「日本語のこころ」 2000年版ベスト・エッセイ集 日本エッセイスト・クラブ編
『五つ木の子守歌』 樽谷 浩子(主婦) P-12
若いころ、小学校で音楽を教えていたことがある。
まだ専科教員の珍しかった昭和三十年代で、一くらす五十七、八名、一学年が六クラスという学年もある時代だった。力道山のプロレス中継に街頭テレビの前は人だかりがしていて、何軒かに一軒しかテレビはなかった。
子どもたちにとって学校だけが情報源であり、まだ魅力のある場所でもあったらしい。
そのため、音楽の時間になると、元気のいい足音がドタドタと木造の講堂の二階にある音楽室へ上がってきて、私の未熟な話に瞳を輝かせてくれた。ピアノに合わせて声も張りあげた。教科書だけでは足りなくて、ガリ刷りのプリントでも歌った。レコード大賞曲の『いつでも夢を』や『寒い朝』を、子どもたちは喜んだ。かっこよくスキーで滑るさまを想像しながら『白銀は招くよ』を歌った。カタカナ英語の『きよしこの夜』にも人気があった。
そのころの歌の中に『五つ木の子守歌』があった。
おどま盆ぎり盆ぎり 盆からさかやおらんど
盆がはよ来りゃ はよもどる
おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(しゅ)
よか衆 よか帯 よか着物(きもん)
むかし、貧しい女の子が子守りをしながら歌っていた民謡らしいよと私が話すのを、子どもたちは神妙にきき入ってくれた。遊ぶこともままならず子守りをしなければならない同年配者へ対する、純粋な優しさだった。
自分たちの貧しさに比べ、あの人たちは恵まれているんでいい帯しめていい着物を着てる、羨ましいなという気持ちを秘めてけなげに歌っているんだねと、子どもたちはよくわかっていた。
おどんが打死(うっち)んだちゅうて 誰(だい)が泣いてくりょか
裏の松山 蝉が泣く
蝉じゃござせん 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
おどんが打死んだば 道ばたいけろ
通る人ごち 花あぎょう
花はなんの花 つんつん椿
水は天から もらい水
歌は悲しさせつなさが感じられたようで、涙ぐむ女の子もあった。「ヤッホー」と雪山を滑る歌声とはちがって、どの子もしんみりと情感をこめた。民謡の心を汲み取ることのできる感性に、私も胸を熱くした。
『ソーラン節』も『金比羅ふねふね』も『お江戸日本橋』も小学生の教科書にあったが、『五つ木の子守歌』はそれらと全く別の味わいを持っていた。
だがそのとき、この歌が日本民謡には珍らしい三拍子であることを話したかどうか、その記憶はない。なぜこの曲だけ三拍子なのかのわけはわからないまま歳月は流れ、いつとはなしに忘れてしまっていた。
長らく続けている地元の読書会で、先ごろ『龍秘御天歌』という本を読んだ。福岡県在住の作家、村田喜代子さんの小説だが、この本で思いがけないできごとを知り、記憶の底に沈んでいたいくつかの点が線ではっきりつながって、突然よみがえってきたのである。
『龍秘御天歌』は、秀吉のころ慶長の役で日本に連行されてきた朝鮮の陶工たちの物語であった。
九州のある山里に住みついた彼らは窯を開いて陶芸を生業にしていたが、その集落の長が亡くなったとき、葬儀を日本式で行うか朝鮮の風習を通すかでもめる。故人の老妻はどうしても朝鮮式でやりたいと言ってゆずらない。クニも名前も捨てさられ異国に住まわねばならなかったのだから、せめて葬儀だけはクニのしきたりで・・・老婆は奮闘する。
その心情に圧倒され惹きこまれ私は一気に読み終えたが、その中には朝鮮の民謡がたくさん挿入されていた。メロディはわからないまま何度か声を出して読んでいると、ふしぎにそれらが『トラジ』のようになり『アリラン』風になっていったのである。
その曲は、まぎれもない三拍子の曲なのであった。
あっ・・・と思って、本棚を探した。
もしかして・・・の思いがあったのだ。
そして、その、もしかして・・・は、やはりそうだった・・・。
中学生用の歌集『うたのいずみ』によると、「『五つ木の子守歌』は熊本県の奥深い五つ木の里で、慶長の役により捕らわれてきた人々が故国朝鮮をしのんで歌われてきたもの」の明記されていたのである。
そうだったのか、そのせいで三拍子だったのか・・・。
それで、もの悲しさが他の民謡にはない深さだったのか・・・。
ハッとして「かんじん」という言葉を辞書で見ると、「勧進」などの他に「韓人・朝鮮人のこと」と出ていたのである。それなら、なおいっそう、この歌の心もわかってくる。
若かったころ、私は、貧しい女の子が幸せな人を羨んで歌ったものと単純に思いこんでいて、細かく調べてみようとはしなかった。この歌がどんな生活や歴史的な背景の中から生まれてきたかが、まるでわかっていなかったのである。
私たち世代は「秀吉の朝鮮征伐」と教えられただけで、そのかげにどんなことがあっていたかは、全く知らされずにいた。勝者の側だけの記述しか知る場がなかったのだろうが、昨今、ようやく歴史の隠されていた部分が少しずつ明るみに出て私たちの目に入るようになってきた。それがきっかけで、それまで点でしかなかったものが線ではっきりつながるのを知ったとき、心のうちはまことに複雑きわまりなくなるのである。
