山んばのはなし 「あずきまんまの歌」より 沼田 曜一 平凡社 1976年
陸中の田老の奥、佐羽根に「ねんぶつ街道」と呼ばれる山道がある。
これはあるとき、表街道に山んばが出るといううわさがたって、それでも、どうしても用があって、ここを通らなければならない人が、その道を避けて、裏の山道を、「なみあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、念仏を唱えながら通行したところからつけられた名前だそうだ。
この街道をそれて、ちょっと奥へ入ったところに、60才ぐらいのじいさまとばあさまが住んでおった。じいさまは百姓であるが、猟の名人でもある。ことに弓にかけては、近在に、ちょっと名の知れた腕の持ち主。ばあさまは、片方の目が不自由であるが、何よりも機織りがだいすきで、勝手仕事のほかは、一日じゅう、
バッタン、バッタンと、機を織っておる。
どういうわけか、山んばは、たいそうこの家が気に入っているらしく、ひもじくなると、きまってこの家にやってきて、ずかずか部屋へ上がりこみ、いきなり、炉にかけてあるなべの中に手を突っ込むと、それこそ、むしゃぶり食らう。煮え立っておってもへいちゃらだ。相手が恐ろしい山んばだから、ふたりは部屋のすみに肩を寄せ合って、ガタガタふるえながら、なすがままにさせておる。
やがて、たらふく食らって、腹のくちくなった山んばは、ほかにするというでもなく、そのままさあーっと、風のように出て行って、木立ちの奥へ、姿を消すのである。
こんなことが、だいぶ前からたびたびあったけれども、命を取られるよりはましなので、ふたりはだまってがまんしておった。
ところがあるとき、山んばが、珍しく土産を持ってやってきた。
「いいか、だれにも、いうでねえぞ」
岩穴の奥から、こだまして聞こえてくるような、陰にこもった、しわがれ声でそういうと、ばあさまに、麻糸のへそを置いていった。へそというのは、機織りの糸を玉のように巻いたものだ。
少々、気味が悪かったけれども、ばあさまが、さっそく使ってみると、このへそ、不思議なことに、織っても織っても糸が減らない。麻の織物がどんどんできる。それはお金に代えられるから、ばあさまはうれしくてたまらない。
「こりゃあ、ええもんをくれたわい」
人間というものは現金なもので、こんな宝物をくれた人が、恐ろしい人だなどとはとても思えなくなってきた。恐ろしいどころか、ごちそうをこしらえた晩などは、
「こんなうまいものがあるのに、どうしてこんのじゃろうか」
などと、心待ちにしておるときさえある。
山んばのほうでも、なにか、通い合うものを感じておったのかも知れない。いつもなら、食らうだけ食らったら、さっさと闇に消えていくのだが、ここのところ、家を出て行っても、そのまま山へ帰ろうとせず、ちょっと離れて、家の中が見渡せるような場所に腰をおろし、両膝を抱きかかえたまんま、じいさまやばあさまのすることを、不思議そうに、じっとながめておるようになった。
はじめのうちは、いつまでもながめられているのがどうも気になるし、かといって、雨戸を閉めるわけにもいかないから、こわごわとばあさまが、
「・・・山は寒うないか」とか、「ご亭主はおらんのか」とか聞いてみたけれども、ときどきまばたきをするだけで、身動きもせずに、だまってながめておるだけである。そのうちになれてしもうて、見られておっても、気にせんようにしておったが、それでも、じいさまのほうは、どうにも山んばが好きになれない。しらみのいそうなざんばら髪に、おれてまがったような鼻、こけの生えたような指先の、長くのびたするどい爪。そして、いかにも早く走りそうな、くものようなすね。どれもこれも、気味の悪いものばかりであった。だからじいさまは、山んば見ておると何もせずに、炉ばたでふて寝をしておる。
そうこうするうちに、八月の八幡さまの祭りの日がやってきた。
あさから、笛や太鼓の音が鳴り響いて、町はたいへんなにぎわいである。なんといっても、この日の呼びものは、神社の境内で行われる、カケ矢である。弓矢で的を射て勝負を争う、男の遊びだ。この日のために近郷近在の男どもは、日ごろから腕をみがいておく。
弓矢の名人であるじいさまも、毎年この日がくるのを、何よりも楽しみにしておった。
その年のカケ矢は、例年よりも参加者の数が多く、力量も接近しておった。朝からはじまった競技は、夕方になっても終わらず、夜に入ってますます盛んになって、あかあかとかがり火をたきながら、いつ終わるともなく続けられた。
