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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

弓庄城@富山県中新川郡上市町舘 令和三年(2021)7月24日

2021-07-31 08:07:24 | 城歩き
お城検索は→こちら

富山城郭カードは→こちら


地元紙北日本新聞「とやまお城探検隊」の記事を参考に「郷柿沢館」からの連続登城
とやまお城検索は→こちら

今回のキーワードは「富山県上市町周辺の城舘跡」、「同地を治めた有力国人・土肥氏の城」、そして「歩きやすく・クマのいない場所」(笑)

埋蔵文化財包蔵地 弓庄城跡
本城跡は、戦国時代新川郡一帯を領していた土肥氏の居城跡である、土肥氏は相模国土井郷(伊豆河原町付近)を本領とした土肥次郎実平(源頼朝の功臣)を祖とすると言われている。越中入部は正平年間(南北朝期)であったと伝えられている。当初は堀江荘(滑川市堀江)に本拠があったと言われるが、室町時代から戦国時代には次第に在地領主化していったものと考えられる。その課程の中で本拠を本地に移していった。天正年間には越中平定を目指す佐々成政の攻撃を受け一年余りの激しい攻防の末開城した。ここに土肥氏の支配は終焉を迎え、佐々成政の越中支配が確立した。
 城の範囲は、南北約600m、東西約150mにわたるが、そのうち本丸にあたる約20000㎡が上市町指定史跡の対象地となっている。
ここでは昭和55年から5年間にわたって発掘調査が行われ、濠跡・土塁・建物跡・井戸などの遺構が見つかった。また、灯明皿・珠洲焼・中国製磁器などの焼き物のほか木製品(箸・柄杓・下駄・曲げ物・櫛)などや、金属製品(刀。鎧片・鉄砲の玉・かんざし)など多数の遺物が出土しており、当時の暮らしの様子がうかがわれる。
周辺はその後圃場整備で姿を変えたが、本丸周辺はそのまま保存されており、往時を忍ばせている。(富山県教育委員会、上市町教育委員会)、、、現地説明板より


場所は富山県中新川郡上市町舘
城跡の目の前に建つ「弓の里歴史文化館」を目標にすると良いでしょう。
北陸道立山ICから県道3号線に左折、すぐに100円ショップ・セリアの交差点を右折、白岩川を渡り環状交差点を右折「女川交差点」を直進してテニススクールを過ぎると左手山の方向に「常楽園デイサービス」が見えます。「弓の里歴史文化館」はその隣、城跡はその向かいという位置関係です、

【弓の里歴史文化館】


HPは→こちら
住所;〒930-0474 富山県中新川郡上市町舘182
開館時間;9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日;月曜日(祝祭日の場合はその翌日)、年末年始(12/29~1/3)
料 金; 無料
地図;


弓庄城跡は現在圃場整備等により縄張りの遺構が失われています。
なので「弓の里歴史文化館」に展示・収蔵されている弓庄城の資料はたいへん貴重です。発掘調査で出土した大量の遺物や、後世の絵図等の縄張り図、城主土肥氏と領地支配の歴史等を予習してから、城跡を歩くよ良いでしょう。

館内


遺構写真
発掘調査の結果、土塁や堀、石垣の他、建物跡、井戸、墓地などが見つかっています。


出土品
大量の土器・陶磁器類などの生活用品や、茶の湯にまつわる品も出土しています。

出土品
漆器類、下駄や櫛などの木製の生活用品も大量に出土しています。


その他武具・武器や鉄砲の玉なども多数出土しており、戦国という時代を感じさせます。


江戸時代に描かれた弓庄城跡の絵図、、、(同資料館に展示)
方角を揃えるために縦向きにしました。
赤色は現在の施設と写真番号に対応
青色は絵図に記されている内容(上市町教育委員会資料より)



当日の行程図
現在の地図(googleマップ航空写真)におおよその縄張り図を重ねてみました。
(黄色い線は歩いたルート、赤色は遺構の説明板、白は地形の段差を現わします)



以下マップの中の番号に従って写真を添えます。


①弓の里歴史文化館の前に広がる弓庄城址
写真は南から北方向(駐車場)
絵図では〔ここに土居(土塁)がありその上には藪植物(植栽)が植えてあったと記され、土塁と本丸の間には東側の山から水を引き入れ竜が池と云う水堀が記されています〕
〔 〕内は上市町教育委員会資料より以下同



