ヨハネの黙示録 11章
この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。(11・15)
第11章からは、エルサレムの街と神殿 ――「聖所」とは神殿のこと―― に舞台が移ります。この記録は、長い間、現実のものとは思われませんでした。
なぜなら、ヨハネが黙示録を記録した時点では、すでにローマ軍によって都エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ユダヤ人たちは離散の民となっていたからです。ですから、神殿を舞台とする記述は、当時としてはあり得ない環境なのです。 ※エルサレム陥落が紀元70年。ヨハネが黙示録を記録したのは紀元90年代であったので、その時点で神殿は存在していない。
この聖書預言が実現するには……、
①エルサレムの都が再建されている。
②そこにユダヤ人たちが住んでいる。
③神殿が再建されていなければなりません。
ところが、1900年以上の歳月を経て、今や①と②が実現しているのです。黙示録11章の預言が実現する舞台が整いつつあるのです。ですから、やがて神殿も再建されるでしょう。しかし、かつて神殿が建っていた場所に、現在はイスラム教のモスクが建っています。容易い話ではありません。
この難題がどのように解決されるのかは、さらに時を経てみなければ分かりません。ただ考えられることは、反キリスト(「獣」と呼ばれる人物と帝国)とイスラエルとの契約によって、何らかのかたちで神殿再建が可能になるのかも知れません。
さて、その神殿について命令がありました。「神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい」(11・1)。測るとは吟味することです。終わりの時代のイスラエルの信仰のあり方を、神はお調べになるのでしょう。
しかし、「聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、42か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう」と記されています(11・2)。
旧約の律法によれば、神殿の外庭は「異邦人の庭」と呼ばれ、異邦人が入ることのできる場所として定められています。この患難期の神殿の場合は、異邦人(反キリストの民のこと)によって42ヶ月の間(3年半)踏みにじられるのです(11・2)。
ここで思い出されるのが、ダニエル預言の最後の1週(7年間)の半ばに、反キリストが契約を破棄して神殿をけがすという預言です(ダニエル9・27)。ダニエル預言の〝1週〟と黙示録の〝7年の患難期〟がここでも符合します。
次に、患難期には「ふたりの証人」が活動します(黙11・3)。彼らの活動する期間も1260日つまり3年半です(1年を360日で計算)。これは7年の患難期前半の3年半です。
ふたりの証人は7章4節にある14万4000人の伝道者とは別の人物ですが、ふたりはイエスの証人であり、ふたりの言動はユダヤ人をはじめ全世界の人々に影響を及ぼすことになるでしょう。
ふたりの証人のことを「全地の主の御前に立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である」と説明しています(11・4)。この描写はゼカリヤ書4章にも描かれています。2本のオリーブの木から油が供給されることで燭台の灯火が煌々と照る幻です。ふたりの証人たちの働きは聖霊の油を世に供給し、世の光として照らす働きとなるのでしょう。
ふたりの証人の活動拠点はエルサレムです。その街でふたりの証人は、先にイスラエルと契約を結んだ反キリストの正体をあばくでしょう。彼はいかにも自分こそがイスラエルを救い、世界さえも救うキリストであるかのように振る舞うが、その正体は偽キリストであり反キリストであると証言します。
「ユダヤの人々よ目をさませ。イエスこそキリストである」と証しをするのです。こんなことを証言されては反キリストも黙っていません。彼らを殺害しようとするのですが、1260日の期間が満ちるまでは手出しできません(11・5~6)。
こうして、ふたりの証人は、神の御怒りのさばきがくだることを世界に知らせると共に、人々に悔い改めをうながします。
かつて、モーセとアロンのふたりが、エジプトのパロに災いをもってさばきを警告し、悔い改めを迫りました。あのエジプトの事件は、世の終わりに実現する世界的規模のさばきの「ひな型」です。
そして、エジプトから神の民を救出されたように、神は、終わりの時代に、激しい御怒りを下しつつも、その中から神の民を救い出されます。そのために「ふたりの証人」を遣わされるわけです。そして、獣である反キリストを信じるのか、それともイエスこそキリストだと信じるのかが問われるのです。
「彼らがそのあかしを終えると……」と記されているように、ふたりの証人の活動が終わります。ここで患難期前半の3年半が終わるわけです。すると「底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す」のです(11・7)。
