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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第12番 西方山 安養院 九品寺
(くほんじ)
葛飾区堀切6-22-16
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第58番、荒綾八十八ヶ所霊場第78番

第12番は葛飾区堀切の九品寺(安養院)です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

九品寺は、建久四年(1193年)宥真法印が創建と伝わる真言宗の古刹です。
しかし享和二年(1802年)および明治元年の火災と幾たびかの水害で記録類を散失して縁起由緒は定かではありません。

山内には九品仏が安置され、こちらが寺号の由来となっているとの由。
現在の本堂は、昭和35年造営されたものです。

古刹の九品寺ですが、史料・資料類が少なく、この程度しか辿れませんでした。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(下千葉村)九品寺
同末(青戸村宝持院末) 西方山安養院ト号ス 開山宥真 建久八年(1197年)六月二日寂ス 本尊彌陀

『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
九品寺
真言宗豊山派。西方山安養院と号し、もと青戸宝持院の末。
当寺は付近の普賢寺とともに区内有数の古刹。
寺伝によると、建久四年(1192年)2月、宥真法印によって創立されて以来、八百年に近い法灯を伝えているが、一時荒廃し、また享和二年(1802年)および明治元年の火災と幾たびかの水害により、寺宝・記録散失して由緒不明。
ただし当寺の過去帳の奥書に、歴代住持とその没年が記録されている。
開山 法印宥真 建久八年(1197年)六月二日寂
(中略)
本堂以下建物も幾たびか再建されたが、現在の本堂は昭和35年5月の改築である。
寺宝
 阿彌陀如来像 江戸時代の作
 釈迦牟尼仏・十一面観世音地蔵二菩薩像 三軆とも同一岩座
 弘法興教両大師坐像 江戸時代の作


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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約10分。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 駐車場横の石佛群

区立東綾瀬小学校のすぐ南に、名刹らしい奥行きある山内を構えています。
寺域左手が広めの駐車場。
その隣に地蔵堂と石佛群(舟形光背の如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩)が御座します。



【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標-1

山内入口に寺号標。
門柱の向こう正面に本堂がみえます。
すっきりと整備されたいい山内です。


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 寺号標-2

石畳の参道。右手は墓域で、少しく進むと左手にもう一基の寺号標があります。
その先には釈迦如来の誕生佛が立っています。
その対面にはめずらしい金剛歌菩薩の坐像が御座します。


【写真 上(左)】 釈迦如来の誕生佛
【写真 下(右)】 金剛歌菩薩

令和5年に開創された「四国阿波 八供養菩薩霊場」公式Webによると、金剛歌菩薩(こんごうかぼさつ)は八供養菩薩の一尊で「箜篌(くご=ハープのような楽器)を持ち、歌をもってマンダラの世界を彩る仏さま、ご真言は『オン バザラ ギテイ ギク』」とのこと。

箸蔵寺(徳島県三好市)の公式Webには「密教の修法を行う僧侶にとっては、実際のお花や灯りをお供えする(事供養)に併せて、八供養菩薩のご真言をお唱えする心の供養(理供養)は必ずといっていいほど用いられており、密教では欠かせない仏様」「八供養菩薩は大きく分けて、金剛嬉菩薩、金剛鬘菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩という、曼荼羅の中心におられる大日如来さまが自分の周りの四如来様を供養するために生み出された「内の四供養菩薩(ないのしくようぼさつ)」と、金剛香菩薩、金剛華菩薩、金剛燈菩薩、金剛塗菩薩という、今度は四如来さまの方から先ほどのお返しに大日如来様を供養するために生み出された「外の四供養菩薩(げのしくようぼさつ)」という二つのグループから成り立っています。」とあります。

「四如来」とは胎蔵曼荼羅の中心・中台八葉院の四方に御座す(東)宝幢如来、(南)開敷華王如来、(西)無量寿如来、(北)天鼓雷音如来と思われます。
大日如来と中台八葉院の四如来の「相互供養」にかかわる尊格と思われます。

