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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

2019年10月のまとめ

2019-10-31 23:55:14 | まとめとカレンダー
10月に食べた杯数:44杯、、、前月比+8杯
1月からの累計杯数:378杯、、、昨年比-73杯


【推移】



【お店リスト】



【順位】



【目標管理】



【総括】

◆毎月の低減目標40杯以下を+4杯で目標を大きく下回った、、、イベントラーメン
◆富山・石川・遠征・イベントで訪問回数が増えた、
◆今月もぐっぴー、比内地鶏でリピ4杯
◆新店:せたが屋高岡イオン店リピ3杯 
◆初訪:竹乃屋 中華福龍 一宮麦の道すぐれ

19373 ラーメン一心 富山駅前本店「濃厚烏賊煮干しラーメン」@富山 10月25日 イカ煮干しって知っとる? くっさい匂いが癖になる!旨味のるつぼ!

2019-10-31 05:46:12 | 富山県東部(富山市周辺)のラーメン
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煮玉子ラーメン富山発祥のお店、無化調・自家製麺の
ラーメン一心(いっしん)富山駅前本店

先日から始まった限定ラーメン
富山では『やわなり中華そば』がお正月に使った珍しい食材!
数年前福井の『麺屋鶏っぷ』で初めて食べた強烈な印象(臭くて)(;^ω^)
店内に充満していたのを思い出す(笑)

濃厚烏賊煮干しラーメン並 880円(税込み)  チャーシューSA



店内に異臭なし(よかった〜w)
烏賊煮干しってエゲツないくらい旨いけど、仕込みの際はさらにエゲツない匂いがする。
クサイは旨い!
まさに、飲むスルメ
飲むイカの肝臓!アミノ酸の塊汁です(笑)


当初は「イカ節」を使ったそうですが、仕込みの段階であまりにも臭いので使用中止。「イカ煮干し」に変更して途中で野菜を加えることにより匂いがほとんどなくなり、とろみや甘みが付いたそうである。さらに鶏白湯を加えることにより深みがでてめっちゃ旨い!

トッピングのカイワレやアーリーレッドも濃いスープの良い箸休め


むっちり肌の熟女麺も旨い!



塩分やドギツイ脂、臭い匂いを抑制したスープは優しい中村店主の人柄が現れているようです😘


♪ ♪
【お店情報】

お店のWebページは→こちら
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店名;ラーメン一心 富山駅前本店 (らーめんいっしん)
住所;富山県富山市桜町1-1-36 地鉄ビル 1F
電話:076-433-7258
営業時間;
11:30~15:00(L.O.14:30)
18:00~22:30(L.O.22:00)
定休日;日曜日
駐車場;有
「地鉄ビル駐車場」に駐車された方には、1時間無料サービスをお渡ししていますので、お気軽にお車でもお越しください。
地図;

19372 ラーメンの万里「春雨の担々麺」@富山 10月25日 なんと!春雨が入ったラーメンとは?マーボー春雨じゃないよw

2019-10-31 05:44:42 | 富山県東部(富山市周辺)のラーメン
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富山の無化調、青竹打ち自家製麺のお店
湧きいづる創作意欲!引き出しの多さに感動!
ラーメンの万里(ばんり)

期間限定、平日限定
春雨の担々麺 850円

春雨を使った挽肉と旨辛スープの万里流担々麺。
このスープ辛いけどクセになる旨さです。


春雨とビーフンの違い→こちら
春雨とマロニーの違い→こちら
春雨みたいなコリコリした「海藻クリスタル」との違い→こちら
ついでにw
春雨としらたきと糸こんにゃくの違いってナニ?→こちら
、、、何でも調べたらでてくるもんですね~(爆)




店主ブログにも書いてあるように、
麺と春雨が一体化。



そしてスープと春雨が一体化。


麺とスープの間に切れまなく最後までこの循環は続く(笑)

やっぱり自家製青竹打ち熟成平打ち麺、旨い!


辛さに耐性の無い自分は別添えの辛醤を使う余裕がありませんでした(;^ω^)
ごちそうさまでした~(^^)/



♪ ♪
【お店情報】

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店名;ラーメンの万里(ばんり)
住所;富山県富山市上冨居1-3-63
電話:076-444-1818
営業時間;[月~土]11:30~15:00 17:30~21:00
     [日・祝日]11:30~15:00 17:30~21:00
日曜営業
定休日;火曜日と第1水曜日
駐車場;あり
地図;

19371 ちゃるめら ぐっぴー「醤油~香味味~(仮)鶏+微牛」@富山 10月25日 「フライド・らっきょう」はマイブームなのか?でもこの油と食感めっちゃ美味しい!