あぜ道より右手が本丸方向、左手が絵図に描かれている南端の出丸のような曲輪があった方向
絵図によると〔家老有沢屋敷跡〕とあります。



②「弓庄城碑」
中央のあぜ道を進むと右手に「弓庄城碑」が建立され、周囲が整備されています。


背後が本丸跡
記念碑のある場所が〔馬出曲輪と推測されており、南東隅には櫓台跡が描かれています〕



弓庄城碑の背後に広がる本丸跡(南東隅)
〔本丸の三か所に隅櫓台跡が描かれています。〕


振り返ると弓の里歴史文化館が見える



③本丸西面
一段目から二段目、地形的段差なのか切岸なのか
〔本丸西側の切岸には石垣が描かれ、水堀を挟んで西側は沼田と記されています〕


同切岸
二段目から三段目
〔水堀が描かれています〕の辺りか



④本丸西面遠景
上段・中段・下段と西に向かって下がっていく地形を利用したものか
〔上段法面が本丸石垣があったとされる場所、その下に水堀が掘られ堤で一段高くなっていた記されています〕



⑤本丸西面切岸の北側から南方向を見る
〔本丸西面の石垣は幾重にも「折れ」が設けられ横矢が掛かるように描かれています〕



⑥城址北端
民家裏にある三段目段差、ここも切岸だったのでしょうか
本丸北側の曲輪、道路で分断されている可能性もある
〔発掘の結果弓庄城以前の日置荘園の時代のものと考えられているそうです〕


同斜面と石積み
多分出土した石を後年再利用したと思われます


同二段目段差
圃場整備で出た石でしょうか



⑦本丸北城外の西面
圃場整備された段差
〔城域北端には石垣と水堀があり、北側虎口にカケ橋の跡が描かれています〕



⑧北側曲輪、水田で見つけた石積み
まさか当時の石塁と堀???
多分圃場整備で出土した石を水路の堰に再利用したんでしょうね
〔城域北端の石垣は中心に橋(カケ橋)が架かり、幾重にも石垣が折れており横矢が掛かるようになっていたように描かれています〕


同、作業小屋で見つけた石垣(笑)
水田を耕作した際に出てきた石の捨て場に困って、積み上げてみたんでしょうね




⑨北城外から本丸方向を見る
本丸台地は西側と北側にも傾斜しており、その頂点にあったようです。

写真手前が北側曲輪
奥の左手方向に見えるのが資料館と本丸碑
右(西側)に傾斜した地形〔本丸西側の切岸には石垣が描かれ、水堀を挟んで西側は沼田と記されています〕
手前(北側)も同じように傾斜した地形〔大手虎口〕の外枡形、内枡形があったと推測できます



⑪本丸北側より
〔本丸北端には石垣と水堀があり、北側虎口に土橋と記されています〕内枡形虎口だったのでしょうか



⑫本丸西側より
〔本丸南側と西側に曲輪が描かれている。土塁と虎口が描かれており、南側曲輪は馬出曲輪、西側曲輪は虎口と馬出を守る役割があったと考えられるそうです〕



⑬北側曲輪東方向
〔城域北端の石垣は中心に橋(カケ橋)が架かり、幾重にも石垣が折れており横矢が掛かるようになっていたように描かれています〕
奥(東)は歴史館
右手(南)は本丸方向内枡形?
左手(北)は城外方向外枡形?



⑭北側曲輪東端
現在歴史館の駐車場として利用されています
外枡形?のあたりか



【まとめ】
ハッキリとした土塁や堀・曲輪がわからず、一面の田んぼにしか見えない(笑)
しかし、資料館収蔵の弓之庄古城之図(土肥家の家老だった有澤氏の一族で後に加賀藩の軍学者になった有澤永貞が、廃城から80年ほどたったころに現地を訪れ描いた「土肥家記」に付録)が想像を掻き立てる。
現物が無いので妄想が掻き立てられる。
せめて現地に説明看板があればもっと分かり易く、自分のようなシロートにも楽しめるのではないかと思います。

上記絵図にはめ込んだ番号は個人の推測です。
また写真に付した説明の内「上市町教育委員会資料より」引用した部分には、個人の感想がこもっている場合がありますので怒らないでください。

重ねて申し上げますが、これは学術調査報告書ではなく、ミーハージジイの戯言ですので、その点を踏まえて楽しんでいただければ幸いです。


【弓庄城】
《弓庄系土肥氏の重要拠点》



名称(別名);ゆみしょうじょう
所在地;富山県中新川郡上市町舘
城地種類;山城
標高/比高;
築城年代;永正年間
廃城年代;天正11年(1583年)
築城者;土肥政道
主な改修者;
主な城主;土肥氏
文化財区分;上市町指定史跡
主な遺構;土塁 堀跡 井戸跡
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;



郷柿沢館@富山県中新川郡上市町郷柿沢 令和三年(2021)7月24日

2021-07-29 04:15:32 | 城歩き
お城検索は→こちら



2021年4月から地元紙北日本新聞に「とやま・お城探検隊」というコラムが掲載されていることは以前このブログで紹介しました。→こちら

今の時期の山城歩きは下草が伸びて地形(堀や土塁、石垣)が分かり辛いのであまりお勧めではありません。ましてや熊との遭遇の危険性が高く、非常にリスキーです💦

そんな時は「とやま・お城探検隊」の記事が参考になります。
足場が良くて人家に近いところ、できれば平城か平山城がおススメ。見どころや歴史的背景も説明されているので凄く参考になります。
そこで今回見つけたのが、この「郷柿沢館」と「弓庄城跡」(後日公開予定)
場所を調べ、梅雨の晴れ間に突撃です。