八供養菩薩や金剛歌菩薩は仏像として拝することは希で、少なくとも筆者は初めてです。
ご真言がわかりませんので、光明真言をお唱えしました。

こちらは、『有楽町で逢いましょう』、『潮来笠』、『いつでも夢を』などを生み出した作詞家の佐伯孝夫(明治35年-昭和56年)の菩提寺なので、そのゆかりで奉安されているのかも。

■ いつでも夢を - 橋幸夫・吉永小百合 / 1962年(昭和37年)

高度成長期のこの頃のヒット曲ってほんとうに明るく、夢にあふれている感じがします。



【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 三尊


【写真 上(左)】 延命地蔵菩薩
【写真 下(右)】 修行大師像

さらに進むと左手に延命地蔵菩薩倚像、阿弥陀如来坐像、修行大師像の三尊が並んで御座します。
参道右手には六地蔵尊に金佛の聖観世音菩薩立像。


【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 観世音菩薩


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

昭和35年改築の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
堂前に金灯籠一対、十三重石塔一対を配した堂々たる本堂です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、真言宗豊山派の宗紋「輪違紋」を染め抜いた紫の向拝幕を巡らせています。
見上げには寺号扁額。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 九品仏

本堂向かって右手奥は墓域で、その前に石佛坐像の九品佛が安されています。
そのさらに奥の墓域入口には、佐伯孝夫の『いつでも夢を』の歌碑がありました。

御朱印は本堂向かって左奥の庫裏にて拝受しました。


〔 九品寺の御朱印 〕



中央に「阿弥陀如来」の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(火焔宝珠)。
左上には「荒綾第七十八番」の札所印。
右下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

御朱印は荒綾霊場第78番の一種類で、隅田川霊場の御朱印は出されていないとのことでした。


■ 第13番 牛頭山 弘福寺
(こうふくじ)
公式Web

墨田区向島5-3-2
黄檗宗
御本尊:釈迦如来(釈迦牟尼佛)
札所本尊:
司元別当:
他札所:大東京百観音霊場第31番、弁財天百社参り第84番、隅田川七福神(布袋尊)、墨田区お寺めぐり第16番

第13番は墨田区向島の弘福寺で、黄檗宗の名刹です。
弘法大師霊場で黄檗宗の寺院が札所となっている例はきわめて希で、この点からも隅田川二十一ヶ所霊場と隅田川七福神の関連がうかがわれます。

公式Webをメインに、適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。

延宝元年(1673年)、黄檗宗(派)第2代木庵性瑫禅師の弟子・鐵牛道機禅師は、葛飾郡須田村香盛島にあった香積山弘福寺を黄檗禅の寺(宇治萬福寺の末寺)として葛西一族(江戸氏一族の牛島氏とも)の城址に遷し、牛頭山弘福寺と号したといいます。

山号の「牛頭」とは、当時隣接していた牛嶋神社の御祭神、須佐之男命の別称が牛頭天王で、古くから地主神として祀られていたことによると伝わります。

開山は鉄牛道機禅師、開基は小田原城主稲葉正則。
鉄牛禅師(1628-1700年)は石見國(島根県)(長門とも)出身の黄檗宗の名僧で号は自牧子。諡号は大慈普応国師。

因幡龍峯寺(鳥取市)で修行後、隠元隆琦禅師に参禅し宇治黄檗山萬福寺創建にかかわりました。
隠元禅師の高弟・木庵禅師に師事して、その法統を嗣ぎました。

教禅一致の教化につとめ、洛西の葉室山浄住寺を中興、小田原藩主稲葉正則の招きで関東に入られ紹太寺、江戸弘福寺などを開山されています。

仏道だけでなく、印旛沼や手賀沼干拓などの社会事業にも注力し、稲葉正則に働きかけて町人請け負いの新田開発を進めるなど、行動力に富んだ禅僧と伝わります。

開基の稲葉正則(1623-1696年)は、江戸時代前~中期の譜代大名で小田原藩2代藩主です。

稲葉氏は伊予の豪族・河野氏(伊予橘氏)の一族(異説あり)とされ、戦国期の当主良通(一鉄)は安藤守就・氏家卜全とともに「西美濃三人衆」と称され西美濃で勢力を振るいました。
斎藤道三から織田信長麾下に転じ、本能寺の変ののちは豊臣秀吉に仕えました。