2019-10-30 05:46:06 | 富山県東部(富山市周辺)のラーメン
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唯一無二の無国籍なスパイスラーメンも楽しめるちゃるめら醤油ラーメンのお店 富山の
ちゃるめらぐっぴー

「スパイシー&チキン」が休止してもこれだけ頻繁に訪問するのは初めてかも(笑)
まだまだ未食のメニューがたくさんあって、しかも醤油もリピしたい。

今日の黒板メニュー
先日お友達の情報でコレがあると聞いていました(^^)/


醤油~香味味~(仮)鶏+微牛 930円(税込み)


見た目の丼顔は今までの鶏醤油、比内とはほとんど変わりません
しかし、スープから立ち上る香りと味わいは別のラーメンです!

僅かに加えた牛出汁のほのかな甘みと香り
キレのある地鶏の旨味。


それ以上にビターでコリコリ、カリカリした食感の「ローストらっきょう」
フライドオニオンやフライドガーリック、揚げねぎなどと、似て非なる奇妙な一物(笑)
溶け出した揚げ油の風味とコクが牛の油と渾然一体となって、めっちゃ美味い‼️


やわめの自家製太麺の弾力としなやかさは、このスープにピッタリ!




※店主twitterを始めましたのでフォローよろしくお願いいたします。

♪ ♪
【お店情報】

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店名;ちゃるめら ぐっぴー
住所;富山県富山市上飯野14-5
電話:076-452-4362
営業時間;
[月・水~土]
11:00~14:00 18:00~21:00
[日・祝]
11:00~15:00 17:00~20:00
定休日;火曜日
駐車場;あり
地図;

19370 横浜家系ラーメン 海誠家「味噌らーめん」@金沢 10月24日 クリーミーな飲み口!と芳醇で旨味たっぷりの自家製味噌タレが織りなす!家系味噌ラーメン!

2019-10-29 05:30:25 | 石川県(金沢・野々市他)のラーメン
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9月末にオープンした家系インスのお店2軒、奇しくも『横浜家系ラーメン元喜家』繋がり
ライトな豚骨スープのオサレなお店『らーめん かんか』店主は元喜家出身の『友喜家』で修行。

かたや運営会社の(有)KRSで『横浜家系ラーメン元喜家』ブランドを立ち上げた張本人が満を持して自ら独立開業した
横浜家系ラーメン海誠家(かいせいや)
豚骨豚ガラバキバキの濃厚スープのお店です。



自家製味噌という大将の言葉に誘われてどうしても食べたくてやってきました。

味噌らーめん並 780円 +キャベツ100円+ホウレンソウ100円(いずれも税込み)


麺硬め ・普通・普通

自家製と言っても、さすがに豆から作る訳ではないよね(笑)
赤味噌ベースでしょうか?滑らかで深いコク!スープを飲んだ後の旨味
甘くどくないし、強烈なクセもない濃厚豚骨にドンピシャな味噌です。


濃いスープを中和させるために
キャベツやホウレンソウをトッピングしたが
濃い目でも良かった。
ナウなヤングならバタートッピ(80円)もありですね(笑)


初めて麺硬めでオーダーしましたが、ゴワゴワ感もなく弾力がハンパなくスゲ〜うまかった♪


表層の油の量がこのくらいだとお腹の弱いお友達でも食べられそうです(>_<)


♪ ♪
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店名;横浜家系ラーメン 海誠家(かいせいや)
住所;金沢市進和町59
電話:不明
営業時間;11:00~15:00(Lo14:45) 17:00~21:00(Lo20:30)
定休日;水曜日
駐車場;店頭に3台くらい
地図;

19369 中華そば集「強煮干し」@金沢 10月24日 集史上最強煮干しラーメン! 「強煮干し」略すと「きょうにぼ」ってw!

