、最後にひとこと。ヨハネの黙示録は難解な書物であるため人々は敬遠しますが、この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、幸いである。時が近づいているからであるとあります(1・3)。ですから読み続けることです。そして、この書に込められた再臨のキリストを待ち望むことの幸いを受けてください。

※随所に記されている「七つ」という表記は「完全性」を意味する。「七つの御霊」は直訳すれば〝七つの霊〟。つまり完全な霊という意味で聖霊のことである。聖霊が七つあるという意味ではない。同様に、「七つの教会」はすべての教会のこと。「七つの星」は「七つの教会の御使たち」と説明がある(20)。〝御使〟の原意は〝使い〟。それを天使だと解釈もするが、神から遣わされた使いの者という意味で、預言者や祭司の場合にも「主の使い」と表現される。つまり、教会に仕えるために主から遣わされた〝牧師たち〟とも解釈できる。「七つの燭台」は七つの教会を表すのであれば、同じ文脈では「七つの星」は七人の牧師たちという意味に解釈するのが妥当だと思われる。また、教会のことが「燭台」にたとえられている。世の光として燭台の火を消してしまわないようにとの御心が込められている。