良通の嫡子・貞通は関ヶ原の戦いで東軍に転じて武功をあげ、美濃郡上藩4万石から豊後臼杵5万余国の大名となりました。
良通の庶長子・重通も美濃清水1万2千石の大名となり、その家督は稲葉氏の一族尾張林氏より婿養子に入った正成が継ぎ、これより正成の系譜は正成系稲葉家と呼ばれます。

正成の継室の春日局が徳川3代将軍家光公の乳母となったため、正成の子正勝が下野真岡藩4万石から相模小田原藩8万5千石へと栄転し、老中も務めました。

稲葉正則は正勝の次男で相模小田原藩2代藩主となりました。
家督相続時は幼少のため大伯父(春日局の兄)・斎藤利宗の補佐を受け、後に父方の従兄で幕政の有力者・堀田正盛が後見人を務めたこともあり、幕閣内で重きをなし、老中、大政参与まで進み「元老」と称されて、4代将軍家綱公の文治政治を担ったといいます。

伊達家、毛利家の支援・後見も務めるなど、外様系大名にも大きな影響力をもったといいます。

明暦三年(1657年)の明暦の大火を契機に、万治元年(1658年)幕府直轄の消防組織・定火消が制度化され、万治二年(1659年)1月、稲葉正則率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげました。

これは「出初」(でぞめ)と呼ばれて後に制度化され、その伝統はいまも各地の消防の「出初式」として受け継がれています。

稲葉正則は仏道、ことに黄檗宗の信仰篤く、鐡牛禅師を招いて小田原紹太寺を開基、江戸では弘福寺の開基となっています。

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黄檗宗(おうばくしゅう)は、明末清初の禅宗の仏教僧隠元隆琦(いんげんりゅうき、1592-1673年)禅師が来日して開いた禅宗の一派です。
黄檗宗大本山萬福寺の公式Webなどから沿革を追っています。

明国の福建省に生まれた隠元は若くして仏道に発心、29歳で福建省福州府の黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度し、35歳で黄檗山の費隠通容から印可を受けて萬福寺住持となりました。

当時、長崎には明朝の動乱から逃れて多くの中国人が渡来し、福州出身者を中心に興福寺、福済寺、崇福寺(いわゆる長崎三福寺)が建てられました。
うち崇福寺の住持に空席が生じ、渡日していた興福寺住持の逸然性融によって、承応三年(1654年)63歳の隠元禅師は日本に招請されました。

来日した隠元禅師のもとには、明禅の新風と隠元の人柄を慕う僧や学者たちが集まり活況を呈したといいます。
隠元禅師は当代一流の文化人・知識人として知られ、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚なども禅師が請来されたと伝わります。

来日は当初三年間の約束でしたが、妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇の崇敬を受け、龍渓禅師が4代将軍家綱公との会見の場を設け、万治三年(1660年)山城国宇治郡に寺地を賜り、翌年、禅刹を開創して中国の自坊と同じ黄檗山萬福寺を号しました。

翌順治十二年(1655年)隠元禅師は中国黄檗山から名僧・木庵性瑫禅師を招いて長崎・福済寺の住持とし、寛文元年(1661年)木庵禅師は宇治の黄檗山萬福寺に入りました。

寛文四年(1664年)、隠元禅師は後席を木庵禅師に譲り松隠堂に退きました。
寛文十三年(1673年)、隠元禅師は後水尾法皇から「大光普照国師」の特諡を認められたのちに示寂。世寿82歳といいます。

黄檗禅の法統を嗣いだ木庵禅師は寛文五年(1665年)、江戸にくだり4代将軍家綱公に謁見して優遇され、紫雲山瑞聖寺を初め十余寺を開創し、将軍より紫衣を賜っています。
以降も、黄檗禅と徳川将軍家との関係は良好だったといいます。

隠元隆琦禅師の禅(黄檗禅)は、鎌倉時代中期の臨済宗(混淆禅)の僧・円爾(えんに/聖一国師)の師である無準師範や、明禅の費隠通容禅師の法系を嗣ぐ臨済禅とされ、臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗ったともいいます。

江戸時代もこの状態がつづいたとみられますが、明治7年明治政府が禅宗を臨済・曹洞の二宗と定めたため、明治9年禅宗の一宗、黄檗宗として独立しました。

しかし、臨済禅と黄檗派の関係は密接で、いまでも臨済宗・黄檗宗共同の公式Web(臨黄(りんのう)ネット)が運営されています。

宗風は、明禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映した混淆禅とされています。(Wikipediaより)

黄檗派は当初から茶道や料理との関係が深く、中国風の普茶料理はよく知られています。
また、黄檗派は大本山・黄檗山萬福寺の当初の住職の多くが中国から渡来ということもあり、中国風の様式を色濃く残しています。

文化面でも独特な新味があり、幕府の外護もあって複数の大名家や文化人の支援を得、鉄眼道光(1630-1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めました。
延享二年(1745年)の『(萬福寺)末寺帳』には、1043もの末寺が記載といいます。

黄檗派(宗)の伽藍の多くは明朝様式を取り入れたもので、正面一間を吹放しとした主伽藍を中心軸に置き、同じ大きさの諸堂をシンメトリに配します。
「卍字くずし」の勾欄、「黄檗天井」(アーチ形の天井)、円窓、「桃符」(桃の実形のデザイン)などがその代表例とされます。

黄檗宗の寺院を訪れたとき、ある種独特の印象を受けるのはこのような意匠によるものと思われます。
また、「梵唄」(太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使い独特の節で読まれるお経)も黄檗宗独自のものとして知られています。

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牛頭山弘福寺は、江戸における黄檗禅の名刹です。
開山の鉄牛禅師は隠元禅師の直弟子ですから、まさに黄檗禅本流の寺院かと。

御本尊は松雲作の釈迦如来(釈迦牟尼佛)坐像。
七堂伽藍を整えた大寺でしたが、江戸時代の幾度の大火や関東大震災で焼失し、現存の本堂等は昭和8年再建のものです。

当山は文化文政の頃より隅田川七福神詣りの札所として知られ、布袋尊が祀られています。
また、名入り根付や咳や口中の病に霊験あらたかな「咳の爺婆尊」などもよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいたそうです。

また、弁財天百社参り第84番の札所ですから、弁財天霊場としても知られていたとみられます。

山内には鳥取池田藩藩主・松平冠山公、徂徠学の嚆矢、儒家南宮大湫、星学家桃東園、
林東溟などの墓があり、俳人建部寒葉齋綾足の碑があるなど見どころの多い寺院です。

森鴎外は少年時代この地で過ごしており、没後一時は弘福寺に葬られましたが、のちに三鷹の禅林寺に改葬されました。

幕末の元勲勝海舟(1823-1899年)が江戸島田道場で剣道に励んでいた若いころ、師のすすめで当山に通い、雲水とともに参禅していたといいますが、これを示す記録は残念ながら関東大震災の折に焼失したそうです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾群巻二』(国立国会図書館)
(須崎村)弘福寺
黄檗宗山城國宇治萬福寺ノ末 牛頭山ト号ス
当寺元善左衛門村内香積山トイヘル小庵ナリシカ 黄檗二代木庵ノ弟子鉄牛延寶二年(1674年)爰ニ移シテ山号寺号ヲモ今ノ如ク改メ 堂舎寮坊善美ヲ盡シテ落成シケレハ 大家の帰依日々ニ増加シ繁栄セリ
開基ハ稲葉美濃守正則ナリ 元禄九年(1696年)歿シ潮信院泰應元如ト法贈ス
本尊釈迦 恵心ノ作長三尺坐像ナリ
脇士迦葉阿難モ同作ニテ 立像長三尺五寸
延寶五年(1677年)十一月二十一日厳有院殿御遊猟ノ時当寺ニ渡御アリテ 堂舎ノ落成ヲ上覧マシ々々白銀許多ヲ賜ヒ 夫ヨリ後タヒ御膳所トナレリ