2019-10-28 06:31:52 | 石川県(金沢・野々市他)のラーメン
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『そらみち』跡地にオープンした、活気ある店主の頑張りが清々しい!
中華そば(しゅう)


最近では地元の情報誌でも取り上げられ、知名度は徐々にそして確実に向上している。それに伴い店主のやる気もmax、メニューも充実してきましたね~
今回は期間・数量限定「強煮干し」を頂きたいと思います(^^♪


強煮干し 830円(税込み)


この絵ヅラ
濃い〜煮干しの定番ですよね(笑)

ドロドロの脂っこいのがちょっとシンドイ私には
美味しく食べられる煮干し値max! 魚粉ザラザラのない滑らかな口当たりのスープです。


豚バラスライスの厚手の煮豚チャーシュー
富山だともっとトロトロで脂身も多いがさすが金沢ともなれば肉の食感が肉肉しい!
脂がギトギトしていないのでアダルトな胃袋にも安心(笑)


ザクッとくる麺のチョイスと仕上がりも言うことなし!


塩味強めのスープもパンチが効いて旨かった~(^^)/

この日は淡麗系仲間の羽咋の32乗りと同席となり、楽しいランチになりました(*´ω`)





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店名;中華そば集(しゅう)

住所;石川県金沢市窪7-281 ヴィアーレ伏見台 102 (旧そらみち跡地)
電話:
営業時間;11:00~15:00 (L.O)17:00~21:00 (L.O)
[土・日・祝]
11:00~15:00(L.O)午前営業のみ→夜の部17:00~21:00 (L.O)
定休日;火曜日→月曜日に変更(2019年2月)
駐車場;あり
地図;

19368 横浜家系ラーメン 友喜家「レイナの柚子塩ラーメン」@金沢 10月23日 令和元年の礼奈の柚子は「令和の柚子」というおめでたい名前なのです!

2019-10-27 06:30:25 | 石川県(金沢・野々市他)のラーメン
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山側環状線田上、元長崎ちゃんぽんの『ばらもん』跡地に家系ラーメン元喜家出身の店主が今日も元気にラーメンを作っている
横浜家系ラーメン友喜家(ゆうきや)

レイナの柚子塩ラーメン並 900円(税込み)昼夜各15食



前回頂いた時はまだ青い柚子でしたが、いよいよ山吹色に色づいてきました。それに伴い香りも強くなって本来の柚子の香りが楽しめます。


別皿には皮を剥いた後の果実が追い柚子として添えられています。


後半果汁を絞り入れれば、スープが凄く丸くなる。



ちなみに新元号の「令和(れいわ)」、「和」って「わ」以外に「な」とも読めますよね。
戦国時代「慶長」年間に終わりを告げ「元和(げんな)」に改元されました(1615年7月13日~1624年2月30日)
なので
令和元年の田中礼奈さんの柚子は「れいながんねん たなかれいな さんの ゆず」と読めるので
「令和(レイナ)の柚子」というおめでたい名前こそ相応しいでしょう(^^)/




これからが柚子の最盛期
楽しみたいと思います




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店名;横浜家系ラーメン 友喜家(ゆうきや)
住所;石川県金沢市田上さくら2-96
電話:076-205-2286
営業時間;11:00~15:30 17:30~21:00
定休日;月曜日
駐車場;あり
地図;



19367 中国料理 麟 Rin「白子麻婆豆腐麺」@金沢 10月23日 絶品!四川麻婆豆腐に北陸の冬の味覚「白子」が入った極旨ラーメン!

2019-10-27 04:36:36 | 石川の中華屋さん・食堂系・呑み屋さん
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進和町の華林楼が2015年に寺町に移転、連日大盛況!
中国料理 Rin(ちゅうかりょうり りん)


麟と言えば麻婆豆腐
しかもこの時期限定の白子入り

既存の麻婆豆腐麺を「白子麻婆豆腐麺」に変更のラヲタ仕様は、移転前の新和町『華林楼』時代から食べている冬の風物詩!
白子麻婆麺 1550円(税込み)


ただ辛いだけではない!
四川麻婆のタップリかかった山椒は香りも良いし痺れる辛さだか、激辛とか味覚が損なわれるような舌先の痺れが無いのが特徴。
挽肉のコクと醤の旨味、豆腐の滑らかな食感が活きている。

ただでさえ美味しい四川麻婆にクリーミーで濃厚な白子が加わる贅沢な逸品。
絹ごし豆腐の食感と見紛ような優しい口どけと濃厚な味わい。それを痺れる麻婆の餡が下支えして堪らない美味しさ!


