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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

まるでモンサンミシェル「奥の州」@滋賀県長浜市湖北町

2024-01-13 05:27:45 | ネイチャー・旅行・まつり
昨年末より水位が下がり続けている琵琶湖
いろんな物が水面上に顔を出し、話題を集めています。

お城ファンとしては坂本城や膳所城の「石垣」や、



長浜城の「太閤の井戸」も訪れましたが、



今最も話題なのは「まるでモンサンミシェル」と呼ばれるまでになった長浜市の「奥の州」です。
「奥の州」は湖岸から100mほど沖合に浮かぶ小島ですが、なんと陸続きになってしまったのです。
その風景がまるでモンサンミシェルみたい、ということなんです。





場所は滋賀県長浜市湖北町延勝寺
長浜から北上する県道331号線
さざなみ街道(湖岸道路)沿いの野鳥が観察される「コハクチョウと夕日のまち」にあります。
1.5kmほど北には道の駅 湖北みずどりステーション(〒529-0365 滋賀県長浜市湖北町今西1731−1)もあります。→こちら

駐車場は、県道331号線を挟んで目の前にある「湖北町海老江駐車場」(〒529-0367 滋賀県長浜市湖北町海老江529 0367)が大変便利です。



訪れた1月5日の水位はマイナス76センチ



南側の湖岸と地続きになった奥の州










奥の州に上陸wしてみました。

西側の周辺は貝殻がびっしりと打ち上げられていました。


北西側


北東側




そのほかにも沖合に浮かぶ島では、湖底が一部露出しているのが確認できます。



竹生島の周囲でも湖底が現れていますが、さすがに陸続きにはならないでしょうね。




水上に移動記録を残せるという、面白い企画(ヤマップ投稿)
自分もやってみました。
before
Googleマップより


after
ヤマップ3D




行程図




【奥の州】
住所;滋賀県長浜市湖北町延勝寺
地図;

太尾山城@滋賀県米原市 2024年1月5日

2024-01-12 05:52:56 | 城歩き
お城検索は→こちら

太尾山城跡は、JR米原駅の東にそびえる太尾山にあります。築城年代は不明ですが、在地土豪の米原氏によって築かれたと言われています。
 文明3年(1471)には美濃の守護代斉藤妙椿が近江に侵攻し、米原山で合戦したとの記録があり、この山が太尾山ではないかと考えられています。天文7年(1538)の六角定頼による北近江攻めでは、永田氏などが太尾に布陣しているのが記録されています。天文21年には、京極高広が六角方の太尾山城の攻略を今井氏に命じていますが失敗。永禄4年(1561)になると浅井長政による太尾山城攻めが開始され、攻撃に加わった今井貞清が夜襲で誤って味方の槍を受け討ち死にしますが、ようやく攻略して中嶋宗左衛門慰を入れ置きます。元亀2年(1571)、織田信長による浅井氏攻めで佐和山城が開城すると、中嶋宗左衛門慰も太尾山城を退き、以後廃城になりました。
 太尾山城跡は標高254mの山頂にあります。北城と南城から構成される「別城一郭」の構造で、南近江との境目の城である磯山城跡や菖蒲嶽城跡なども同じ構造です。土塁を巡らせた曲輪や、尾根筋を切断する堀切などが要所に設けられています。、、、米原市教育委員会


場所は滋賀県米原市米原、JR米原駅東口の正面にある山です。
国道8号線「米原駅東口交差点」から東側の山に向かって旧町内を抜けて進むと、「湯谷公園」があります。周囲には「湯谷公民館」や「米原幼稚園」などが有ります。公園の右手が「湯谷神社」、左手が「清岸寺」で、それぞれ太尾山城の登り口になりますが、自分は「湯谷神社」から登りました。

ヤマップ3D
JR米原駅東口、湯谷神社、南城、北城との位置関係




湯谷神社



湯谷神社登り口



登城道
遊歩道は整備されていますが、途中道幅が狭くなっているところがあるので要注意
九十九 折の坂は緩く見えても、延々と続くので心臓破りの登り道でした。



登り始めて20分ほどで南城・北城の分岐に到着
尾根上の二つのピークの間に谷筋が合流している地点に大きな堀切を施して、それぞれのピークを独立させているという感じです。