もちろん勝ち残っておるじいさまも、時のたつのを忘れて、競技に熱中しておった。
するとうしろから、声をかける者がある。
「じいさまよ、じいさまよ、あんまり帰りがおそいで、おら、むかえにきただよ。そろそろ帰らんかい」
ばあさまの声である。
「分かった、分かった。まあ、もうちょっと待ってくれや。おら、必ず勝ってみせるから!」
と答えて、じいさまは弓に矢をつがえながら、ふと、おかしいなと思った。今まで、何十年という間、一度もむかえにきたことのないばあさまが、この夜更けに、またどうして?思えば妙な話である。的に集中しておったじいさまの心に、ふと迷いが生じ、手元を離れた矢は大きくそれて、減点になってしもうた。とても優勝はむりである。がっかりしたじいさまは、舌打ちをしながら弓矢を納め、それでは帰ろうかとばあさまを探した。
ばあさまは、人垣のずうっとうしろのほうに、ちょうちんを持って、ひっそりと立っておった。
うちのばあさまより、ちょっと背が低いような気がしたので、顔をのぞきこんだら、たしかにうちのばあさまである。
「やあ、すまん、待たせたな。それじゃ帰るべか」
と、先に立って歩き出した。明るい町なみをはずれて、道はしだいに暗く、細くなってくる。空に、降るような星がまたたいて、あたりに、かえるの声が湧いている。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
じいさまのうしろを、ばあさまが、ちょうちんを持って歩いてゆく。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
ふとじいさまは、ばあさまの足音が、背中にひっつくように聞こえてくるような気がした。ふりむいてみると、三、四メートルぐらいのところを、ばあさまが、前かがみになって、黙って歩いておる。
手の届くような所に見えておった町のあかりが、はるかうしろのほうに遠ざかって、やがて道は、うねうねと山道にかかってきた。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
じいさまが早く歩けば、ばあさまも早く歩いてついてくる。ゆっくり歩けば、同じようにゆっくり歩いてくる。
じいさまは立ち止まって、小便をした。
ばあさまは先へいって待っておる。真っ黒い巨人のような杉の大木が、まわりを囲んで突き立っておって、星のまたたく空がわずかにのぞいておった。
小便をし終わったじいさまが歩き出すと、ばあさまはすばやくうしろへまわって、またついて歩いてくる。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
どうも今夜のばあさまは、何かうれしいことでもあるのか、浮き浮きと、はねて歩いているような気がする。それに、その足音が、どうしても背中にはりついてくるようで、じいさまは気になって仕方がない。
はるかに川の音が聞こえてきた。あの川を渡れば、もうひと息でわが家に着く。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
その足音が、きのせいか、さっきよりだいぶ大きく、力強くなってきている。いよいよ道は、坂道にかかった。
じいさまは、息をはあはあさせて、精一杯に登ってゆくが、ばあさまは平気で、息も乱さず、ぴったりとじいさまについてくる。
突然、じいさまの汗ばんだ背中が、すっと冷えて、からだじゅうの血が、音を立てて引いてゆくような気がした。
若いころから、心臓の丈夫でないばあさまは、山道がにが手で、自分のうちの田へいくまでの、わずかな坂道を、何度も立ち止まって、休み休み通っておるのに、この急な坂道を!
もう、じいさまの足は、地に着いてはいなかった。
川音が、ぐっと高くなった。
川にかかっている丸木橋が、星あかりにぼんやりと見えてくる。
じいさまは、思い切って、うしろを振り向いた。
「ばあさまよ、ちょうちんを持った者が、うしろを歩くというのはおかしいぞ。むかえにきた者は、先に立って歩くのがふつうでねえのか。おまえが先を歩け」
すると、ばあさまは、あっさりと、
「そりゃ、その通りじゃ。それじゃあ、ごめんよ」
と、さきになって歩き出した。
目の前を、ばあさまの曲がった背中が、ゆれながら歩いてゆく。
どうしてもうちのばあさまより、背が低うて骨太のような気がしてならない。それに、足の短いうちのばあさまにくらべて、しっかりと運んでゆくその足の、なんと、くものように長いこと!