白子麻婆の餡を夢中で半分くらい食べてしまったが、麺にはスープがかかっていない「汁なし」なので後半麺と餡を絡めて麺料理として頂く。
ザクッとした細麺に絡んで、めちゃくちゃ美味しい‼️


お値段が高いと思われるかも知れないが、昨今の高級食材を使った「鴨ラーメン5枚1380円」「河豚ラーメン1500円」「猪冷製ラーメン1980円」などと比較してもそんなに違和感はない。
要するに、素材の特徴を最大限に引き出して、満足度の高い料理として提供する。それに見合う対価であるか判断するのは食べ手の価値観と責任だと思います。

残り少ない頭頂部の毛穴からハンパなく発汗しながら、大満足で暖簾を後にしました。
大ちゃん、ありがとうヽ(^o^)丿



※白子の入荷次第でできない場合があります。
※メニューにはありませんので、必ずスタッフにご確認ください。

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店名;中国料理 麟 Rin(ちゅうかりょうり りん)
住所;石川県金沢市寺町3-2-25
電話:076-247-0332
営業時間;11:30~14:00 17:30~22:00
定休日;火曜日
駐車場;店頭と少し離れた並びにも有ります
地図;

加賀八家 前田土佐の守@金沢 令和元年(2019)10月26日 

2019-10-26 23:19:31 | 城歩き
ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思いに日記代わりに記録していきたいと思います。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖前田利長
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の金沢城であり、加賀藩主前田氏です。
先ずは身近なここらから歩いていきたいと思います。


【前田土佐守家資料館】
金沢片町 せせらぎ通りに鉄筋コンクリート造り2階建て、門を備えた日本家屋の資料館です。


周辺には武家屋敷跡もあり、土壁が趣の風情を醸し出しています。




前田土佐守家(小松城代1万1000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は木瓜ノ内梅鉢。
前田利家の没後に能登一国を与えられた二男・前田利政を祖とする。利政は関ヶ原の戦いで西軍に加担した疑いで改易されたが、利家の正室・芳春院の奔走でその嫡男が召しだされた。宗家では断たれた芳春院の血筋を伝えることから家格(筆頭家老とは別のもの)は八家筆頭とされたが、石高は逆に八家最小である。
前田利政(利家の二男)- 直之 - 直作 - 直堅 - 直躬 - 直方 = 直時(直方四男直養の子)- 直良 = 直会(13代藩主斉泰の八男)= 直信(直良長男)出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




前田土佐守家すなわち直之系前田家は、藩政期においては利政から直信までの10代を数え、初め1万50石、4代直堅以降は1万1000石の禄を世襲した。当家の家祖となる前田利政は、加賀藩祖前田利家・その夫人まつの次男である。したがって当家は加賀藩主前田家の分家筋にあたる(→系図参照)。


家祖利政は七尾城にあって能登国22万石余りを領有していたが、関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収された。その後京都に隠棲し、かの地では多くの文化人や豪商たちと交流を重ね、寛永10年(1633)京都で没した。
利政の嫡男である2代当主直之は、幼少時に祖母芳春院(前田利家夫人まつ)にひきとられて養育された。祖母芳春院の尽力があって、元和元年(1615)12歳の時、3代藩主前田利常に召し抱えられた。これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ1万余石の禄高をもって代々「八家」の一つとして藩の要職を歴任し、10代当主直信の時に明治維新を迎えた。




「八家」とは、加賀藩行政組織の最高職である年寄役の職に就く門閥のことである。いずれも万石以上の禄高を有する大身の家臣で全部で8家あったことからこう呼ばれた。他藩でいうところの家老にあたる。八家の制度は元禄期(17世紀末)に5代加賀藩主前田綱紀によって定められ、本多家(5万石)・長家(3万3000石)・横山家(3万石)・前田家(直之系1万1000石)・前田家(長種系1万8000石)・奥村家(宗家1万7000石)・奥村家(支家1万2000石)・村井家(1万6569石)であった(禄高は幕末時の石高)。
藩政期の当主10人のうち利政を除く6人が従五位下土佐守または近江守に叙爵されている。 このうち5代直躬・6代直方・7代直時・10代直信が土佐守を通称としたことから、当家は一般に「前田土佐守家」と称されたのである。4代直堅・8代直良は近江守を通称とした。ちなみに、家祖利政は従四位下侍従に叙任されている。