北尾根沿いの谷筋



北と南のピークを分断する堀切



右手・南方向が「南城」登城口



左手・北方向が「北城」登城口




【南城】
まずは「南城」から攻略します。

南城は標高242.4mの山頂に築かれています。
方形の主郭を中心に尾根筋を階段状に削平して曲輪を配し、南北端の尾根筋には巨大な堀切を設けています。発掘調査の結果、主郭からは礎石建物跡が発見され、多くの土師器や白磁器が出土しており、居住施設があったことがわかりました。




主郭切り岸


主郭土塁
南城主郭では東面にのみ土塁が築かれているのが特徴です。
発掘調査から盛り土ではなく、削り出して造られたもので有ることがわかりました。


北東隅部は面積も広く櫓台であったと考えられています。



南城からの眺望




2郭


2郭土塁



3郭



南端堀切







【北城】
ここで分岐の堀切に戻り、北城を攻略します。

北城は標高254.3mの山頂に築かれています。
北辺に土塁を巡らせた主郭と南方の3段の曲輪からなり、先端は堀切によって尾根筋を切断しています。また、主郭北側の急斜面直下に位置する土塁に囲まれた小曲輪からは、敷地全域を総柱とした礎石建物跡が発見されており、櫓もしくは倉庫であったと考えられます。ここからは土師器をはじめ中国製の磁器、白磁などが出土しており、16世紀後半に築かれたものであることがわかりました。



しばらくは尾根上のいわゆる馬の背が続きます。



堀切



途中何カ所か規模は小さいながら、平坦な場所が階段状に続いていましたが、どこも草に覆われ分け入ることができませんでした。







主郭切り岸が見えてきました。ここからふもとの清岸寺との分岐になります。



北城主郭


主郭


土塁
北城、南城ともに中心曲輪の周囲には土塁が設けられていました。


土塁



北城主郭からの眺望







ヤマップ行程データ
湯谷神社からの比高約170m
移動距離約1800m
行動時間1時間12分




【太尾山城】
《境目の城、別郭一城》

名称(別名);
所在地;滋賀県米原市米原
城地種類;山城
標高/比高;254m/-
築城年代;不明、文明3年(1471)以前
廃城年代;元亀2年(1571)以降
築城者;米原氏
主な改修者;
主な城主;京極氏,佐々木六角氏,浅井氏,織田氏
文化財区分;市指定史跡
主な遺構;土塁,郭,堀
近年の主な復元等;


※出典、、、米原市教育委員会ほか
地図;


歓喜寺城・観喜寺山城@滋賀県大津市大物 2024年1月5日

2024-01-11 05:34:08 | 城歩き
お城検索は→こちら

歓喜寺についての歴史は古く、最澄によって延暦年間(782~805)頃に建立されたと伝えられ、弘安3年(1280)の裏書のある荘園絵図である『比良荘絵図』にも記載されています。絵図にも記載されることから比良山を代表する寺院のひとつであったと考えられますが、現在は、文禄元年(1592)に建立された「薬師堂」のみが法灯を伝えています。寺域へと至る道沿いには、文化5年(1808)の紀年銘を持つ万人講の常夜灯が残ることからも、江戸時代以降も人々の往来が盛んだったことがわかります。なお、薬師堂までは舗装された林道を通ってたどり着くことができます。


【歓喜寺城】
薬師堂付近の林道沿いには石垣を伴う寺坊跡と考えられる区画された複数の平坦面が並びます。歓喜寺は戦国時代後期頃に城郭化された時期があったとみられ、連続する寺坊跡を分断するかたちで幅8~15mに及ぶ3条の大規模な堀切が残っています。

【観喜寺山城】
また、寺坊跡は谷筋に築かれていますが、これらを見下ろす尾根上にある2つの小ピークを中心に山城が築かれています。山城部分では曲輪を部分的に囲う土塁や複数の小規模な曲輪をはじめ、小ピークをつなぐ尾根の鞍部に築かれた幅5mの堀切といった城郭遺構を見ることができます。
さらに、谷筋にある寺坊跡から続く下方では、一見すると石垣のように石材が斜面や通路の両側に高く積み上げられている部分があります。この部分は近代頃の採石場であったと推測されます。明治13年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』には、この地域(旧志賀町域)の特産品として「石燈籠」や「石塔」などが挙げられており、歓喜寺遺跡の周辺も石材供給地のひとつであったようです。
寺坊跡の石垣は面を揃え、それぞれがうまく組み合うように積まれていることに対し、この部分では単に「積み上げただけ」という印象を受けますが、これは斜面の土留めと通路の確保とともに、割り出した石材のストックとしても積み上げられていたのではないかと考えられます。、、、滋賀県文化財保護協会HPより


