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「自然と対峙せず順応する知恵」 金谷 武洋

2015年04月06日 00時27分06秒 | 民話(昔話)
 「日本語は亡びない」 金谷 武洋(かなや たけひろ) ちくま新書 2010年

 「自然と対峙せず順応する知恵」 P-21

 この史実(日本語が亡びなかった)を思い返すとき、私は二つのことを想起する。
 一つは、決してこちらからは攻撃せず、ひたすら護身を旨とする格闘技、つまり合気道のことだ。向かう相手の力を利用して制御し、身を守る。合気道は、「受けて立ち、そして勝つ」という点で横綱相撲に似ている。
 もう一つ想起するのは名著『梅干と日本刀』(1974)で樋口清之が紹介している「堀川の知恵」である。関東大震災クラスの地震が起きて、東京湾にTUNAMIが押し寄せるという可能性は現在でも決して小さいものではない。ところが、江戸時代と比べて現在の方が危険だと樋口は指摘するのである。
 江戸時代には、津波という巨大なエネルギーを吸収し、拡散させる素晴らしい仕組みがあった。それが江戸市内の至るところに流れていた「堀川」である。堀川が潮の勢いを吸い取っていたのである。先にあげた合気道の発想となんと似ていることだろう。
 押し寄せる高潮のエネルギーは堀川(例えば築地から歌舞伎座あたりを流れていた「三十間堀川」)をクッションとして引き込み、そうして持ち込まれた海水を今度は速やかに海へと送り返した。堀川は海水の退路でもあったのである。( 「三十間堀川」とは幅が約30間〔約55m〕あったための命名である)。
 こうした堀川は、「日本人の自然に対する順応の知恵のすぐれた例」(樋口・前掲書)である。しかし、これらはその後どうなったか。東京にはもはや三十間堀川は存在しない。第二次世界大戦後、交通の便や土地の不足のためと称して埋められてしまったからである。1952(昭和27)年には埋め立てが完了して、水路としての三十間堀川は完全に消滅してしまった。八丁堀なども同じ運命を辿ったが、こちらはかろうじて東京の地名として残っている。地下鉄日比谷線の駅名でもある。
 堀川の代わりに戦後に登場したのが堤防であるが、樋口は、堤防と堀川を比較して、堀川の方がずっとよかったと結論づける。「堀川を埋めてしまったことのツケが、必ず来るような気がしてならない」からだ。いくら堤防を高くしても、それを越えるほどの高潮が来ないという保証はない。1995年に想定マグニチュードを超える地震が兵庫県を襲って阪神高速道路神戸線を倒壊させたことはまだ記憶に新しい。
 ありがたいことに日本語は堤防ではなく柔構造の堀川である。

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