人持組頭(加賀八家) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「本多家」(5万石)筆頭家老、維新後男爵。家紋は丸ノ内立葵。
初代本多政重は徳川家康の重臣本多正信の次男で上杉景勝の重臣直江兼続の養子であったが、故あって徳川・上杉両家を去って前田利長に仕える。
本多政重 - 政長 - 政敏 - 政質=政昌(政質の弟)=政行(政長四男政冬の子) - 政成 - 政礼 - 政和 - 政通=政均(政通の弟) - 政以。

「長家」(穴水城主3万3000石) 維新後男爵。家紋は銭九曜。
能登の在地勢力であり、畠山七人衆として知られた能登畠山氏旧臣。利家が能登を領して以来、臣従する。
長連龍 - 連頼 - 元連 - 尚連=高連(尚連弟連房の子) - 善連=連起(高連弟連安の子) - 連愛=連弘(本多政礼次男、連愛外孫、黒羽織党首) - 連恭=成連(連恭弟)。

「横山家」(富山城代3万石・国家老) 維新後男爵。家紋は丸ノ内万字。
前田利長に仕え、賎ケ岳の戦で戦死した横山長隆を祖とする。利長が家督を継ぐと共に、利長の直臣から前田宗家の家臣に編入された。
横山長隆 - 長知 - 康玄 - 忠次 - 玄位=任風(玄位の弟)=貴林(奥村悳輝の三男) - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - 隆貴 - 隆平(祖父隆章の嫡孫承祖)

「前田対馬守家」(越中守山城代1万8000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は角ノ内梅鉢。
尾張前田同族の別家(元はこちらが本家筋ともいう)。初代前田長種の妻は利家の長女幸。
前田長種 - 直知 - 直正 - 孝貞 - 孝行 - 孝資 - 孝昌 - 孝友 - 孝本 - 孝中=孝敬(分家前田孝備の子)。

「奥村河内守家」(奥村宗家、末森城代1万7000石) 維新後男爵。家紋は丸ノ内九枚笹。
奥村家は尾張前田家代々の譜代の臣。奥村永福が祖。
奥村永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝=有定(横山貴林の子)=修古(奥村温良の子) - 栄輇=尚寛(奥村隆振次男) - 栄実 - 栄親=栄通(奥村質直八男) - 栄滋。

「村井家」(松根城代1万6500石余) 維新後男爵。家紋は丸ノ内上羽蝶。
利家の尾張時代からの臣・村井長頼が祖。当初七家だった人持組に後から村井家が加わり、以降八家と称される。
村井長頼 - 長次=長光(織田有楽斎の長男長孝の四男) - 長朝 - 親長=長堅(前田孝行五男)=長穹(前田孝資三男) - 長世 - 長道=長貞(奥村質直七男)=長在(前田孝保次男)。

「奥村内膳家」(奥村分家、1万2000石・留守居役) 維新後男爵。家紋は丸ノ内九枚笹。
奥村永福の次男易英を祖とする。
奥村易英 - 和忠 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬=温良(明敬弟) - 保命=易直(保命弟)=煕殷(易直弟)=成象(奥村忠順の子)=隆振(横山貴林の子) - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝=則友(惇叙三男)。

「前田土佐守家」(小松城代1万1000石・藩主一門) 維新後男爵。家紋は木瓜ノ内梅鉢。
前田利家の没後に能登一国を与えられた二男・前田利政を祖とする。利政は関ヶ原の戦いで西軍に加担した疑いで改易されたが、利家の正室・芳春院の奔走でその嫡男が召しだされた。宗家では断たれた芳春院の血筋を伝えることから家格(筆頭家老とは別のもの)は八家筆頭とされたが、石高は逆に八家最小である。
前田利政(利家の二男)- 直之 - 直作 - 直堅 - 直躬 - 直方 = 直時(直方四男直養の子)- 直良 = 直会(13代藩主斉泰の八男)= 直信(直良長男)。





【前田土佐守家資料館】


名称(別名);
所在地;石川県金沢市片町2-10-17
城地種類;
築城年代;
築城者;前田利政(藩祖利家次男)
主な城主;
文化財区分;
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;
地図;