やがて、丸木橋のところへでた。
じいさまは、そこで立ち止まって、先へいくばあさまが、どうするかと見ておると、ばあさまは、橋にそっと足をかけ、二、三歩、渡りはじめたが、何を思ったのか、突然、持っていたちょうちんを口にくわえると、四つんばいになって橋を渡りはじめた。・・・
うちのばあさまが、こんなかっこうをするはずがない。じいさまは橋を渡らずに、そのままじっと見ておると、橋の中ほどまでいったばあさまが、ちょうちんを口にくわえたまま、急にうしろをふりむいた。
どきん、と、じいさまの心臓が音を立てた。口から、らんぐい歯の飛び出した、恐ろしいその顔に、なんとふたつの目が、らんらんと光を放っているではないか。うちのばあさまは、片目が不自由なのに・・・!
や、やまんばだあーっ!
全身が凍った。ふるえる手で、背に負うた弓矢を取り出すと、懸命に矢をつがえた。
(落ちつけ、落ちつけ)
自分に言い聞かせながら、それでも、弓矢をろればさすがに名人。わなわなふるえておった指もきりりとしまり、キューンと手元を離れた矢は、ねらいたがわず、山んばの眉間に、ぐさっと突き刺さった。
「ぎゃーあっ」
すさまじい叫び声とともに、橋の上にのけぞったそのからだは、もんどりうって、真っ暗な川の流れに転落していった。
吹っ飛んだちょうちんの火が消えて、漆を流したような闇の中に、あやしげに光るふたつの目が、またたきながら、そしてじいさまを見つめながら、ゆっくりゆっくりと流されていった。
やがて、あの、岩穴から湧くようなしわがれ声が、川底からはいのぼってきた。
「せっかく・・・むかえに・・・行ったのに・・・」
「せっかく・・・むかえに・・・行ったのに・・・」
そうくり返すその声も、しだいに遠く薄れて、やがて川音に消えていった。
じいさまは、どこをどう走って帰ったのか、わが家の土間へ飛び込むと、うしろ手にすばやく戸を閉め、はげしく肩で息をして、ものもいえない。
「どうしただ、何があっただか?」
物音に起こされたばあさまが、眠い目をこすりながら出てくるのへ、
「は、は、早く、し、しんばり棒を持ってこいっ。しんばり棒じゃ」
何やら分からんが、ただならぬようすに、ばあさまがあわてて、二三度転びながら、しんばり棒を持って来て、懸命に戸締りをした。
土足のまま座敷に上がりこんだじいさまは、しばらく、口もきけんでおったが、しだいに気持ちもおさまって、ばあさまに、一部始終を語って聞かせた。
聞きながら、ばあさまは、
「なんと恐ろしいことじゃ、なむあみだぶ、なむあみだぶ」
と、くり返しておったが、心の中では、
「これでもう、あの魔法の麻糸のへそのききめもなくなるじゃろう。惜しいことじゃ。殺されずに帰ってきてよかったが、殺さんでもよかったのに」
と、残念で仕方がなかった。魔法のへそは、ばあさまの生きがいであったのだ。それだけでなく、人里離れたこの山奥で、ひっそりと生きてゆかねばならぬ厳しさが、いつか、山んばと心を通わせていたのかも知れない。
しかし、なぜ山んばは、ばあさまのかっこうをして、じいさまをむかえにいったのだろうか。じいさまを取って食うだけなら、山に待ち伏せしておるだけでこと足りる。
その夜、ばあさまは、寝ながらいろいろと考えておったが、ふと、家の外にうずくまって、いつまでも中のようすをながめておった、あの、山んばの姿が目に浮かんだ。
ひょっとしたら、山んばには、家庭をいうものが珍しかったのではないだろうか。夫婦というものが、うらやましかったのではないだろうか。
「そうか。一ぺん、女房というものになってみたかったのじゃ・・・じいさまと肩を並べて、歩いてみたかったのじゃ・・・」
ばあさまはそう思うと、山んばが、あわれで、あわれで、たまらん気持ちになっておった。
陸中の田老の奥、佐羽根に「ねんぶつ街道」と呼ばれる山道がある。
これはあるとき、表街道に山んばが出るといううわさがたって、それでも、どうしても用があって、ここを通らなければならない人が、その道を避けて、裏の山道を、「なみあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、念仏を唱えながら通行したところからつけられた名前だそうだ。