場所は富山県上市町郷柿沢九日田
北陸道立山・上市IC下車→県道3号線(富山立山魚津線)にて魚津方面→上市市街を抜け、県道46号(上市北馬場線)との交差点(郷柿沢信号)の北西角です。
北陸道・上市スマートインターチェンジからは、県道46号(上市北馬場線)→上市川を渡り富士化学KK守衛所前を通ると数分で県道3号線との交差点(郷柿沢信号)に至ります。

郷柿沢館は現在「西養寺」となっています。なので同寺を目標にすると良いです。



東西73m南北80m、面積5840㎡の複濠複廓式の屋敷跡である。周囲に幅2mから7mの濠を持ち、その内側に高さ幅共に2mから4mの土居を有するもので、これほどよく残るものは極めて稀である。
 この館は中世(室町時代)に新川一帯を領した土肥氏の一族の館であったが天正年間、土肥美作守政繁が佐々成政に敗れた後、戦いに参加しなかった弥三五郎が俗家して農業を営んでいた。それより先、一向衆徒が宗門を守るため時の権力に抗して一揆をおこし、天正の初めには豪族、椎名兵部も兵を率いて石山合戦に参加、帰国後西養寺を開基したと言われている。現在の住職(篠原氏)は、椎名一族の直系と言われているが、土肥一族と深い係わりがあると言われている。(上市町教育委員会)
、、、現地説明板より


まず城郭(屋敷跡)平面図で当日の行程を説明します。、、、上市町教育委員会作成(ブログ管理者加筆)



正面(西側)にある山門脇に指定史跡の案内看板が建っています。


西養寺本堂


境内から見た山門



外周をぐるっと回って外観を確認。

県道46号線に面した入り口(館の北西隅)


正面にあたる西面
山門を挟んで北側の土塁と堀の外観


同じく南側の土塁と堀の外観


館南面(写真は南西隅)


東面は県道3号線に面してはいるものの、民家とお墓が立ち塞がり、外観写真の撮影はできませんでした。


それではゆっくり見て回りましょう。
なお境内は私有地なのでお寺の許可を得てください。とても気さくでお話上手な住職で、たくさんお話を聞かせて頂きました。

正面(西面)虎口
土塁の外側は水堀です


山門北側の土塁と石積み
クランクした土塁の表面には割石を積み上げています


明確な算木積みとは言えませんが、稜線を揃えたた角石です。



西面の山門を挟んだ南側には満々と水を湛えた水堀が現存しています。この部分は後世に広げられたものとみられるそうです。
また、この部分の土塁は他の三面の土塁に比べ、高さも幅も大きく南西隅には櫓などが存在したと考えられています。



南西隅の堀と土塁
拡幅された堀には水が湛えられているが、拡幅以前の堀の部分では泥が堆積して水位は低い。



北面土塁と堀
堀には水が確認できます。



北東隅土塁
近年の削平などにより隅櫓の痕跡を確認することはできない。



東面土塁
本堂背後に残る土塁。


県道3号線側民家との間に残る堀にも水が確認できる。


東面土塁線上を北から南に向かって歩く
竹林となっており、細かい根っこが地盤を固めて崩壊を免れていたものと思われます。



東南隅土塁
隅櫓の跡と思われる隅部の盛り土。その奥に喰違虎口が見える。



南面土塁の「喰違虎口」


注目されるのは、堀の喰違であり、土橋を渡って虎口に入る進入路もカギ状に折れている。
また土塁外側基部に犬走上の細長い段が巡っていたそうです。


南面の虎口
現在生活道路として使われていますが、後世に土塁を切り崩した開口部だと考えられています。


同虎口の石積み
土塁の崩落防止の土木工事?


同虎口西側土塁
南西隅方向にも隅櫓があったと考えられています。





【まとめ】
こうした平面形の館跡は珍しくありませんが、水堀と土塁が現在まで良好な状態で残されている例は極めて少なく、大変貴重です。、、、「とやま・お城探検隊」

お寺の境内としてはコンパクトですが、そこに詰め込まれた歴史は深く大きいものがあります。
450年以上姿を変えなかったということには、強い意志が感じ取られます。
それは一種の誇り(守護代・松倉城主椎名氏の子を招いて創建した、椎名氏直系の家系)が理由の一つだったのかもしれませんね。