※出典、、、前田土佐の守資料館

134 富山城@富山市 令和元年(2019)10月25日

2019-10-26 23:09:21 | 城歩き
お城検索は→こちら

富山城郭カードは→こちら


ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思いに日記代わりに記録していきたいと思います。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖前田利長
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の金沢城であり、加賀藩主前田氏です。
先ずは身近なここらから歩いてみたいと思います。


【概要】
加賀前田家の分家であった越中前田家の居城。神通川(現在の松川)の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれた。現在、本丸と西の丸の一部が残り、富山城址公園となっている。富山は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の交通の要衝であった。
瀧廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。



【歴史・沿革】
「中世」
室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を守護代として治めさせていた。
富山城は1543年(天文12年)頃に越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる。[1]
しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられている。また、神保氏時代の富山城は今の場所ではなく、約1キロメートル南方の小高い所にあったとする説もあったが、この発掘結果によってほぼ現在の位置にあったことが明らかとなった。なお、天文年間(16世紀中期)の名称を「安住の館(あずみのやかた)」とする研究者[2]もいる。
慶長年間以前に成立したことが確実な『富山之記』という往来物には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子がくわしく書かれており、中世富山城を知るための貴重な史料となっている。
ところが、長職は1560年(永禄3年)、椎名氏を支援する上杉謙信の攻撃により富山城を追われ、神保氏の在城は僅かな間であった。その後、富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、1578年(天正6年)、長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。しかし、1582年(天正10年)3月、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、佐々成政である。ただし信長が成政を越中に封じた時期については、前年2月の上杉方による小出城攻囲への救援の功を賞して天正9年に既になされていたとする説がある。なお、当時織田家と富山城の争奪戦を繰り広げた上杉家では、天正年間の一時期、富山城のことを「安城」と呼称していたとする古くからの説があるが、近年の研究では概ね否定的[3]なようである。



「安土桃山時代」
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、1585年(天正13年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。この際に、秀吉は本陣を富山城西方4kmの白鳥城まで進めたものの富山城には入らず帰還したとするのが従来の定説であるが、成政が降伏した直後の1585年(天正13年)閏8月1日に富山城に入城していたとする説が新たに提起されている。[4]
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが1609年(慶長14年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。


「江戸時代」
1639年(寛永16年)、加賀藩第三代藩主前田利常が次男の利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。翌1640年(寛永17年)、利次もそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。
当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、藩の財政がそれを許さなかったため1659年(万治2年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。
1661年(万治4年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えるまでの基礎となった。
1858年4月9日(安政5年2月26日)、飛越地震が発生した。富山城も被災し、本丸や二の丸、三の丸が破損したほか石垣が崩れるなど大きな被害を出した。


「明治時代」
1871年(明治4年)廃藩置県により廃城となり、翌年建築物は払い下げられた。本丸御殿は県庁舎〔1899年(明治32年)焼失〕、二の丸二階櫓御門は小学校〔1883年(明治16年)解体〕として現地でそのまま利用された。他の大部分は千歳御殿を含めてその際に解体された。城の周囲を巡っていた水堀も本丸と西の丸の南側部分を除き1962年(昭和37年)までに順次埋め立てられた。
1900年(明治33年)には富山城址内に2代目県庁舎が竣工し、1930年(昭和5年)に焼失するまで使用された。なお焼失後、県庁舎は現在地に移転新築されている。
1901年(明治34年)に開始された水害対策のための河道の付け替えの後、城の堀の一部であった神通川の旧河道の一部は松川となり、城址の北側を流れることとなった。


「平成」
2008年(平成20年)から2009年(平成21年)行われた埋蔵文化財調査において、富山市民プラザ脇で三の丸大手門の石垣が見つかり、古絵図上に示されていた富山城の正門である大手門の位置や遺構の存在が初めて確認された。本丸石垣の特徴との類似から、富山藩初期(1660年頃)の築造と推定されている。これは、市内電車の環状化工事に先立って行われたものである。
公園の再整備工事は2014年(平成26年)に完成したが、史実に基づいた復元ではない。本丸東側の本来は土塁であった部分に石垣が段階的に新造され、2012年(平成24年)3月には東側全面が石垣造りとなるとともに、直線であった縄張りに横矢掛り状の屈折部が設けられ、また地下駐車場入り口を城門風に作り替えるなど、富山城本来の歴史的な景観とは全く異なる様相を呈することとなり、木造天守再建や旧態復帰などの他の城址整備例とは違う方針で公園の整備が行われた。鉄筋コンクリート構造による模擬天守についても賛否両論がある。ただ既に模擬天守や富山市郷土博物館の建物は国の登録有形文化財(建造物)に登録されており、文化財行政上は原則として維持管理されなければならない歴史的建造物となっている。史実・旧態とは異なっているが、模擬天守は建設後60年を超えており、模擬天守のある風景が現在のの富山市を象徴する景観となっている面もある。
2017年(平成29年)、続日本100名城(134番)に選定された