【場所は】
滋賀県大津市大物(だいもつ)
国道161号志賀IC下車、湖西道路志賀バイパスの下をくぐり、平行する側道をを高島市方向に進み、大物集落方向へ左折します。四ツ子川の左岸(上流から下流に向かって)を山に向かう林道に入りると「百間堤」です。

ヤマップ3D
百間堤、歓喜寺城・観喜寺山城との位置関係




「薬師堂」へは橋を渡って、別荘地のような住宅街の中を抜けると「右 やくし堂」と書かれた看板があります。看板に従って右に曲がり林道を上ります。


林道途中の分岐看板



途中一度では曲がりきれないヘアピンカーブのところに「仏の穴50m」の看板が立っており、ここが「歓喜寺山城」の登り口となります。



このヘアピンカーブのところからさらに500m程登ると突き当たり右手が「薬師堂」です。





【観喜寺城】

「観喜寺城」はその左手の尾根筋にあります。



薬師堂向かいの林道沿いに、虎口らしき切れ込みを発見。よじ登って、中に入ってみました。




曲輪側からの虎口と石垣




虎口隅石



曲輪土塁



石塁



土塁と石積み


上段の曲輪との間、尾根を分断する堀切





上段の曲輪



さらにその上の曲輪との間、尾根を分断する堀切



林道突き当たりから見える城郭部の堀切が二カ所




林道に停めたジムニーと歓喜寺城がある尾根


薬師堂



林道途中、土橋に見えるが


堀切も



【歓喜寺山城】
ヤマップ3D
歓喜寺城・観喜寺山城位置関係



林道途中にある一度では曲がりきれないヘアピンカーブのところ。
「仏の穴50m」の看板が立っており、ここが「歓喜寺山城」の登り口となります。


そこから50mほど進むとさらに「右 仏の穴」の看板があるので、左側を登っていきます。


明確な遊歩道は有りません。
藪の中を登ります。



一つ目の堀切です


斜面へは縦に落とし込んでいます



堀切上段の作平地





さらにその上の堀切




主郭下堀切





主郭


主郭土塁



主郭の高台は見張り台か?


主郭から見下ろした段郭と堀切



主郭からの眺望




織田信長による比叡山攻めのおり、観喜寺は守備のため宿坊などを改修して寺院城郭と変貌したようです。その後攻められ廃城となったようですが、その際持ち出された秘宝?を埋葬した跡地に建立されたのが薬師堂です。
いっぽう、山の尾根に築かれた「観喜寺山城」は物見櫓を備えた砦のような役割があったものと考えられています。
近江の山から産出される石材と加工技術は、その後寺院建築で発展、城郭に転用されていったと思われます。
※イメージとしては
石の山→石材→寺院→加工技術→城郭寺院→城郭


ヤマップ行程データ
林道「仏の穴看板」からの比高130m
移動距離1000m
行動時間60分でした




【歓喜寺城、観喜寺山城】
《》

名称(別名);
所在地;滋賀県大津市大物
城地種類;山城・城郭寺院
標高/比高;
観喜寺山城;「仏の穴」登り口より376m/131m
築城年代;戦国時代
廃城年代;戦国時代
築城者;観喜寺
主な改修者;
主な城主;観音寺
文化財区分;
主な遺構;曲輪、石垣、土塁、堀切
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;



百間堤@滋賀県大津市大物

2024-01-11 05:30:39 | ネイチャー・旅行・まつり
ひゃっけんづつみ
大物の山手、四ツ子川が谷間を抜けた所に、直進する流れを南に流すよう石積の堤が築かれている。洪水ごとに何度も決壊した場所で、現在の石積は、嘉永5年(1852)の洪水後、6年近い歳月を費やして完成したと伝えられる。堤の上巾15m、長さ200mの堤。、、、大津市歴史博物館

