今日は、0と1の間でした。
現在の私は1である。
しかし、この1に大きな疑問を抱いている。
本来、私の欲した1ではない。
1のまま、次の1に向かうものもいる。
けれどそれは、お互いの1に失礼であって、
私的には出来ない選択である。
もうひとつの1を隠し持つ、
そんなズル賢さも私にはない。
新しい1を得るためには、
0になる必要があるのではないだろうか。
しかし、0になったところで、
1になろうと再び努力するだろうか。
そして、目指すべき1を得たところで、
ホントに、1になろうとするだろうか。
そこでもまた、1を目指せないのではないか。
目指すべきではないところで1を得て、0の顔をしている、
私はそんな、0.5な行動があまりに好き過ぎる。
それが、0にも1にもなれない大きな要因だ。
…ということを書こうかな、と、朝ずっと考えていたら、
その後、人格に関わるとこで、似たようなことを言われてみる。
私は延々0.5で満足してる人間じゃないか、と。
それは正しい指摘だと思うんです、
仰る通り、セイロンです。
だって、0も1もカッコ悪いんですもん。
極端になると、自由に簡単に動けなくなる、
そんなとこにいきたくないですよ、私は。
そもそも0にも1にもなれるのが人なんですもん、
なんで0であること、1であることにこだわりを持つんでしょう。
自分を保守の道に進めてるだけで、
なんの面白味もありやしない。
思い出してみると、私は中学からずっと、
0.5の美学を貫いてきた気がします。
中学当時は、今回使った0と1を、全く上手くはないですけど、
飛び降り自殺者と、ビル内にいる人物という関係に喩えてました。
私は、ビルに閉じこもって屋上に登らないわけではないけれど、
でも屋上からは飛び降りず、屋上の端で落ちていった人を見つめ、
同時にビル内にいる人も見つめている、という。
ビル内にいる人にとってみれば、屋上の端にいる時点で自殺者と同じで、
飛び降りた人にしてみれば、飛び降りない人はビル内にいる人と同じで、
どちらからも、やっかまれる要素は持ち合わせているわけです。
けれど、そんなことわかってやってるんですから、
落ちた人になにを言われようが、高みの見物者になにを言われようが、
そんなの知ったこっちゃないわけです。
追い越せない、追いつけない人達ですもん、どうせ。
どちらも同じように大したことはないです。
もちろん、実際的には私のような中途半端が、
最も大したことないんですけどね。
どっちにも転べない弱虫なんですから。
けど、いつか私も、ビル内には戻れませんから、
落ちる日が来るとは思います。
それは認めざるを得ません。
でも今はまだ、屋上の端を、両手を広げて、片足ずつ、
自分のバランスで歩いてやるんだ。
誰にも認められなくても、誰に勘違いされても、
ここを、歩く。
私には極端な者には見えないものが見えている、
感じられないものが感じられている。
そこについて批判される筋合いなんて、
どこにもありやしない。
少なくとも私は、こうして話題にする以外、
極端を批判していない。
大多数に入った気でいる者は、
少数派を嫌うものだ。
少数派は大多数に立ち向かおうとする、
たとえ武器がなくても、負けるとわかっていても。
私もそうだが、
口の多いヤツは、大抵芯の弱いヤツだ。
強がったこと言ってたって、
男はズボンを下ろせば全てがわかるってもんだ。
…なんて書き上げて、気付いたら、
部屋の蛍光灯が、ピカチカと点滅してる。
これが、私。
現在の私は1である。
しかし、この1に大きな疑問を抱いている。
本来、私の欲した1ではない。
1のまま、次の1に向かうものもいる。
けれどそれは、お互いの1に失礼であって、
私的には出来ない選択である。
もうひとつの1を隠し持つ、
そんなズル賢さも私にはない。
新しい1を得るためには、
0になる必要があるのではないだろうか。
しかし、0になったところで、
1になろうと再び努力するだろうか。
そして、目指すべき1を得たところで、
ホントに、1になろうとするだろうか。
そこでもまた、1を目指せないのではないか。
目指すべきではないところで1を得て、0の顔をしている、
私はそんな、0.5な行動があまりに好き過ぎる。
それが、0にも1にもなれない大きな要因だ。
…ということを書こうかな、と、朝ずっと考えていたら、
その後、人格に関わるとこで、似たようなことを言われてみる。
私は延々0.5で満足してる人間じゃないか、と。
それは正しい指摘だと思うんです、
仰る通り、セイロンです。
だって、0も1もカッコ悪いんですもん。
極端になると、自由に簡単に動けなくなる、
そんなとこにいきたくないですよ、私は。
そもそも0にも1にもなれるのが人なんですもん、
なんで0であること、1であることにこだわりを持つんでしょう。
自分を保守の道に進めてるだけで、
なんの面白味もありやしない。
思い出してみると、私は中学からずっと、
0.5の美学を貫いてきた気がします。
中学当時は、今回使った0と1を、全く上手くはないですけど、
飛び降り自殺者と、ビル内にいる人物という関係に喩えてました。
私は、ビルに閉じこもって屋上に登らないわけではないけれど、
でも屋上からは飛び降りず、屋上の端で落ちていった人を見つめ、
同時にビル内にいる人も見つめている、という。
ビル内にいる人にとってみれば、屋上の端にいる時点で自殺者と同じで、
飛び降りた人にしてみれば、飛び降りない人はビル内にいる人と同じで、
どちらからも、やっかまれる要素は持ち合わせているわけです。
けれど、そんなことわかってやってるんですから、
落ちた人になにを言われようが、高みの見物者になにを言われようが、
そんなの知ったこっちゃないわけです。
追い越せない、追いつけない人達ですもん、どうせ。
どちらも同じように大したことはないです。
もちろん、実際的には私のような中途半端が、
最も大したことないんですけどね。
どっちにも転べない弱虫なんですから。
けど、いつか私も、ビル内には戻れませんから、
落ちる日が来るとは思います。
それは認めざるを得ません。
でも今はまだ、屋上の端を、両手を広げて、片足ずつ、
自分のバランスで歩いてやるんだ。
誰にも認められなくても、誰に勘違いされても、
ここを、歩く。
私には極端な者には見えないものが見えている、
感じられないものが感じられている。
そこについて批判される筋合いなんて、
どこにもありやしない。
少なくとも私は、こうして話題にする以外、
極端を批判していない。
大多数に入った気でいる者は、
少数派を嫌うものだ。
少数派は大多数に立ち向かおうとする、
たとえ武器がなくても、負けるとわかっていても。
私もそうだが、
口の多いヤツは、大抵芯の弱いヤツだ。
強がったこと言ってたって、
男はズボンを下ろせば全てがわかるってもんだ。
…なんて書き上げて、気付いたら、
部屋の蛍光灯が、ピカチカと点滅してる。
これが、私。
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