総門 今ハ廃セリ
天王閣 弘福寺ノ三字ヲ扁ス 木庵ノ筆ナリ(略)正面ニ布袋後面ノ中央ニ韋駄天文殊四隅ニ四天王ヲ置リ 共ニ運慶ノ作 楼上天王閣ノ三字ヲ掲ク 是モ鉄牛ノ筆也
佛殿 大雄殿ノ扁額アリ 隠元筆 又本尊ノ上ニ大威徳ノ三字ヲ扁ス(略)
禅堂 選佛場ノ扁額ヲ掛ク 内ニ観音地蔵ヲ安ス(略)
斎堂 今ハ蹟ノミナリ
開山堂 コレモ今ハ廃セリ
大神宮八幡春日合社 八僧稲荷社 箱根権現浅間熊野合社

『江戸名所図会 第4』(国立国会図書館)
牛頭山弘福禅寺
牛御前宮の東に隣る。此邊を須崎といふ。黄檗派の禅室にして、洛陽萬福寺を模す。
本尊は唐佛の釋迦如来、左右は迦葉、阿難なり。
開山鉄牛和尚、延寶紀元癸丑創造す。

『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区資料/PDF P.40)
弘福寺(向島5-3-2)<大雄宝殿は区登録文化財>
かつて隅田村香森島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673年)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城趾に寺地を受け、ここに移し、現在に至っていると伝えています。
開山は鉄牛道機禅師で、開基は小田原城主稲葉正則です。
鉄牛は石見(島根県)の出身で、京都宇治万福寺の創建にも尽力し、大変行動力のあった禅僧と伝えられています。
現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれています。
伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建されました。
森鴎外は少年時代、この地域で過ごし、没後ここに葬られました。しかし、震災後に三鷹禅林寺へ改葬されました。
黄檗宗の関係から鳥取藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院として、多くの関係者の菩提寺となっています。

咳の爺婆(じじばば)尊
風外和尚の名と徳から、人呼んで「咳の爺婆尊」。
口中に病のある人は爺に、侯を病む人は婆に祈り、咳・風邪の病が全快したら、煎豆や番茶をそなえて供養する習わしが伝わっています。



原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第4,有朋堂書店,昭2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは京成本線・都営浅草線・東武スカイツリーライン「押上」駅で徒歩約15分。

徒歩ならば今戸方面から桜橋経由でもアプローチできます。
吾妻橋から牛嶋神社、三囲神社と隅田川沿いに巡るのも、風情ある道行きです。

都道461号見番通り沿いにあり、すぐお隣は第18番札所の長命寺です。


【写真 上(左)】 前面道路から
【写真 下(右)】 寺号標

周囲に築地塀を巡らし、少し引きこんでインパクトのある山門を構えています。
山門手前には亀の上に寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 正月の山門と山内

山門は切妻屋根を二重におき、本瓦葺でいずれも鴟尾(しび)を置いています。
どういう様式かよくわからないのですが、Webでは「黄檗様式」「明様式」としている記事が目立ちます。


【写真 上(左)】 寺号入りの軒丸瓦
【写真 下(右)】 山門扁額

軒には寺号入りの軒丸瓦が巡らされるなど、芸が細かいです。
見上げに独特の書体の山号扁額。
門柱には禅刹らしく「偈」が掲げられています。

参道右手の鐘楼は、切妻屋根本瓦葺で鴟尾を置いたすこぶる端正な意匠。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 咳の爺婆尊のお堂

その先には「咳の爺婆尊」の堂宇。
風外和尚禅師(寛永年中(1624-1644年)の僧)自刻の父母の石像が御座します。

風外禅師は相州真鶴山中の洞穴で求道し父母の石像を朝に夕に孝養していたところ、小田原城主で当山開基の稲葉正則が和尚の温情に感じ入り江戸下屋敷にて供養をつづけ、のちに菩提所である弘福寺に祀らしめたものとの由。


【写真 上(左)】 咳の爺婆尊
【写真 下(右)】 咳の爺婆尊の扁額

人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内を病む者は爺に、咳を病む者は婆に快癒祈願し、全快ののちには煎り豆に番茶を添えて供養する習わしです。