四ツ子川の堤は、古くは天和元年(1681)頃から築造の記録があります。その後、江戸時代後期まで修復増築を重ね、石堤部分(約420m)と砂堤部分(約1200m)からなる巨大な堤でした。
 この堤は、江戸時代を通じて、豪雨の度に破損したため、領主(幕府や藩)と地元住民による労役によって何度も修復されました。特に嘉永5年(1852)7月22日(現在の9月6日)に起こった暴風雨を伴う山崩れの激流は、堤に甚大な損害をもたらし、大きな決壊が四カ所発生したという記録が残っています。この決壊により、家屋は流れ、田畑も荒れました。地元の住民は、領主である宮川藩(藩主・堀田正誠)に請願し、宮川藩の主導の下地元や近郷の労働力で大修復が行われ、工期5年8ヶ月をかけ、現在の姿の石堤「百間堤」が完成しました。その工事に関わった人は延べ10344人を数えます。この修復工事には女性も参加しており、女性が運べる石を用いたとされる「女堤」が百間堤の下流左岸部に作られています。
 「百間堤」は、現在に至るまで、約200年の間集落を守り続け、地域の生活用水と30町歩を潤す農業用水を供給する調整機能も有し、まさに防災だけでなく、地域に水の恵みをもたらす貴重な歴史遺産といえるでしょう。、、、現地案内板より

場所は滋賀県大津市大物(だいもつ)
国道161号志賀IC下車、湖西道路志賀バイパスの下をくぐり、平行する側道をを高島市方向に進み、大物集落方向へ左折します。四ツ子川の左岸(上流から下流に向かって)を山に向かう林道に入ります。ダートな林道をしばらく登ると左手に巨大な石積みが見えてきます。


四ツ子川
橋を渡って別荘地のような住宅街へ進むと「歓喜寺城・観喜寺山城」ヘ行く
ヤマップ3D
百間堤と歓喜寺城・観喜寺山城との位置関係





写真右側の林道から上流へ登っていく


林や砂の堤防の脇を抜けて進むと突然石積みが現れる





しばらくすると「百間堤」の現地案内板があります。


まるでお城の鏡石のような巨石


背後は北の方向にある、堂満岳でしょうか?



細い水路も石垣で区画されていました。








さらに四ツ子川を上流に遡ります


現代に築かれた砂防ダムも見えます






上流の堤防端は土と石が混ざった状態




日本各地に伝統的な水防対策があるそうで、百間堤もその一つです。
土を盛った堤であったり、松を植えて切り倒すことで水圧を減じたり、石積みの堤であったり。
急峻な山から流れ出た水が谷川を氾濫させるという、日本の地形の特徴ですね。

それにしてもお城の石垣にも匹敵するような本格的構造に感動しました。


【百間堤】
概要;長さ/百間(約180m)、幅/十間(約18m)、高さ/川面五間(約9m)
   大修復工事棟梁/若狭国石積み名人佐吉
   出役人夫賃/一日 男米一升、女米五合
   石積み工法/穴太積み
住所;滋賀県大津市大物(だいもつ)
地図;

長浜城・太閤の井戸@滋賀県長浜市

2024-01-10 05:25:56 | 城歩き
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2024年1月5日
【長浜城・太閤井戸】
滋賀県長浜市
秀吉時代の長浜城の数少ない遺構の一つ、「太閤井戸」
琵琶湖の水位が低下した時にしか現れないそうです。
この日の水位はマイナス76センチで、井戸の石碑から沖合まで完全に露出していました。























【長浜城】
《》


名称(別名);
所在地;滋賀県長浜市公園町10-10
城地種類;平山城
築城年代;天正元年(1573)
築城者;羽柴秀吉(豊臣秀吉)
主な城主;羽柴氏、堀氏、柴田氏、山之内氏、内藤氏
文化財区分;
近年の主な復元等;城の一部は琵琶湖に水没(水中遺跡)
天守の現状、形態;1983年鉄筋コンクリート模擬復元(市立長浜城歴史博物館)
地図;

坂本城@滋賀県大津市下坂本

2024-01-08 05:03:48 | 城歩き
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2024年1月5日
【坂本城】
滋賀県大津市下坂本
昨年より渇水が続く琵琶湖で坂本城の石垣が露出しています。
午前7時15分 湖東の山から朝日が昇り「石垣と日の出」のコラボに遭遇しました。


























021年10月9日(この年も渇水期に当たっていました)
桟橋


2024年1月5日




2021年10月9日
石垣列の一部が露出



2024年1月5日




同じアングルを比較するとよくわかります。




【坂本城】
《》

名称(別名);
所在地;滋賀県大津市下坂本3丁目
城地種類;水城
築城年代;1571年(元亀2年)
築城者;明智光秀
主な城主;明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政
文化財区分;なし
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;不明(天守と小天守が推定されている)