【郷柿沢館】
《水堀と土塁が明確に残る中世豪族の館跡》

名称(別名);
所在地;富山県上市町郷柿沢九日田
城地種類;居館
標高/比高;
築城年代;戦国期
廃城年代;
築城者;土肥氏
主な改修者;
主な城主;土肥氏、椎名氏
文化財区分;上市町指定史跡
主な遺構;曲輪、土塁、水堀、喰違虎口
近年の主な復元等;現状寺院、、、西養寺


※出典、、、上市町教育委員会
地図;


水口城@滋賀県甲賀市水口町本丸 令和三年(2021)7月17日

2021-07-27 04:47:34 | 城歩き
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水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期には既に町並みが形成されていましたが、天正13年(1585)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展をみせました。関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています。
 寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。 城は堀と石垣をめぐらした本丸と、北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられました。その建物構成は京都二条城に共通し、数奇をこらしたものでした。 
 その後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和2年(1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和47年(1972)滋賀県の史跡に指定されました。平成3年(19991)出丸の部分に矢倉が復元され、「水口城資料館」として開館いたしました。甲賀市教育委員会、、、現地案内板より


場所は滋賀県甲賀市水口町本丸
滋賀県立水口高等学校の向かいで、水口城本丸跡が同校のグランドとなっている。



水口高校グランドから堀を挟んだ横にある駐車場に車を停め、
城南通りを近江電鉄水口城駅方向に100mほど進んだところにある「水口城資料館」へと向かう。




「水口城資料館」
明治維新後水口城は廃城となり公売に付され、建物や石垣の大半が処分されました。また旧本丸は学校敷地となり運動場として利用されてきました。
昭和47年(1972)滋賀県史跡に指定されたのを機に、水口城の資料を展観する施設として平成3年(1991)11月、往時の矢倉を模した姿で開館しました。


住所;滋賀県甲賀市水口町本丸 水口城内
開館時間;10:00~17:00
休館日;木・金曜日、年末年始
入館料;大人100円、小中学生50円
(水口歴史民俗資料館との共通券あり)

館内は1階に受付と資料展示、2階に展望室と集会室を備えています。


水口城模型
現在資料館が建っている場所は、当時の番所と大手門があった外枡形の空間です。


二階の窓から見える「水口岡山城 城山」


各種パンフレットのほか、御城印もこちらで購入できます。







水口城本丸平面図(寛永11年築城当時の姿)、、、水口城資料館パンフレットより転載



城南通り北東方向からの遠景
水堀に浮かぶ外枡形石垣と矢倉を模した水口城資料館



外枡形入り口に架かる橋と矢倉


外枡形入り口の高麗門
水口城資料館方向より撮影


乾矢倉石垣 水堀に浮かぶ北西隅


乾矢倉石垣西面










【水口城】
《東海道50番目の宿場町》

名称(別名);碧水城
所在地;滋賀県甲賀市水口町本丸4-80
城地種類;梯郭式平城
築城年代;寛永11年(1634年)
築城者;徳川家光
主な城主;加藤氏
文化財区分;滋賀県史跡
近年の主な復元等;復興櫓(乾矢倉)・復興高麗門・復興土塀
天守の現状、形態;

※出典、、、甲賀市教育委員会資料等
地図;

水口岡山城@滋賀県甲賀市水口町 令和三年(2021)7月17日

2021-07-25 06:00:29 | 城歩き
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水口岡山城跡は、天正13年(1585)に、豊臣秀吉の家臣、中村一氏が大岡山(古城山 標高282m)に築いた山城である。
城は、豊臣政権の地域支配の拠点として、東海道を見下ろす要衝の地に築城され、「水口城」と呼ばれていた。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の後、当時の城主、長束正家が西軍に同調したため廃城となり、その後は、徳川政権による直轄支配がはじまった。寛永11年(1634)、将軍家の宿館として新たに築かれた水口城には、この城の石垣の石材が転用されたとしている。
麓から100m高い山頂には、江戸時代の絵図に「天守」と記された広い平坦地である曲輪や櫓台、堀切が連続して配置され、山腹には、竪堀や帯曲輪、虎口などの遺構が今も地形によく残っている。北側斜面の一部に残る石垣は、安土城跡と並ぶ貴重な高石垣で、城の勇壮さを伝えている。また、出土瓦には高島市の大溝城と同じ文様の軒丸瓦があり、築城時に大溝城から建築部材が搬入されたことを示している。
築城時期や歴代城主が明らかなこの城跡は、滋賀県におけるこの時代の代表例であり、築城から廃城までの15年間の衰勢は、盛んに城が築かれた甲賀の戦国時代の終わりと、徳川政権による新たな時代の幕開けを如実に示している。市内に数ある城跡の中、甲賀の歴史が大きく転換した様相を最もよく伝えているのが、水口岡山城後である。(甲賀市教育委員会)、、、現地案内板より