【構造】
天然の要害である神通川を北面の守りとした後ろ堅固の梯郭式平城で、四周を水濠と河川とで2重に囲まれた10万石級の大名としては大規模な構えの城であった(江戸時代以降)。浮城の別名から、神通川の川面に浮かぶような様子であったことが伺い知れる。縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、東西に出丸を置き、本丸をそれら3つの郭で囲み、さらにそれを三の丸で凹状に囲む形のものであった。ただし、本丸搦手を守る東出丸はほかの郭のように三の丸に内包されておらず独立しており、また神通川の土手沿いに直接城外に通じているなど、反撃の基点となる大型の馬出しの性格を持つ郭であった反面、防御面では弱点であることから、さらにその東側に三の丸東北端に接する形で小郭が設けられており、この郭には幕末に千歳御殿(後述)が建てられた。
当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を得ていたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守は築かれなかったとみられている。3基の櫓については史料がなく、何基が建てられ、またどのようなものであったかなど全く不明である。櫓門については、実際に櫓門として建てられたのは予定の3門(本丸大手・本丸搦手・二の丸)の内、二の丸二階櫓御門のみであったとされているが、現存する二階櫓御門の写真からは、門に接続して宗藩の金沢城同様に唐破風を設けた海鼠壁の城壁が巡らされており石高相応に威儀を正していたことが見て取れる。
富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化は見られなかったが、1849年(嘉永2年)に10代藩主利保の隠居所として千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。名称こそ「御殿」であるが、その形状は周囲に水濠を設けた独立郭であった。
江戸時代後期には東西約680メートル、南北約610メートルの縄張りがあったが現在城址公園として残っているのは、本丸と西の丸(間の水濠は埋め立て)、それらの南面の水堀および二の丸の一部のみ(東西約295メートル、南北約240メートル)で、面積では約6分の1である。本来の富山城は石垣は主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっている。




【富山城址公園の施設】



「千歳御門」
総欅造り。1849年(嘉永2年)、千歳御殿の正門として建てられた富山城唯一の現存建築遺構。創建当初のものではなく、1855年(安政2年)の大火で焼失後の再築との説もある。門形式は三間薬医門(さんげんやくいもん)といわれる格式の高い城門建築で、桁行6m、梁間1.9m、屋根は切妻造りで赤瓦の本瓦葺である。明治の初めに門が解体された際、富山市米田の豪農に払下げられ移築されたが所有者が富山市に寄贈。2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて現在の場所に移築された。2012年(平成24年)4月には常時開門を開始した。現存する同形式の門は東大の赤門(旧 加賀屋敷御守殿門)だけとされ、2008年(平成20年)10月29日に富山市指定文化財に指定された。



「平成の石垣」 
千歳御門脇(南側)に2008年(平成20年)に完成した石垣。幅11メートル、高さ7メートル、奥行き12メートルで、富山城の石垣に使用された早月川の御影石を用いている。



「富山市郷土博物館」
2003年(平成15年)6月より、富山市郷土博物館(富山城)の耐震補強工事に着手、2005年(平成17年)11月3日に、展示内容も見直しリニューアルオープンした。
テレビニュースなどで富山城として紹介されることが多い建物である。いわゆる史実に基づかない「模擬天守」の外観である


内部は資料館となっています。


天守閣からは富山市内が一望できます。



「佐藤記念美術館」
東洋古美術を中心に収蔵する美術館。本丸搦め手の石垣を利用して建てられており、帝冠様式の建物に、東側は北陸地方に多い海鼠壁三層櫓を模した外観を持つ。



【富山城】
《加賀百万石前田氏の分家の居城となる》



名称(別名);
所在地;富山市本丸
城地種類;平城
築城年代;天文12年(1543)ころ
築城者;神保長職
主な城主;神保氏、佐々氏、前田氏
文化財区分;
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;2017年内部資料館リニュアル
地図;



※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)