※出典、、、
地図;


令和6年能登半島地震 第2弾

2024-01-02 11:48:11 | 日記
令和6年能登半島地震

水道が止まったままなので、備蓄のペットボトル入天然水で対応しています。
トイレはお風呂の水を汲んで、水洗タンクに移し替え利用しています。

長引くと困るのでジムニーにガソリンを入れるべくガソリンスタンド(GS)に行ってきました。
最寄りのGSは臨時休業でしたが、スタッフが営業中のお店を紹介してくださり、そちらへ回りました。
しかし、皆さん考えることは同じとみえ、給油待ちの大行列となっていました。
並ぶこと30分、ようやく給油できましたが、そのうちに給油制限、または在庫切れとなるのは必死です。




給油した帰り道、道の駅氷見番屋街へ寄ってみました。
こちらは海岸に面した場所で、埋め立て地なので「液状化」が発生し、亀裂からは水と砂が噴出し、一面ドロの海と化していました。
もちろん駐車場は立ち入り禁止で、お店等は臨時休業です。















旧市街の北大町周辺は通行止めとなっていましたので、歩いて様子を見に行ってきました。
番屋街周辺と同じく液状化と亀裂で、道路に面した民家・商店・寺社は大変な状況となっていました。

入り口のガラス戸は割れ、柱は折れ、液状化で泥の海。
神社の鳥居は倒壊し、一部の商店は一階が押しつぶされていました。





















通行止めを迂回しようやく国道に出ましたが、アスファルトには亀裂が走り、橋の付け根には10センチ以上の段差が発生し被害の大きさを物語っています。


また途中で目にした給水所では、水を求めて並ぶ大勢の行列は尋常ではありません。


1月2日午前10:30
ようやく水道が復旧したかにみえましたが、まだ濁りが残り断続的に出たり出無かったりを繰り返しています。
とりあえず浴槽とヤカンなどに備蓄しておきましたよ。
水は大事ですもんね。




令和6年能登半島地震

2024-01-02 05:52:30 | 日記
令和6年(2024)1月1日午後4時6分に
能登半島珠洲を震源として発生したM5.7の地震





初詣から帰って、居間でテレビを観ながらお酒を飲んでいたところだったので、

いつものヤツという程度の軽い認識でしたが、

その後(4時10分)に発生した本震?は

未だかつて経験したことのない強い横揺れが長い時間続きました。

ガラス戸はガタガタと激しく音を立て、天井の照明器具は左右に揺れ動き、隣の台所からは何かが落下して凄い音と震動が伝わってきました。

いつ終わるかわからないこの揺れは、恐怖でしか有りませんでした。

もちろん立ち上がることなどできません。


震源地は能登地方で最大震度7

氷見市でも震度5強を観測し

大津波警報が発令される事態となりました。



我が家では家具の転倒防止対策をしていたので、家財や家屋の損害、身体への被害はありませんでした。

しかし、棚からものが落下したり倒れるなどしてして、食器や什器に若干の被害が発生しました。






ビフォアー(15:06)


アフター(16:15)













古い木造家屋のため2Fの方が揺れが強く1Fの居間で寝ましたが、

その後も連続して発生する余震で不安な夜を過ごしました。

ライフラインですが

発災時瞬間的に停電しましたが、電気は大丈夫です。

しかし断水が続き、氷見市によると水道の復旧のめどは立っておらず、

1月2日からは給水車による給水をはじめるとのこと。

自宅では浴槽の水をトイレの水洗タンクに移し替えて使用しています。

飲料水については、

昨年の猛暑で会社から支給された天然水を備蓄していたので、給水を受ける必要はなさそうです。








ここ3年位前からお隣、

石川県能登半島の先端に有る珠洲市周辺を震源とする群発地震が発生しており、

その影響を多少とも感じていましたが、

まさか、氷見でもこんな大きな揺れを感じることになるとは、思ってもみませんでした。

地震被害の少ない富山県なので、すっかり油断していました。



屋外に設置してある灯油タンクの転倒防止対策や、

食器棚などの観音開き(両開き)戸からの飛び出し防止対策、

高いところに物を置かない(落下防止)など、

改善すべき点も多数有ることがわかりました。