場所は滋賀県甲賀市水口町水口
国道1号線(水口道路)高架下、国道307号と県道549号線が交わる「松尾交差点」から、県道549号線にて水口市内に入り「水口病院」「水口小学校」を目指せば、同県道沿いに登山道入り口・及び観光駐車場があります。
近江鉄道踏切を渡り県道549号線から古城山(水口岡山城跡)を望む



この日は朝一で湖南市の「三雲城址」を訪ね、「水口城」同「資料館」からの登城となりました。
このお散歩MAPは水口城資料館で頂いたものです。スタッフの方に親切に教えていただきました、お忙しい中ありがとうございました。



それでは
駐車場から登山道を経て、城域巡りの行程を説明しましょう。

資料集「国史跡・水口岡山城跡」(甲賀市教育委員会)作成のマップより転載、、、ブログ管理者加筆



先ず駐車場ですが、県道549号線水口小学校の向かいの三角地に観光駐車場(無料)がありますので、そちらを利用します。




古城山登口はこの観光駐車場の隣にあります。
頂上まで舗装道路が整備されていますが、現在一般には解放されていませんので(ポールが立っていて進入できません)、かならずこの観光駐車場に停めましょう。


まず「岡山城跡」の石碑が見えてきます。


その先、なだらかな舗装道路を大きく右に回り最初の削平地(曲輪)に至ります。
現在は遊具やトイレを備えた公園となっています。
奥に進むと「稲荷神社」、


階段を登ると「忠魂碑」に分岐しますが、


ここは「忠魂碑」横を抜けて頂上を目指します。


ここからは山歩きとなり、細くて急な土と石の道が暫く続きます。
遊歩道沿い削平地。
山腹一帯に展開する曲輪群の一つです。


地元ライオンズクラブによって整備された駐車場。
麓から整備された舗装道路はここに至り駐車場とトイレが併設されていますが、前述した通り現在は車の通行や利用はできません。
ここから頂上の「伝西の丸」に向かって登っていきます。



登った先には平坦地が広がり、一気に視界が開けます。


「伝西の丸」
山頂の城郭群は東西に400mあまりにわたって展開し、その西の端の曲輪が「伝西の丸」と呼ばれています。
現在は物見櫓を模した展望台や、狭間を持った城壁が再現され、屋根付きのベンチなどが併設された公園のように整備されています。


展望台から城壁方向
城壁の先は南側の水口市内を向く。


展望台から「伝本丸」方向
城郭の東側を展望すると、巨大な竪堀(空堀?)で分断された先に小高い山が見える。そこが「西櫓台」でその奥に本丸が配置されている。


「竪堀」
伝二ノ丸と西櫓台地を分断する堀。縄張り図では北の山腹から頂上を経て、南の山腹「忠魂碑」の辺りまで長大に切り裂かれている。




竪堀を渡り、西櫓台の裾野を時計回りの北側斜面に回り込むと
「二段の石垣」が現れる。
斜面にはテラス状の遊歩道が設けられ見学することができます。

当時の石垣の高さは分かりませんが、地形から考えて上段は約8m、下段は約5mの高さであったと推定されます。(以下現地説明板より引用)


こちらは二段の石垣の下段部分
石垣には花崗岩やチャートなどの石材が使われています。


角石は算木積みの技法が用いられている。


角石の一部には五輪塔などの転用石も使用されています。
石垣を築くために周辺から石材をかき集めた様子が伺えます。




下段石垣の延長線上の破城跡
転落石


裏込め石までむき出しになった破城の跡


※ここから二段目の石垣は見られませんが、調査の結果「高石垣」であったと推定されています。




「伝本丸」
古城山の一番高い場所に、東西約130m×南北約30mの細長い郭があります。東西の両端に櫓台とみられる高まりがあり、斜面の一部に石垣が残っていることから、ここが城の中心と推測されます。

写真は阿迦之宮。山麓にあった大岡寺の奥の院として、後に悲運の水口岡山城主長束正家を祀ったものです。


伝本丸からの眺望


伝本丸にある、2か所の謎の窪み


「伝天守跡」(東櫓)
発掘により入隅角を持つ石垣が見つかり張り出し部を持つ、13~4m×16~7mの長方形の櫓台だったそうです。


ちなみに西櫓台の発掘から五輪塔の石を転用した石の階段が発見されています。
写真は東櫓台部分
墓石や地蔵のような石仏が並べてありますが出土したものと関係あるか分かりません。




伝本丸からは伝二の丸・三の丸方向と、大手道方向へとそれぞれ進むことができる。
二の丸・三の丸方向へ本丸から降りていくと、尾根を分断する空堀の手前方反時計回りに本丸北側斜面へ行くことができる。
「喰違虎口」と「石垣」


