今日は、本音と建前、心の声でした。
本音と建前とは少しお話が違うのですが、
昔から私は、本音で話す、というところの解釈を、
どうにも胡散臭く思っています。
本能というか、チョット悪い独善的なところを、
多くの人は本音だなんて決め付けたがると思うんです。
でも言動って、そんなに簡単に一元化できるものでもなくて、
複数の理由が絡み合ってることもありますし、
なんにも考えずにしてしまうこともありますし、
他人に対する思いやりだけしか考えてないってことも、
やっぱりあるわけです。
でも、他人のためなんて言うのも照れくさいので、
さも独善的な理由だったっぽく告げてしまう、
すると、それが本音とされてしまう。
そういうことって、きっとあると思うんです。
で、それは冗談だよ、とか言ってみても、
相手は、思いつくならそれも本音でしょ、なんてことを言うわけです。
それはチョット…と思うんですけど、
でも理屈としては、それはその通りなんですよね。
どう考えても、自分では辿り着かない、
理解できない他人の答えってあると思うんです。
どうしたって自分の中には持てない、
全く思いもしない答えが。
逆に考えると、自分の口から出る答えって、
それが冗談であれ、本心であれ、
どちらも確かに自分の中にあるものなんですよね。
だから、口に出した答えが全て自分だと思われても、
それは仕方のないことなんです。
単に、他人の真似をして、
それがたとえ自分の中でナシな答えだったとしても、
自分の中にある答えなんですから。
本音でも建前でも、本心でも冗談でも、
全ての答えが、自分である。
…なんて風に、
自分の言動には責任を持ちましょう、
とか、思ったわけです。
別になにがあったわけでもなく、
今後は、どうとられたっていいや、
って、自分の答えに開き直ろうか、
とか、思ったわけです。
私は全ての答えに責任を持つ、
そこで、逃げない。
全ての答えが、自分である。
本音と建前とは少しお話が違うのですが、
昔から私は、本音で話す、というところの解釈を、
どうにも胡散臭く思っています。
本能というか、チョット悪い独善的なところを、
多くの人は本音だなんて決め付けたがると思うんです。
でも言動って、そんなに簡単に一元化できるものでもなくて、
複数の理由が絡み合ってることもありますし、
なんにも考えずにしてしまうこともありますし、
他人に対する思いやりだけしか考えてないってことも、
やっぱりあるわけです。
でも、他人のためなんて言うのも照れくさいので、
さも独善的な理由だったっぽく告げてしまう、
すると、それが本音とされてしまう。
そういうことって、きっとあると思うんです。
で、それは冗談だよ、とか言ってみても、
相手は、思いつくならそれも本音でしょ、なんてことを言うわけです。
それはチョット…と思うんですけど、
でも理屈としては、それはその通りなんですよね。
どう考えても、自分では辿り着かない、
理解できない他人の答えってあると思うんです。
どうしたって自分の中には持てない、
全く思いもしない答えが。
逆に考えると、自分の口から出る答えって、
それが冗談であれ、本心であれ、
どちらも確かに自分の中にあるものなんですよね。
だから、口に出した答えが全て自分だと思われても、
それは仕方のないことなんです。
単に、他人の真似をして、
それがたとえ自分の中でナシな答えだったとしても、
自分の中にある答えなんですから。
本音でも建前でも、本心でも冗談でも、
全ての答えが、自分である。
…なんて風に、
自分の言動には責任を持ちましょう、
とか、思ったわけです。
別になにがあったわけでもなく、
今後は、どうとられたっていいや、
って、自分の答えに開き直ろうか、
とか、思ったわけです。
私は全ての答えに責任を持つ、
そこで、逃げない。
全ての答えが、自分である。