この獣とは反キリストのことです。彼は「底知れぬ所からのぼってくる」とあるように、一度は死んだかに思われたのですが、奇跡的に生き返って※、ふたりの証人を殺すのです。 ※13章3節の「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」とはこのことを意味するのであろう。
それまで誰も太刀打ちできなかったふたりの証人を殺したことで、反キリスト(獣)は人々から称賛され、その地位を強固にすると思われます。そして、彼は勝利を誇示するために、ふたりの証人の遺体をエルサレム※の大通りにさらします(11・8~9)。 ※「ソドムやエジプトにたとえられている大いなる都」とはエルサレムのことである。聖なる都であるはずのエルサレムが、反キリストを迎え入れてソドムやエジプトのように堕落していることを表している。
処刑の様子はネット配信で世界中に拡散されることでしょう。これは大ニュースです。速報が撃たれます。それどころか、ふたりの証人の処刑を歓迎する多くの人々が、贈り物をして喜び祝うというのです(11・10)。これは異様な光景です。
反キリストを支持する人々の目には、患難期の災いは、このふたりの証人が元凶だと見ていたからです。彼らさえいなくなれば一連の天変地異は終わると考えたのでしょう。だから、人々はこの処刑を喜び、贈りものを取り交わすのです。
しかし、神は、ふたりの証人を復活させ、天に引き上げられます(11・11~12)。この状況も、インターネットのライブ配信を介して、瞬く間に全世界の知るところとなるでしょう。
「ヨナのしるし(復活のこと)以外にしるしはない」(マタイ16・4)とイエスが言われたように、患難期においても、ふたりの証人の復活は、人々が救いを受ける最後のしるしとなるのです。
2千年前のイエスの復活の時もそうでしたが、罪人の心はかたくなです。それでも悔い改めない者へのさばきが遂にくだります。それが、第7のラッパに込められたさばきです。
この第7のラッパのさばきは「7つの鉢のさばき」のことで、具体的には第16章から記されています。まさに最後のラッパです。これによって悪を滅ぼし、神の支配なさる御国が完成します。
ですから、天では神の御国の完成の喜びを先取りするかのように賛美が歌われます。「この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(11・15)。主イエスの再臨を待ち望む現代の私たちも、この賛美を先取りして日々の礼拝で歌うのです。
黙示録のメッセージは一貫しています。どんな厳しい状況を経ようとも、神の御国の計画は実現に向かって力強く前進するのだ。だから希望をもって戦いつづけよとのメッセージです。
だから祈ります。御国が来ますように……と。
この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。(11・15)
第11章からは、エルサレムの街と神殿 ――「聖所」とは神殿のこと―― に舞台が移ります。この記録は、長い間、現実のものとは思われませんでした。
なぜなら、ヨハネが黙示録を記録した時点では、すでにローマ軍によって都エルサレムは陥落し、神殿は破壊され、ユダヤ人たちは離散の民となっていたからです。ですから、神殿を舞台とする記述は、当時としてはあり得ない環境なのです。 ※エルサレム陥落が紀元70年。ヨハネが黙示録を記録したのは紀元90年代であったので、その時点で神殿は存在していない。
この聖書預言が実現するには……、
①エルサレムの都が再建されている。
②そこにユダヤ人たちが住んでいる。
③神殿が再建されていなければなりません。
ところが、1900年以上の歳月を経て、今や①と②が実現しているのです。黙示録11章の預言が実現する舞台が整いつつあるのです。ですから、やがて神殿も再建されるでしょう。しかし、かつて神殿が建っていた場所に、現在はイスラム教のモスクが建っています。容易い話ではありません。
この難題がどのように解決されるのかは、さらに時を経てみなければ分かりません。ただ考えられることは、反キリスト(「獣」と呼ばれる人物と帝国)とイスラエルとの契約によって、何らかのかたちで神殿再建が可能になるのかも知れません。
さて、その神殿について命令がありました。「神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい」(11・1)。測るとは吟味することです。終わりの時代のイスラエルの信仰のあり方を、神はお調べになるのでしょう。
しかし、「聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、42か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう」と記されています(11・2)。
旧約の律法によれば、神殿の外庭は「異邦人の庭」と呼ばれ、異邦人が入ることのできる場所として定められています。この患難期の神殿の場合は、異邦人(反キリストの民のこと)によって42ヶ月の間(3年半)踏みにじられるのです(11・2)。
ここで思い出されるのが、ダニエル預言の最後の1週(7年間)の半ばに、反キリストが契約を破棄して神殿をけがすという預言です(ダニエル9・27)。ダニエル預言の〝1週〟と黙示録の〝7年の患難期〟がここでも符合します。