とくに咳止めの飴を買い求める参拝者が多く、この飴はいまも頒布されています。
祈願すれば”風邪をひかない”ともいわれ、受験シーズンはことに賑わうそうです。


【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 庭園

参道左手は寺務所と客殿?。
かつては山門と主伽藍を中心軸に、同じ大きさの諸堂をシンメトリに配していたようですが、幾度の大火や関東大震災で焼失し、いまはこのような伽藍配置となっています。
客殿の裏手は庭園になっています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂(大雄宝殿)はさすがに風格があります。
「文化遺産オンライン」には、「(昭和8年竣工で)二重仏堂である礼堂の後方に一重の後堂が接続した複合仏殿である。」「月台・聯額・棟飾りなどを備える点は黄檗宗大雄宝殿の一般形式に準じる。」とあります。


【写真 上(左)】 「祝國」の扁額
【写真 下(右)】 「大雄寳殿」の扁額

1層向拝に「祝國」、2層に「大雄寳殿」の扁額を掲げています。
まぁ、建築的にいろいろと見どころはあるのでしょうが、独自の意匠を旨とする「黄檗様式」に生兵法のコメントは無謀なので、このくらいにしておきます。(と、逃げる・・・(笑))


【写真 上(左)】 横からの向拝
【写真 下(右)】 向拝上


【写真 上(左)】 葵紋が刻まれた天水鉢
【写真 下(右)】 年始の山内

豪壮な唐破風を押し立てた客殿?も見事な建築です。


【写真 上(左)】 客殿?の二重蟇股
【写真 下(右)】 客殿?の木鼻彫刻(見返り獅子)


【写真 上(左)】 布袋尊の向拝
【写真 下(右)】 布袋尊の碑

隅田川七福神の一尊、布袋尊は本堂向かって右手の扉の奥深くに御座します。
布袋尊(布袋和尚)は中国の実在の禅僧で、その名を釈契此(しゃくかいし)といいます。
中国とゆかりの深い弘福寺に布袋尊が祀られているのは。なるほどうなづけるものがあります。

本堂向かって右手墓域には池田冠山(池田定常、因幡国若桜藩5代藩主)の墓があります。
他にも句碑や文化財多数ですが、きりがないのでこのあたりで引き上げます。


【写真 上(左)】 池田冠山墓
【写真 下(右)】 御朱印見本

御朱印は本堂向かって左手前の授与所にて拝受できます。
複数の御朱印が見本で案内されています。

〔 弘福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 大雄宝殿の御朱印
【写真 下(右)】 御本尊・釈迦牟尼佛の御朱印

 
【写真 上(左)】 達磨大師の御朱印
【写真 下(右)】 布袋尊の御朱印


寶船の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第16番のスタンプ

なお、「大雄宝殿」の意味については→ こちら(御朱印の読み方)を覧ください。


■ 第14番 八幡山(渋江山) 清重院 西光寺
(さいこうじ)
葛飾区宝町2-1-1
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(寶木塚村)八幡社(現・(宝町)八幡神社(葛飾区宝町))
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第36番

第14番は葛飾区宝町の西光寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
なお、この記事は■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2の「19.超越山 来迎院 西光寺」をベースに作成しました。


西光寺は、親鸞聖人に帰依した西光房善慶(葛西清重)の草庵として元仁元年(1224年)に創建され、慶長十八年(1613年)浄土真宗より新義真言宗に宗旨を改めたといいます。
寺宝の阿弥陀如来画像は親鸞聖人の御作といわれ、戦前までは浄土真宗の門徒が当山を訪れ、報恩講が行われていた(→ wikipediaより)ともいい、真宗の名残りを残す寺院です。

渋江山としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』には「八幡山無量院」とあり、山内掲示にも「八幡山西光寺」とあるので現山号は八幡山と思われます。

約1㎞南の四つ木にある天台宗の超越山 来迎院 西光寺も葛西清重と親鸞聖人にゆかりがあり、しかも南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番の札所でもあるため間違いやすくなっています。

なお、超越山 来迎院 西光寺については→ こちらの「19.超越山 来迎院 西光寺」をご覧ください。

少しく当山開基の葛西壱岐守清重(西光房善慶)について辿ってみます。

葛西氏は桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流。
鎌倉幕府草創期の豊島氏の当主、豊島清元(清光)の三男、三郎清重は葛西御厨を継いで葛西氏を称しました。