この街道をそれて、ちょっと奥へ入ったところに、60才ぐらいのじいさまとばあさまが住んでおった。じいさまは百姓であるが、猟の名人でもある。ことに弓にかけては、近在に、ちょっと名の知れた腕の持ち主。ばあさまは、片方の目が不自由であるが、何よりも機織りがだいすきで、勝手仕事のほかは、一日じゅう、
バッタン、バッタンと、機を織っておる。
どういうわけか、山んばは、たいそうこの家が気に入っているらしく、ひもじくなると、きまってこの家にやってきて、ずかずか部屋へ上がりこみ、いきなり、炉にかけてあるなべの中に手を突っ込むと、それこそ、むしゃぶり食らう。煮え立っておってもへいちゃらだ。相手が恐ろしい山んばだから、ふたりは部屋のすみに肩を寄せ合って、ガタガタふるえながら、なすがままにさせておる。
やがて、たらふく食らって、腹のくちくなった山んばは、ほかにするというでもなく、そのままさあーっと、風のように出て行って、木立ちの奥へ、姿を消すのである。
こんなことが、だいぶ前からたびたびあったけれども、命を取られるよりはましなので、ふたりはだまってがまんしておった。
ところがあるとき、山んばが、珍しく土産を持ってやってきた。
「いいか、だれにも、いうでねえぞ」
岩穴の奥から、こだまして聞こえてくるような、陰にこもった、しわがれ声でそういうと、ばあさまに、麻糸のへそを置いていった。へそというのは、機織りの糸を玉のように巻いたものだ。
少々、気味が悪かったけれども、ばあさまが、さっそく使ってみると、このへそ、不思議なことに、織っても織っても糸が減らない。麻の織物がどんどんできる。それはお金に代えられるから、ばあさまはうれしくてたまらない。
「こりゃあ、ええもんをくれたわい」
人間というものは現金なもので、こんな宝物をくれた人が、恐ろしい人だなどとはとても思えなくなってきた。恐ろしいどころか、ごちそうをこしらえた晩などは、
「こんなうまいものがあるのに、どうしてこんのじゃろうか」
などと、心待ちにしておるときさえある。
山んばのほうでも、なにか、通い合うものを感じておったのかも知れない。いつもなら、食らうだけ食らったら、さっさと闇に消えていくのだが、ここのところ、家を出て行っても、そのまま山へ帰ろうとせず、ちょっと離れて、家の中が見渡せるような場所に腰をおろし、両膝を抱きかかえたまんま、じいさまやばあさまのすることを、不思議そうに、じっとながめておるようになった。
はじめのうちは、いつまでもながめられているのがどうも気になるし、かといって、雨戸を閉めるわけにもいかないから、こわごわとばあさまが、
「・・・山は寒うないか」とか、「ご亭主はおらんのか」とか聞いてみたけれども、ときどきまばたきをするだけで、身動きもせずに、だまってながめておるだけである。そのうちになれてしもうて、見られておっても、気にせんようにしておったが、それでも、じいさまのほうは、どうにも山んばが好きになれない。しらみのいそうなざんばら髪に、おれてまがったような鼻、こけの生えたような指先の、長くのびたするどい爪。そして、いかにも早く走りそうな、くものようなすね。どれもこれも、気味の悪いものばかりであった。だからじいさまは、山んば見ておると何もせずに、炉ばたでふて寝をしておる。
そうこうするうちに、八月の八幡さまの祭りの日がやってきた。
あさから、笛や太鼓の音が鳴り響いて、町はたいへんなにぎわいである。なんといっても、この日の呼びものは、神社の境内で行われる、カケ矢である。弓矢で的を射て勝負を争う、男の遊びだ。この日のために近郷近在の男どもは、日ごろから腕をみがいておく。
弓矢の名人であるじいさまも、毎年この日がくるのを、何よりも楽しみにしておった。
その年のカケ矢は、例年よりも参加者の数が多く、力量も接近しておった。朝からはじまった競技は、夕方になっても終わらず、夜に入ってますます盛んになって、あかあかとかがり火をたきながら、いつ終わるともなく続けられた。
もちろん勝ち残っておるじいさまも、時のたつのを忘れて、競技に熱中しておった。
するとうしろから、声をかける者がある。
「じいさまよ、じいさまよ、あんまり帰りがおそいで、おら、むかえにきただよ。そろそろ帰らんかい」
ばあさまの声である。
