民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「声が生まれる」 音がない その2 竹内 敏晴

2016年12月02日 00時06分13秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音がない その2 P-5

 ある日、教科書をひろげ、聴音器を耳に当て、カタカナのルビを書き込んだ紙片を睨みながら必死に授業を聞いて――いや見つめて――いた。ページをめくる時に紙片がヒラと下へ落ちた。取ろうと動いたとたんに教師が気づいた。つかつかと教壇を下りてくる勢いにわたしは凍りついた。紙片を拾い上げた中年の教師はじっと眺めていた――わたしは、この切ない努力をいくらかでも察してくれたら、と甘い望みを持ったのを覚えている――。かれは眼を上げると軽蔑しきった眼でわたしを睨み、口元をきゅっと歪めてなにか言った。手の中の紙をビリビリと破るとねじって床に捨て、踏みにじったままさっと教壇へ上っていった。発語の切れ端をわたしは口の形で読み取ることができた――ように思った。「コンナコト(シテルカラ)」「ダメナ(ンダ)」。聞こえの悪いものは相手の唇の形を読むことを否応なしにいくらかは身につける。この教師はアメリカ留学帰りで後年聞いたところではリベラルで温かいいい先生だったとの評判で、わたしは驚いた。わたしには鬼としか見えなかった。

 もともと耳は悪かった。幼い頃からツンボ、ツンちゃんと呼ばれ、耳だれが絶えず、学校に上がっても体操の時間に校庭で並んで左側からお日さまが当たると、その晩必ず左耳が熱を持ち、のどが痛み、飲むも食うもならず額と耳とに氷嚢をあて絶対安静で五日は寝てはいなくてはならぬという有様だったのが、それでも六年生にもなる頃に体力がついてきたのだろう、少しは安定して聞こえるようになっていたのだが、今度は決定的にひどくなった。丸く厚い頭蓋の内に、カーンというかドドドというか、聞こえない耳鳴りのうねる中にいる。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。