次に、患難期には「ふたりの証人」が活動します(黙11・3)。彼らの活動する期間も1260日つまり3年半です(1年を360日で計算)。これは7年の患難期前半の3年半です。
ふたりの証人は7章4節にある14万4000人の伝道者とは別の人物ですが、ふたりはイエスの証人であり、ふたりの言動はユダヤ人をはじめ全世界の人々に影響を及ぼすことになるでしょう。
ふたりの証人のことを「全地の主の御前に立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である」と説明しています(11・4)。この描写はゼカリヤ書4章にも描かれています。2本のオリーブの木から油が供給されることで燭台の灯火が煌々と照る幻です。ふたりの証人たちの働きは聖霊の油を世に供給し、世の光として照らす働きとなるのでしょう。
ふたりの証人の活動拠点はエルサレムです。その街でふたりの証人は、先にイスラエルと契約を結んだ反キリストの正体をあばくでしょう。彼はいかにも自分こそがイスラエルを救い、世界さえも救うキリストであるかのように振る舞うが、その正体は偽キリストであり反キリストであると証言します。
「ユダヤの人々よ目をさませ。イエスこそキリストである」と証しをするのです。こんなことを証言されては反キリストも黙っていません。彼らを殺害しようとするのですが、1260日の期間が満ちるまでは手出しできません(11・5~6)。
こうして、ふたりの証人は、神の御怒りのさばきがくだることを世界に知らせると共に、人々に悔い改めをうながします。
かつて、モーセとアロンのふたりが、エジプトのパロに災いをもってさばきを警告し、悔い改めを迫りました。あのエジプトの事件は、世の終わりに実現する世界的規模のさばきの「ひな型」です。
そして、エジプトから神の民を救出されたように、神は、終わりの時代に、激しい御怒りを下しつつも、その中から神の民を救い出されます。そのために「ふたりの証人」を遣わされるわけです。そして、獣である反キリストを信じるのか、それともイエスこそキリストだと信じるのかが問われるのです。
「彼らがそのあかしを終えると……」と記されているように、ふたりの証人の活動が終わります。ここで患難期前半の3年半が終わるわけです。すると「底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す」のです(11・7)。
この獣とは反キリストのことです。彼は「底知れぬ所からのぼってくる」とあるように、一度は死んだかに思われたのですが、奇跡的に生き返って※、ふたりの証人を殺すのです。 ※13章3節の「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」とはこのことを意味するのであろう。
それまで誰も太刀打ちできなかったふたりの証人を殺したことで、反キリスト(獣)は人々から称賛され、その地位を強固にすると思われます。そして、彼は勝利を誇示するために、ふたりの証人の遺体をエルサレム※の大通りにさらします(11・8~9)。 ※「ソドムやエジプトにたとえられている大いなる都」とはエルサレムのことである。聖なる都であるはずのエルサレムが、反キリストを迎え入れてソドムやエジプトのように堕落していることを表している。
処刑の様子はネット配信で世界中に拡散されることでしょう。これは大ニュースです。速報が撃たれます。それどころか、ふたりの証人の処刑を歓迎する多くの人々が、贈り物をして喜び祝うというのです(11・10)。これは異様な光景です。
反キリストを支持する人々の目には、患難期の災いは、このふたりの証人が元凶だと見ていたからです。彼らさえいなくなれば一連の天変地異は終わると考えたのでしょう。だから、人々はこの処刑を喜び、贈りものを取り交わすのです。
しかし、神は、ふたりの証人を復活させ、天に引き上げられます(11・11~12)。この状況も、インターネットのライブ配信を介して、瞬く間に全世界の知るところとなるでしょう。
「ヨナのしるし(復活のこと)以外にしるしはない」(マタイ16・4)とイエスが言われたように、患難期においても、ふたりの証人の復活は、人々が救いを受ける最後のしるしとなるのです。
2千年前のイエスの復活の時もそうでしたが、罪人の心はかたくなです。それでも悔い改めない者へのさばきが遂にくだります。それが、第7のラッパに込められたさばきです。
この第7のラッパのさばきは「7つの鉢のさばき」のことで、具体的には第16章から記されています。まさに最後のラッパです。これによって悪を滅ぼし、神の支配なさる御国が完成します。
ですから、天では神の御国の完成の喜びを先取りするかのように賛美が歌われます。「この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(11・15)。主イエスの再臨を待ち望む現代の私たちも、この賛美を先取りして日々の礼拝で歌うのです。
黙示録のメッセージは一貫しています。どんな厳しい状況を経ようとも、神の御国の計画は実現に向かって力強く前進するのだ。だから希望をもって戦いつづけよとのメッセージです。
だから祈ります。御国が来ますように……と。
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