「分かった、分かった。まあ、もうちょっと待ってくれや。おら、必ず勝ってみせるから!」
と答えて、じいさまは弓に矢をつがえながら、ふと、おかしいなと思った。今まで、何十年という間、一度もむかえにきたことのないばあさまが、この夜更けに、またどうして?思えば妙な話である。的に集中しておったじいさまの心に、ふと迷いが生じ、手元を離れた矢は大きくそれて、減点になってしもうた。とても優勝はむりである。がっかりしたじいさまは、舌打ちをしながら弓矢を納め、それでは帰ろうかとばあさまを探した。
ばあさまは、人垣のずうっとうしろのほうに、ちょうちんを持って、ひっそりと立っておった。
うちのばあさまより、ちょっと背が低いような気がしたので、顔をのぞきこんだら、たしかにうちのばあさまである。
「やあ、すまん、待たせたな。それじゃ帰るべか」
と、先に立って歩き出した。明るい町なみをはずれて、道はしだいに暗く、細くなってくる。空に、降るような星がまたたいて、あたりに、かえるの声が湧いている。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
じいさまのうしろを、ばあさまが、ちょうちんを持って歩いてゆく。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
ふとじいさまは、ばあさまの足音が、背中にひっつくように聞こえてくるような気がした。ふりむいてみると、三、四メートルぐらいのところを、ばあさまが、前かがみになって、黙って歩いておる。
手の届くような所に見えておった町のあかりが、はるかうしろのほうに遠ざかって、やがて道は、うねうねと山道にかかってきた。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
じいさまが早く歩けば、ばあさまも早く歩いてついてくる。ゆっくり歩けば、同じようにゆっくり歩いてくる。
じいさまは立ち止まって、小便をした。
ばあさまは先へいって待っておる。真っ黒い巨人のような杉の大木が、まわりを囲んで突き立っておって、星のまたたく空がわずかにのぞいておった。
小便をし終わったじいさまが歩き出すと、ばあさまはすばやくうしろへまわって、またついて歩いてくる。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
どうも今夜のばあさまは、何かうれしいことでもあるのか、浮き浮きと、はねて歩いているような気がする。それに、その足音が、どうしても背中にはりついてくるようで、じいさまは気になって仕方がない。
はるかに川の音が聞こえてきた。あの川を渡れば、もうひと息でわが家に着く。
ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ
その足音が、きのせいか、さっきよりだいぶ大きく、力強くなってきている。いよいよ道は、坂道にかかった。
じいさまは、息をはあはあさせて、精一杯に登ってゆくが、ばあさまは平気で、息も乱さず、ぴったりとじいさまについてくる。
突然、じいさまの汗ばんだ背中が、すっと冷えて、からだじゅうの血が、音を立てて引いてゆくような気がした。
若いころから、心臓の丈夫でないばあさまは、山道がにが手で、自分のうちの田へいくまでの、わずかな坂道を、何度も立ち止まって、休み休み通っておるのに、この急な坂道を!
もう、じいさまの足は、地に着いてはいなかった。
川音が、ぐっと高くなった。
川にかかっている丸木橋が、星あかりにぼんやりと見えてくる。
じいさまは、思い切って、うしろを振り向いた。
「ばあさまよ、ちょうちんを持った者が、うしろを歩くというのはおかしいぞ。むかえにきた者は、先に立って歩くのがふつうでねえのか。おまえが先を歩け」
すると、ばあさまは、あっさりと、
「そりゃ、その通りじゃ。それじゃあ、ごめんよ」
と、さきになって歩き出した。
目の前を、ばあさまの曲がった背中が、ゆれながら歩いてゆく。
どうしてもうちのばあさまより、背が低うて骨太のような気がしてならない。それに、足の短いうちのばあさまにくらべて、しっかりと運んでゆくその足の、なんと、くものように長いこと!
