「ラフカディオ・ハーン」 異文化体験の果てに 牧野 陽子 著 中公新書 1992年
「怪談」 P-171
前略
これらの作品はいずれも一編数頁の短さで、また純粋の創作はひとつもない。
どの話も、日本の古い物語を再話、つまり語り直したものである。
だがハーンの再話によってはじめて、耳なし芳一、雪女やのっぺらぼうなどの話が日本人に
知られるようになった。
それは、原話よりもハーンの再話作品の方が遥かに優れているばかりでなく、読者の心に訴えかける
不思議な魅力があるからである。
中略
このような怪談の種本を探してくるのは妻のセツの役目だった。
セツは時には幼い一雄の手を引いて神田から浅草あたりの古本屋街を漁って回った。
そしていい本をみつけると、「これはパパさまにぴったり」とハーンの喜ぶ顔を思い描きながら、
人力車を一目散に走らせて家路を急ぎ、ハーンの書斎に駆け込むようにして古書を渡したという。
日本語を読むのが得意ではなかったハーンは、セツに話を読んでもらった。
家族が寝入った後に二人で書斎に籠もり、雰囲気を出すためにランプの芯を下げて暗くして
読むのである。
さらに、ハーンはセツに対し、本を見ずに自分の言葉に消化して語ることを要求した。
話のクライマックスや気に言った所にくると、何度も何度もセツに繰り返させては、
深刻なあらたまった表情で、時には目を据え青い顔をして聞き入ったらしい。
そして元の話には全くないことも息を殺して恐ろしそうに、「その声はどんなでしょう。履物の音は
何と響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います。あなたはどうです」と
想像しあったという。
「耳なし芳一」の中で平家の武士が叫ぶ「開門!」の句、「幽霊滝の伝説」の最後の場面の
「あらっ、血が」という女の言葉などはそうして生まれた。
怪奇な物語の世界に浸る二人の様子は外から見れば全く異常だと思われたに違いない、
とセツは『思い出の記』に述べている。
セツはハーンに頼まれて評判の芝居を見に行くこともあった。
帰宅後、筋を話して聞かせるためである。
セツはハーンにとっていわば民俗学でいうインフォーマント、第一次資料提供者の役割を
果たしていたわけである。
事実ハーンはセツの助力に感謝し、特に晩年、妻を「ママさん」と呼んで夫婦というよりは
まるで子供が母を慕うようにセツをたよりにするようになった。
そういうハーンの怪談作品は従来指摘されてきたように、確かに麗しい夫婦協業の賜物である
といえる。
しかし、妻の手助けはあっても、生み出された作品自体は、
この夫婦に伝わる微笑ましいエピソードなど一切よせつけぬほどの凄味に彩られている。
ある時、ハーンの家に泊まった知人がふと夜中に書斎をのぞいて見た。
我を忘れて著作に没頭しているハーンは一向に気付かなかったが、ふいに顔を上げると「それは、
普段とはまったく別人のようで、顔からは妖しいほどに血の気が失せ、その大きな眼が輝いていた。
まるで、何かこの世ならぬ妖気と通じ合っている者のようだった。」という。
ハーンの怪談にはこういうエピソードがいかにも似合う。
「怪談」 P-171
前略
これらの作品はいずれも一編数頁の短さで、また純粋の創作はひとつもない。
どの話も、日本の古い物語を再話、つまり語り直したものである。
だがハーンの再話によってはじめて、耳なし芳一、雪女やのっぺらぼうなどの話が日本人に
知られるようになった。
それは、原話よりもハーンの再話作品の方が遥かに優れているばかりでなく、読者の心に訴えかける
不思議な魅力があるからである。
中略
このような怪談の種本を探してくるのは妻のセツの役目だった。
セツは時には幼い一雄の手を引いて神田から浅草あたりの古本屋街を漁って回った。
そしていい本をみつけると、「これはパパさまにぴったり」とハーンの喜ぶ顔を思い描きながら、
人力車を一目散に走らせて家路を急ぎ、ハーンの書斎に駆け込むようにして古書を渡したという。
日本語を読むのが得意ではなかったハーンは、セツに話を読んでもらった。
家族が寝入った後に二人で書斎に籠もり、雰囲気を出すためにランプの芯を下げて暗くして
読むのである。
さらに、ハーンはセツに対し、本を見ずに自分の言葉に消化して語ることを要求した。
話のクライマックスや気に言った所にくると、何度も何度もセツに繰り返させては、
深刻なあらたまった表情で、時には目を据え青い顔をして聞き入ったらしい。
そして元の話には全くないことも息を殺して恐ろしそうに、「その声はどんなでしょう。履物の音は
何と響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います。あなたはどうです」と
想像しあったという。
「耳なし芳一」の中で平家の武士が叫ぶ「開門!」の句、「幽霊滝の伝説」の最後の場面の
「あらっ、血が」という女の言葉などはそうして生まれた。
怪奇な物語の世界に浸る二人の様子は外から見れば全く異常だと思われたに違いない、
とセツは『思い出の記』に述べている。
セツはハーンに頼まれて評判の芝居を見に行くこともあった。
帰宅後、筋を話して聞かせるためである。
セツはハーンにとっていわば民俗学でいうインフォーマント、第一次資料提供者の役割を
果たしていたわけである。
事実ハーンはセツの助力に感謝し、特に晩年、妻を「ママさん」と呼んで夫婦というよりは
まるで子供が母を慕うようにセツをたよりにするようになった。
そういうハーンの怪談作品は従来指摘されてきたように、確かに麗しい夫婦協業の賜物である
といえる。
しかし、妻の手助けはあっても、生み出された作品自体は、
この夫婦に伝わる微笑ましいエピソードなど一切よせつけぬほどの凄味に彩られている。
ある時、ハーンの家に泊まった知人がふと夜中に書斎をのぞいて見た。
我を忘れて著作に没頭しているハーンは一向に気付かなかったが、ふいに顔を上げると「それは、
普段とはまったく別人のようで、顔からは妖しいほどに血の気が失せ、その大きな眼が輝いていた。
まるで、何かこの世ならぬ妖気と通じ合っている者のようだった。」という。
ハーンの怪談にはこういうエピソードがいかにも似合う。