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「中高年のための文章読本」その11 梅田 卓夫

2014年11月11日 00時25分00秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その11 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<思ったこと>より<見たこと>を」 P-176

 「思ったこと」を文章にすると、抽象的になります。

 たとえば、「楽しかった」とか「感銘を受けた」とか述べるとき、そのことばが抽象的であるということを、私たちは自覚しているでしょうか。
うっかりすると、その自覚がないまま「楽しかった」と書いて、自分のこころの楽しさが相手にも伝わると考えてはいないでしょうか。
「感銘を受けた」と書けば、相手も感銘を受けると錯覚してはいないでしょうか。

 具体的な事実や現実の裏づけはなくても、抽象的なことばだけで述べることができるのが、文章というものの性質です。

 中高年の人々の文章によく見られる味気なさ、物足りなさは、いわばこの裏づけとなる部分の叙述が不十分なまま、いきなり「感銘を受けた」などと作者の「思ったこと」を押しつけてくるところにあるといってもいいでしょう。
読者としては、「ああ、あなたは感銘を受けたのね」ということは頭で理解できるけれども、いっこうに「感銘」そのもののなかには入っていけないのです。

 もしも「感銘を受けた」ことを文章にするのならば、自分が受けた「感銘」を読者のこころのなかに再現するように仕向けなければなりません。

 そのとき、<描写>が力を発揮します。

 「思ったこと」を具体的にイメージとして読者のこころのなかに再現するようにこころがける。
これが客観的な叙述です。

 この場合、「読者のこころのなかに」ということは「文章の中にことばで」ということです。
このことによって、叙述が作者の独善から離れて客観的なものへと移っていくのです。

 読者のこころのなかに(イメージ)が再現されれば、「感銘を受けた」などという説明はなくても、読者はその情景そのものから「感銘」をうけることになるのです。
そのように仕向けるために、作者は叙述を工夫するのです。

 

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