やがて、丸木橋のところへでた。
じいさまは、そこで立ち止まって、先へいくばあさまが、どうするかと見ておると、ばあさまは、橋にそっと足をかけ、二、三歩、渡りはじめたが、何を思ったのか、突然、持っていたちょうちんを口にくわえると、四つんばいになって橋を渡りはじめた。・・・
うちのばあさまが、こんなかっこうをするはずがない。じいさまは橋を渡らずに、そのままじっと見ておると、橋の中ほどまでいったばあさまが、ちょうちんを口にくわえたまま、急にうしろをふりむいた。
どきん、と、じいさまの心臓が音を立てた。口から、らんぐい歯の飛び出した、恐ろしいその顔に、なんとふたつの目が、らんらんと光を放っているではないか。うちのばあさまは、片目が不自由なのに・・・!
や、やまんばだあーっ!
全身が凍った。ふるえる手で、背に負うた弓矢を取り出すと、懸命に矢をつがえた。
(落ちつけ、落ちつけ)
自分に言い聞かせながら、それでも、弓矢をろればさすがに名人。わなわなふるえておった指もきりりとしまり、キューンと手元を離れた矢は、ねらいたがわず、山んばの眉間に、ぐさっと突き刺さった。
「ぎゃーあっ」
すさまじい叫び声とともに、橋の上にのけぞったそのからだは、もんどりうって、真っ暗な川の流れに転落していった。
吹っ飛んだちょうちんの火が消えて、漆を流したような闇の中に、あやしげに光るふたつの目が、またたきながら、そしてじいさまを見つめながら、ゆっくりゆっくりと流されていった。
やがて、あの、岩穴から湧くようなしわがれ声が、川底からはいのぼってきた。
「せっかく・・・むかえに・・・行ったのに・・・」
「せっかく・・・むかえに・・・行ったのに・・・」
そうくり返すその声も、しだいに遠く薄れて、やがて川音に消えていった。
じいさまは、どこをどう走って帰ったのか、わが家の土間へ飛び込むと、うしろ手にすばやく戸を閉め、はげしく肩で息をして、ものもいえない。
「どうしただ、何があっただか?」
物音に起こされたばあさまが、眠い目をこすりながら出てくるのへ、
「は、は、早く、し、しんばり棒を持ってこいっ。しんばり棒じゃ」
何やら分からんが、ただならぬようすに、ばあさまがあわてて、二三度転びながら、しんばり棒を持って来て、懸命に戸締りをした。
土足のまま座敷に上がりこんだじいさまは、しばらく、口もきけんでおったが、しだいに気持ちもおさまって、ばあさまに、一部始終を語って聞かせた。
聞きながら、ばあさまは、
「なんと恐ろしいことじゃ、なむあみだぶ、なむあみだぶ」
と、くり返しておったが、心の中では、
「これでもう、あの魔法の麻糸のへそのききめもなくなるじゃろう。惜しいことじゃ。殺されずに帰ってきてよかったが、殺さんでもよかったのに」
と、残念で仕方がなかった。魔法のへそは、ばあさまの生きがいであったのだ。それだけでなく、人里離れたこの山奥で、ひっそりと生きてゆかねばならぬ厳しさが、いつか、山んばと心を通わせていたのかも知れない。
しかし、なぜ山んばは、ばあさまのかっこうをして、じいさまをむかえにいったのだろうか。じいさまを取って食うだけなら、山に待ち伏せしておるだけでこと足りる。
その夜、ばあさまは、寝ながらいろいろと考えておったが、ふと、家の外にうずくまって、いつまでも中のようすをながめておった、あの、山んばの姿が目に浮かんだ。
ひょっとしたら、山んばには、家庭をいうものが珍しかったのではないだろうか。夫婦というものが、うらやましかったのではないだろうか。
「そうか。一ぺん、女房というものになってみたかったのじゃ・・・じいさまと肩を並べて、歩いてみたかったのじゃ・・・」
ばあさまはそう思うと、山んばが、あわれで、あわれで、たまらん気持ちになっておった。