左右の土塁が正対しておらず、前後にズレているので「喰い違い」と呼ぶ。


俯瞰してみると喰違の土塁で、虎口が直角に曲がっていることがわかる。
ここで敵の侵入速度を抑制して狙い撃ちする防御施設。



この喰違虎口に連動して、本丸斜面に石垣が積み揚げられていたが


激しい破壊(破城)の跡が見られる。


転落石
伝本丸は発掘の結果総石垣であったとみられています。




ここから伝二の丸へ向かうが、伝本丸と伝二の丸の間の尾根を遮断する「二の丸空堀」が出現。


長い年月で崩れ、堀は浅くなったと思われますが、広い堀幅が往時を忍ばせます。



「伝二の丸」



二の丸から三ノ丸への通路


「三の丸堀切」
こちらは北側斜面の麓から伸びる、長大な堀
200m以上斜面を掘り下げる台土木工事です。



「伝三の丸」
伝二の丸とほぼ同じくらいの面積を持つ削平地
虎口は発掘の結果、幅6m程度の石の階段を2か所で確認し、その2つの階段の間で間口が約4.5mの門の跡が見つかりました。2つの石の階段と門は一直線に並び、折れを伴わない「平入虎口」であることも分かったそうです。



伝三の丸の東側斜面を下りると「伝出丸(屋敷形)」と呼ばれる削平地が現れます。これ以上東側は藪の中で、削平地としてはギリギリ上位に位置します。


伝三の丸との間にも竪堀が存在します、こちらも北側斜面から掘り下げられており、北側斜面の横移動を随所で抑制する必要があったのでしょうね。


南側にある土塁


この曲輪からはこの土塁を抜け、二の丸・三の丸の下を通って本丸に向かう裏道があります。これは新しい時代の遊歩道なのか、それとも当時からあった道なのかは分かりません。



ここで本丸へ戻り、南面の大手道と枡形虎口を見てみることにします。
南側斜面へ下ります。


ここが「大手道」


「枡形虎口」
左右の土塁と直角にクランクした大手道
ハッキリとした枡形は確認できません。三雲城のような石積みの枡形虎口が現存していたら良かったのに💦
しかし発掘の結果、大手道の枡形虎口には破壊された石積みの跡が確認されたそうで、重要な箇所には石垣が用いられていたと考えられています。




【まとめ】
秀吉の全国統一
甲賀衆の自治から大名による支配
東海道を抑える要衝
東国徳川・北条への備え
重要家臣の配置
関ヶ原の戦いで3代15年豊臣の城の終焉
東軍池田長吉により接収
水口が城下町から東海道の宿場町へと機能が変遷
徳川幕府の直轄地
水口城築城に際し石垣の石材や資材が転用
水口藩成立後の用材、寺社の建築等へ資材の転用
水口藩の御用林として管理

発掘調査から
大溝城(高島市)からの転用瓦
矢川寺からの用材調達
妙法寺からの転用瓦
が確認、古文書等の記録も残るが
三雲城から石垣の石材を調達・転用した記録や調査結果は今のところないようです。

しかし、三雲城の矢穴のある石材や、豊富な自然石は、場所的に見ても格好の調達先であったと考えられます。
今後の調査が待たれるところでもあります。

在りし日の雄姿、、、水口城歴史資料館蔵





【水口岡山城】
《東海道を抑える豊臣政権の拠点城郭》

名称(別名);古城山城、岡山城、古城、岡山城,水口城,水茎館
所在地;滋賀県甲賀市水口町水口
城地種類;山城
標高/比高;283m/100m
築城年代;天正13年(1585年)
廃城年代;慶長5年(1600年)
築城者;中村一氏
主な改修者;
主な城主;中村一氏、増田長盛、長束正家
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;石垣、堀切 竪堀、空堀、土塁、曲輪
近年の主な復元等;


※出典、、、甲賀市教育委員会等
地図;


三雲城@滋賀県湖南市吉永 令和三年(2021)7月17日

2021-07-23 22:17:20 | 城歩き
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三雲城(吉永城)は、長享元年(1487)佐々木六角髙頼の命を受けて築城されました。代々の城主三雲氏はもと関東御家人で武蔵七党の児玉氏を名乗っていましたが、明応年間に(1492)にこの地に定住し、三雲氏を名乗り士豪として活躍した戦国武将でした。
 三雲氏が歴史の表舞台に登場するのは、三雲成持(1540~1603)が城主の頃です。成持(しげもち)の兄賢持(かたもち)は永禄9年(1566)に浅井長政との戦いで討ち死にし、父定持(さだもち)も元亀元年(1570)の野洲川の戦いで討ち死にするなど、近江守護六角氏の被官として活躍した一門として知られています。城は幾度か六角氏の亡命に用いられ、天文6年(1537)には、六角義賢が、永禄11年(1568)には義賢・義治が逃げてきています。
 三雲氏は織田信長が近江を平定した元亀元年(1570)の野洲川の戦いで佐久間信盛に敗れた後、信長に従わず浪人となりました。成持は六角氏没落後、蒲生氏に仕えていたが、江戸時代になると一千石の旗本として徳川幕府に仕えることとなり、幕末まで家名を存続できた一族でした。、、、現地案内板より