治承四年(1180年)、源頼朝公の旗揚げには父・清元とともに隅田川で参陣。
この時点での秩父氏一族の動静は複雑で、江戸重長は頼朝公の参陣要求になかなか応じず、公は江戸重長の所領を召し上げて同族の葛西清重に与えようとしました。

これに対して清重は「一族(江戸氏)の所領を賜うのは本望ではなく、他者に賜るように」と頼朝公に言上したといいます。
これを聞いた頼朝公は怒りをあらわし清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」ときっぱり拒絶しました。
頼朝公は清重の毅然たる態度に感じ入り、これに免じて江戸重長を赦したといいます。(以上『沙石集』より)

この逸話の背景については諸説ありますが、おおむね頼朝公の葛西清重に対する信頼をあらわすもの、また、葛西清重が頼朝公と秩父一族の融和に奔走したことを示すものとみられています。

常陸国の佐竹氏討伐の帰途、頼朝公は清重の館に立ち寄り、清重は丁重にもてなして頼朝公とのきずなを強め、清重は頼朝公寝所警護役に選ばれています。

元暦元年(1184年)夏の平氏討伐には源範頼公に従軍。
九州で活躍し頼朝公から御書を賜り、文治五年(1189年)には奥州藤原氏討伐に従軍し、阿津賀志山の戦いで抜け駆けの先陣を果たし、さらに武名を高めました。

奥州討伐後、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など奥州の地に所領を賜り、奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されています。
のちに奥州で勢力を伸ばした葛西氏は清重の流れと伝わります。

以後は鎌倉に戻り幕府の重臣として職責を果たしましたが、奥州総奉行も兼務。頼朝公からの厚い信任は以後もかわらず、幕府内の立場を確かなものにしています。
頼朝公没後は北条氏と歩調を合わせ、北条方からも信任を得て壱岐守にも任じられています。

有力御家人の粛清、失脚あいつぐなかで一貫して時の権力者から信任を得、存在感を保ったことは、清重のただならぬ政治力を示すものかと思われます。

晩年、清重は関東教化で訪れた親鸞聖人に帰依して出家しました。
嘉禄元年(1225年)、親鸞聖人が渋江郷の清重の館(現・西光寺とされるが当山か、四つ木の西光寺かは不明)に立ち寄られた際に雨が降り止まず、聖人は五十三日間も足止めされ、その間に清重は存分に聖人の教えを受けて発心し、聖人に帰依して西光房善慶(西光坊定蓮とも)と改め、居館を雨降山 西光寺と号したとされます。


なお、葛飾区四つ木にある天台宗 超越山 来迎院 西光寺、墨田区東向島にある曹洞宗 晴河山 法泉寺も葛西清重ゆかりの寺院で、後者は清重が両親供養のために建立したとされています。(戦国時代に真言宗から曹洞宗に改宗)

また、江戸期には(寶木塚村)八幡社(現・(宝町)八幡神社)の別当を務めていました。


【写真 上(左)】 寶木塚(宝町)八幡神社
【写真 下(右)】 寶木塚(宝町)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻四』(国立国会図書館)
(寶木塚村)西光寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 八幡山無量院ト号ス 本尊彌陀

(寶木塚村)八幡社
村ノ鎮守ナリ 西光寺持 下持同シ
稲荷社

『葛飾区寺院調査報告 下』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
西光寺
寺伝によると、元仁元年(1224年)西光房善慶(葛西清重)の草庵にはじまり、のち浄土真宗の一寺となって西光寺と名づけた。
慶長十八年(1613年)再興のとき真言宗に転じたが、東金町光増寺とともに親鸞聖人ゆかりの地として、さまざまな伝説がある。
境内にあった周囲四メートルの親鸞聖人袈裟かけの松は、聖人がわが弘法とともに千有余年の間繁茂せよといわれたと伝え、根元にその由来を記した碑がある。天明六年(1786年)の大風雨のために倒れ、天保年間(1830-1844年)に植え継いだ樹も枯れ、現在の樹は三代目にあたるという。また境内に天保十二年(1842年)地元の人々の建てた<丹頂塚>がある。将軍放鷹のとき死んだツルの供養のためにできたものである。

