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「大人のための文章教室」 その1 清水 義範

2015年04月08日 00時04分31秒 | 文章読本(作法)
 「大人のための文章教室」 その1 清水 義範 講談社現代新書 2004年

 「随筆は書いてみたいものである」 P-172

 前略

 さてそこで、多少なりとも文章を書くことに興味のある人にとって、随筆は書いてみたいものではないだろうか。小説はストーリーを思いつかなきゃいけないので書けないが、随筆なら書けそうな気がするのでは。随筆を書くってのはちょっと知的でいいよな、なんて思うのでは。
 知的なだけではない。随筆を書くことには、自分の体験を書き、人に知らしめるという満足感がある。その体験をして自分がどう思ったかという、考えを伝える喜びも、そしてそういう考えを持つ私とは、そういう感性の人間なのだ、ということを伝える充実感がある。
 文章を書きたいというのは、多くの場合、自分を伝達したい、という欲望から生じているものだ。だとすれば随筆とは、比較的手軽に自分を表現できる文芸であり、ぜひ書いてみたいもののはずである。
 随筆は論説文ではない。私の論でひとを納得させようと、整合性のある論を展開していって結論に至るというものではないのだ。だから、そうこむずかしく理屈をこねなくてもいい。
 私はこんな体験をした。そしてこう思った。
 体験は何でもよくて、どう思おうが自由なのである。理屈が通ってなきゃいけない、というしめつけはない。

 中略

 そこへ行くと『徒然草』は、数多くの断片からなっており、『枕草子』と構造がよく似ている。書いてあるのは、噂話であったり随想であったり教訓であったりして、自由自在のなんでもありだ。この方が日本人の考える随筆に近いのではないか。
 そして『徒然草』には、読んだ人ならみんな同意してくれるだろうと思うのだが、親父の教訓臭が強い。世の中のことが気に食わなくてしょうがない老人が、ぶつぶつと世間に文句を言っているという味わいなのだ。
 



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