場所は湖南市吉永
名神高速栗東ICから国道1号線を甲賀・鈴鹿方面に向かい、岩根交差点で県道13号(彦根八日市甲西線)を右折して野洲川を渡ります。JR草津線を渡ってすぐに右折した後は「三雲城跡」の案内看板に従って進みますが、トンネルや住宅街の中を通って右折左折を繰り返しますので、予め目標を「青少年自然道場」にセットしておくとよいでしょう。


県道13号、JR草津線踏切手前から見えてくる三雲城址遠景
右手山腹に〈白く四角い塊のようなもの〉が見えます。それが「八丈岩」で、その辺りが三雲城址です。


同踏切を渡り、一筋目が「旧東海道」
ここを右折して「大沙川隧道」通称「マンボ」をくぐります。
これは天井川に建設された現役最古の石造物トンネルで明治17年に建設されました。JR草津線も同じようにトンネルをくぐっていますので凄くフォトジェニックな撮影ポイントでもあります。



同トンネルを抜けて一筋目を左折し、麓の新興住宅街に入り込みます。少し場違いな日常の中を右折左折を繰り返し「三雲城址」の看板を頼りに、山頂に向かって登っていきます。すると程なく「青少年自然道場」と「三雲城址」の分岐にでます。分岐はちょっとした公園となっており、ここに車を停めて徒歩で登っていくこともできます。ずぼらな自分は分岐を右折して林道を車で登りました。



分岐から数分で「三雲城址登り口」に到着。林道と言っても舗装され、緩やかなカーブなのでとても安全でした。
先ほどの分岐から徒歩では20分くらいで、この場所に合流します。

入り口の説明看板、ポストにはパンフレットが準備されており、またレンタルの杖まで用意されているので凄くありがたいですね。



「登城口」の先は二手に分かれます。
左は「大手道」
右は「八丈岩」「家紋入りの岩」から「馬の背」経由で「兵站曲輪」にて「大手道」に合流します。
なので往路は「大手道」、復路は「八丈岩」周りのルートとしました。



大手道を登ると程なく立派な石垣が見えてきました。


よく見ると「近世治山石垣」という看板が建っていました。
要するに三雲城由来の遺構ではないという事なんでしょうね。
近世って何時なのかな?
砂防ダム的なコンクリート造りだと歴史的景観を破壊するので、あえて手間のかかる石積みにしたんでしょうか?


さらに上の方には「石切り場」が残されています。
使われなかった割石が散乱していますが、ここから切り出した石で「近世治山石垣」を築いたんでしょうね。


大手道周辺にも自然岩盤や巨石があちこちに露出しているので、石材の調達には苦労しなかったと思われます。



ここで当日の行程を説明します。

以下、現地説明板より抜粋(ブログ管理者加筆)
◆三雲城復元ジオラマ(二次元に印刷したもの)
赤い矢印は往路、青い矢印は復路のルートを示しています。



◆三雲城想像図
こちらも分かり易いイラストですね。




近世治山石垣を過ぎ、最初にあるのが「兵站地(郭5)」と呼ばれています。
「兵器や食料などの物資の補給地」と説明書きがあります。


「郭5兵站地土塁」
郭5の北側の尾根上には土塁が築かれ、細長く二段にわたって削平された曲輪を防御しているかのようです。


この土塁から尾根(馬の背)伝いに麓に降りると、「八丈岩」を経由して「大手道」と合流して登城口へと至ります。



「兵站地(郭5)」から見上げると石垣が見えてきます。(三雲城復元ジオラマ内2⃣
「主郭北、東辺の石垣」と案内板にあります。


角石が残っているので、現存しているのは北側と東側を構成する石垣の一部という事でしょう。


石を切り出した「矢穴」の跡がくっきりと残っています。


石垣の裾野に落下した石が多数見られます。


他にも矢穴加工された石が多数落下散乱している場所があり、破城の痕跡と思われます。


20㎝ほどもある下穴を掘り込み、ここに鉄の鏨を打ち込んで割れ目を造ったんですね。




「枡形虎口」(三雲城復元ジオラマ内1⃣


枡形虎口の穴太積み石垣


こちらにも矢穴加工が残る石がたくさん使われています。


枡形虎口を主郭上より俯瞰
大手道から駆け上って主郭に入ろうとすると門があり、そこを入ると90度クランクして櫓門が待ち構えている。押し寄せる敵兵はこの四角い空間に足止めされ、主郭部から狙い撃ちされる。