本堂 客殿・庫裏 大師堂 六地蔵堂
寺宝
 阿彌陀如来立像(本尊) 室町時代作か
 金剛界大日如来像
 地蔵菩薩立像
 不動明王・両童子立像
 聖徳太子立像
 弘法大師坐像
 麻布淡彩親鸞聖人像
 
【十方庵遊歴雑記】(文政九年(1826年、釈敬順著より)(要旨抜粋)
本堂五間、内陣を囲みて彌陀の尊形を掛たり。
御尊形もおぼろに、いとゞ殊勝に拝れ賜ふは、親鸞聖人の御自画とぞ。
これはその往古、聖人常総の間より武州及び相州へ通行し賜ふ途中、渋江村の草庵に仮初にゆすらひ賜ひしが、霖雨降りしきり止ざる事五十三日、清重が茅屋に留錫し賜ふ折から、当寺の住僧も参上して願ひしまゝ、御序に御自画ありい与え賜ひし御真向とかや。
文政九年の三月、一村の人々同信一列して、件の御真向の本尊を内陣左に懸まいらせ、渋江村の参詣の人々我もゝと群参して低頭礼拝するは、今日を結縁のはじめ、開扉弘法の時節到来といふべし。

■ 寶辨財天勧請由来之記(山内掲示/抜粋)
かつて当寺境内に親鸞聖人袈裟懸之松と称する老松があり、住民らはこれを宝の木と称して大切にしていました。
当地の宝木塚村という旧名はこの老松に由来すると伝えられております。
今日老松はなくなり、宝木塚の地名はわずかに宝町という町名に名残りをとどめるのみとなりました。
当山ではこの宝の地名にちなんで、かねて境内地に辨財天を勧請し、これに祈祷の熱誠をこらし、もって当山檀信徒をはじめ、当地近在の人々に有形無形の福徳をめぐみ、財宝と技芸の豊満をもたらしたいと発願して参りました。
時あたかも平成大不況のさ中、仏師苦心の斧鑿ようやく成就して、ここに宿願の等身八臂の大辨財天を勧請し得ましたこと老衲の最も慶びとするところであります。
平成十年五月五日
八幡山西光寺 昭全 敬白


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最寄りは京成本線「お花茶屋」駅で徒歩約8分。

荒川と旧・曳舟川の間、住宅密集地にあります。
このあたりの路地は複雑で交通規制も多いので、電車利用をおすすめします。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

築地塀に囲まれた山内。
門柱に寺号扁額
村内はさほど広くはありませんが、緑濃く落ち着いた雰囲気があります。


【写真 上(左)】 宝辨財天のお堂
【写真 下(右)】 宝辨財天の扁額

参道右手に宝辨財天を奉安する辨天堂(六角堂)。
山内掲示によると、等身八臂の宝辨財天は平成十年五月の勧請・奉安とのことで、当山ご住職肝入りの勧請らしく、御朱印も授与されています。


【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 修行大師像

参道に沿って、六地蔵尊、修行大師像も奉安されています。



【写真 上(左)】 緑濃い山内
【写真 下(右)】 本堂

本堂は堂前に仏舎利宝珠を配し、入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻を置いています。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

桟唐戸の上に寺号扁額。
コンパクトながら落ち着きのあるいい向拝です。


【写真 上(左)】 見返り獅子の木鼻と斗栱
【写真 下(右)】 中備の龍の彫刻



【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 親鸞聖人御𦾔跡の碑

めずらしいのは「親鸞聖人御𦾔跡の碑」で、当山と親鸞聖人のゆかりを物語っています。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊・阿弥陀如来と辨財天の2種の御朱印を授与されています。
隅田川霊場と南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)、ふたつの霊場の札所ですが、札所印は捺されていないとのことでした。


〔 西光寺の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 宝辨財天の御朱印


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ Forever You ~永遠に君と~ - 愛内里菜


■ Hands ~Our Love~ - 中村舞子


■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」
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