Scarving 1979 : Always Look on the Bright Side of Life

1979年生な視点でちょっと明るく世の中を見てみようかと思います。

0と1の間

2004年11月08日 23時59分59秒 | 1分間スピーチ
今日は、0と1の間でした。

現在の私は1である。

しかし、この1に大きな疑問を抱いている。
本来、私の欲した1ではない。

1のまま、次の1に向かうものもいる。

けれどそれは、お互いの1に失礼であって、
私的には出来ない選択である。

もうひとつの1を隠し持つ、
そんなズル賢さも私にはない。

新しい1を得るためには、
0になる必要があるのではないだろうか。

しかし、0になったところで、
1になろうと再び努力するだろうか。

そして、目指すべき1を得たところで、
ホントに、1になろうとするだろうか。

そこでもまた、1を目指せないのではないか。

目指すべきではないところで1を得て、0の顔をしている、
私はそんな、0.5な行動があまりに好き過ぎる。

それが、0にも1にもなれない大きな要因だ。

…ということを書こうかな、と、朝ずっと考えていたら、
その後、人格に関わるとこで、似たようなことを言われてみる。

私は延々0.5で満足してる人間じゃないか、と。

それは正しい指摘だと思うんです、
仰る通り、セイロンです。

だって、0も1もカッコ悪いんですもん。

極端になると、自由に簡単に動けなくなる、
そんなとこにいきたくないですよ、私は。

そもそも0にも1にもなれるのが人なんですもん、
なんで0であること、1であることにこだわりを持つんでしょう。

自分を保守の道に進めてるだけで、
なんの面白味もありやしない。

思い出してみると、私は中学からずっと、
0.5の美学を貫いてきた気がします。

中学当時は、今回使った0と1を、全く上手くはないですけど、
飛び降り自殺者と、ビル内にいる人物という関係に喩えてました。

私は、ビルに閉じこもって屋上に登らないわけではないけれど、
でも屋上からは飛び降りず、屋上の端で落ちていった人を見つめ、
同時にビル内にいる人も見つめている、という。

ビル内にいる人にとってみれば、屋上の端にいる時点で自殺者と同じで、
飛び降りた人にしてみれば、飛び降りない人はビル内にいる人と同じで、
どちらからも、やっかまれる要素は持ち合わせているわけです。

けれど、そんなことわかってやってるんですから、
落ちた人になにを言われようが、高みの見物者になにを言われようが、
そんなの知ったこっちゃないわけです。

追い越せない、追いつけない人達ですもん、どうせ。
どちらも同じように大したことはないです。

もちろん、実際的には私のような中途半端が、
最も大したことないんですけどね。

どっちにも転べない弱虫なんですから。

けど、いつか私も、ビル内には戻れませんから、
落ちる日が来るとは思います。

それは認めざるを得ません。

でも今はまだ、屋上の端を、両手を広げて、片足ずつ、
自分のバランスで歩いてやるんだ。

誰にも認められなくても、誰に勘違いされても、
ここを、歩く。

私には極端な者には見えないものが見えている、
感じられないものが感じられている。

そこについて批判される筋合いなんて、
どこにもありやしない。

少なくとも私は、こうして話題にする以外、
極端を批判していない。

大多数に入った気でいる者は、
少数派を嫌うものだ。

少数派は大多数に立ち向かおうとする、
たとえ武器がなくても、負けるとわかっていても。

私もそうだが、
口の多いヤツは、大抵芯の弱いヤツだ。

強がったこと言ってたって、
男はズボンを下ろせば全てがわかるってもんだ。

…なんて書き上げて、気付いたら、
部屋の蛍光灯が、ピカチカと点滅してる。

これが、私。