「主郭(曲輪)」(三雲城復元ジオラマ内3⃣



「井戸」(三雲城復元ジオラマ内7⃣


深さ約6m 穴太衆による野面積



「本丸土塁」
主郭(本丸)の北側の防衛線



本丸北側の「竪堀群」


北側斜面の横方向の移動を抑止するため縦に掘られた堀



「山頂廓(廓2)の石垣」(三雲城復元ジオラマ内8⃣


廓2の北側と西側下に石垣が積まれている。
こちらは日当たりが良いせいか、下草が生い茂り石垣を覆い隠しているようです。



「山頂廓(廓2)からの眺望」(三雲城復元ジオラマ内6⃣


NHK朝ドラ「スカーレット」で放送された一場面
遠く三上山や琵琶湖が見渡せる絶景の地


山頂廓(廓2)に鎮座する巨石
縦に長い巨石を周囲で支え、まるで天然の石碑のようです


裏から見た巨石
縦約8.5m、横約3.5m、厚み約1.8m、比重2.6 形状係数0.9とすると、ザックリ126トンもありそうです。



虎口のような配列の巨石を抜け、その先にある「廓4」へと向かいます



「南廓(廓4)堀切」(三雲城復元ジオラマ内5⃣


廓2と郭4を結ぶ尾根を分断し敵の侵入を防ぐ堀



「南廓(廓4)削平地」(三雲城復元ジオラマ内🔟


南廓(廓4)斜面に散乱する石と自然岩盤


これは明らかに石垣の痕跡、経年劣化で崩れたのか破城の跡なのか



一旦山頂廓(廓2)に戻り、「東廓(廓3)東見張り台」を目指します。



「東廓(廓3)東見張り台」(三雲城復元ジオラマ内4⃣


見張り台からの眺望はイマイチ
当時は雑木林の背が低かったのかな


東廓(廓3)東見張り台「石垣」


尾根の北面に残る石垣の痕跡


隅部も残っています



ここで廓5兵站地に戻り、帰路の「八丈岩」へのコースに向かいます。

馬の背と呼ばれる細い尾根道を下ると突如として巨石群が現れます。

「佐々木六角氏の家紋岩」(三雲城復元ジオラマ内9⃣
佐々木六角氏の家紋【四ツ目結】→こちら
が刻まれた岩です。


縦長の石碑のような巨石中央からやや下の方に家紋が刻まれています。


家紋部拡大



「八丈岩」


北東尾根筋に、この山のシンボルとも言うべき巨大な八丈岩がある。その巨大な岩の前は急な崖で、しかも岩は地面から浮いているような感じで、何時崩れ落ちても不思議でない状態で立っている。
落ちそうで絶対落ちない岩として合格祈願のパワースポットとなっていますよ。
人間がこんなに小さく見える


合格祈願の祠(白龍が祀られている)や祈祷の石もあります


裏から見るとギリで止まっているのがよくわかる


願い事が書かれた小石と眺望
東西に流れている野洲川が一望でき、観音寺城(佐々木六角氏居城)からの道があった



城址見学の後のお楽しみはミュージアムショップでのお買い物(笑)
先ほど登って来た時の林道分岐にある公園、


ここにロッジ風の「三雲城ミュージアム」的な、資料やグッズを販売している施設がある。


御城印や資料、ファイルケース、缶バッジなど多彩な三雲城グッズが揃っていて、見るだけでも楽しい。


また作家司馬遼太郎の小説「風神の門」に登場する、忍者「猿飛佐助」の舞台としても知られ町興しのキャラクターとなっています。



【まとめ】
「観音寺城」→こちら
「小堤城山城」→こちら
を訪ねた結果以下のことが分かり、どうしても「三雲城」を訪ねてみたくなりました。
①石垣が多用されされている点
安土城が築城される以前の戦国期の近江の城郭で、石垣を多用する事例は「観音寺城」と「小堤城山城」、「三雲城」など数例に限定される。
近江の寺院勢力下の石工集団を再編して観音寺城の石垣を構築した六角氏の協力を受けていたと考えられる。

②六角氏退却先の城の一つだった。
六角氏は有事の際、甲賀郡の土豪の支援を受けながら平野部の奪回に向けて抵抗を続けており、「小堤城山城」と「三雲城」の築城の背景には有事の際の臨時拠点として使用する戦略があったと考えられる。

「観音寺城」と「小堤城山城」に比べ城域は狭く石垣の規模も小さいが、古い時代を感じさせる趣があった。またこの山から産出した石は運搬にも便利で、ふんだんに使われた様子がよく分かった。特に枡形虎口は他の斜面石積みと全く異なり、ほぼ完全な形で現存している事にも驚いた。
石垣ファンには見逃せない矢穴もたくさん見受けられ有意義な攻城となりました。



【三雲城】
《佐々木六角氏の隠れ城》


名称(別名);吉永城
所在地;湖南市吉永
城地種類;山城
標高/比高;334m/200m
築城年代;
廃城年代;
築城者;三雲氏
主な改修者;
主な城主;三雲氏
文化財区分;滋賀県指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀,井戸、枡形虎口
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;