あれから四十年近くたったが、私は、情感をこめて歌っていた当時の教え子たちに、自分の不勉強をあやまりたいと、心底、思っている。
(「ふくやま文学」第十一号)
『五つ木の子守歌』 樽谷 浩子(主婦) P-12
若いころ、小学校で音楽を教えていたことがある。
まだ専科教員の珍しかった昭和三十年代で、一くらす五十七、八名、一学年が六クラスという学年もある時代だった。力道山のプロレス中継に街頭テレビの前は人だかりがしていて、何軒かに一軒しかテレビはなかった。
子どもたちにとって学校だけが情報源であり、まだ魅力のある場所でもあったらしい。
そのため、音楽の時間になると、元気のいい足音がドタドタと木造の講堂の二階にある音楽室へ上がってきて、私の未熟な話に瞳を輝かせてくれた。ピアノに合わせて声も張りあげた。教科書だけでは足りなくて、ガリ刷りのプリントでも歌った。レコード大賞曲の『いつでも夢を』や『寒い朝』を、子どもたちは喜んだ。かっこよくスキーで滑るさまを想像しながら『白銀は招くよ』を歌った。カタカナ英語の『きよしこの夜』にも人気があった。
そのころの歌の中に『五つ木の子守歌』があった。
おどま盆ぎり盆ぎり 盆からさかやおらんど
盆がはよ来りゃ はよもどる
おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(しゅ)
よか衆 よか帯 よか着物(きもん)
むかし、貧しい女の子が子守りをしながら歌っていた民謡らしいよと私が話すのを、子どもたちは神妙にきき入ってくれた。遊ぶこともままならず子守りをしなければならない同年配者へ対する、純粋な優しさだった。
自分たちの貧しさに比べ、あの人たちは恵まれているんでいい帯しめていい着物を着てる、羨ましいなという気持ちを秘めてけなげに歌っているんだねと、子どもたちはよくわかっていた。
おどんが打死(うっち)んだちゅうて 誰(だい)が泣いてくりょか
裏の松山 蝉が泣く
蝉じゃござせん 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる
おどんが打死んだば 道ばたいけろ
通る人ごち 花あぎょう
花はなんの花 つんつん椿
水は天から もらい水
歌は悲しさせつなさが感じられたようで、涙ぐむ女の子もあった。「ヤッホー」と雪山を滑る歌声とはちがって、どの子もしんみりと情感をこめた。民謡の心を汲み取ることのできる感性に、私も胸を熱くした。
『ソーラン節』も『金比羅ふねふね』も『お江戸日本橋』も小学生の教科書にあったが、『五つ木の子守歌』はそれらと全く別の味わいを持っていた。
だがそのとき、この歌が日本民謡には珍らしい三拍子であることを話したかどうか、その記憶はない。なぜこの曲だけ三拍子なのかのわけはわからないまま歳月は流れ、いつとはなしに忘れてしまっていた。
長らく続けている地元の読書会で、先ごろ『龍秘御天歌』という本を読んだ。福岡県在住の作家、村田喜代子さんの小説だが、この本で思いがけないできごとを知り、記憶の底に沈んでいたいくつかの点が線ではっきりつながって、突然よみがえってきたのである。
『龍秘御天歌』は、秀吉のころ慶長の役で日本に連行されてきた朝鮮の陶工たちの物語であった。
九州のある山里に住みついた彼らは窯を開いて陶芸を生業にしていたが、その集落の長が亡くなったとき、葬儀を日本式で行うか朝鮮の風習を通すかでもめる。故人の老妻はどうしても朝鮮式でやりたいと言ってゆずらない。クニも名前も捨てさられ異国に住まわねばならなかったのだから、せめて葬儀だけはクニのしきたりで・・・老婆は奮闘する。
その心情に圧倒され惹きこまれ私は一気に読み終えたが、その中には朝鮮の民謡がたくさん挿入されていた。メロディはわからないまま何度か声を出して読んでいると、ふしぎにそれらが『トラジ』のようになり『アリラン』風になっていったのである。
その曲は、まぎれもない三拍子の曲なのであった。
あっ・・・と思って、本棚を探した。
もしかして・・・の思いがあったのだ。
そして、その、もしかして・・・は、やはりそうだった・・・。
中学生用の歌集『うたのいずみ』によると、「『五つ木の子守歌』は熊本県の奥深い五つ木の里で、慶長の役により捕らわれてきた人々が故国朝鮮をしのんで歌われてきたもの」の明記されていたのである。
そうだったのか、そのせいで三拍子だったのか・・・。
それで、もの悲しさが他の民謡にはない深さだったのか・・・。
ハッとして「かんじん」という言葉を辞書で見ると、「勧進」などの他に「韓人・朝鮮人のこと」と出ていたのである。それなら、なおいっそう、この歌の心もわかってくる。
若かったころ、私は、貧しい女の子が幸せな人を羨んで歌ったものと単純に思いこんでいて、細かく調べてみようとはしなかった。この歌がどんな生活や歴史的な背景の中から生まれてきたかが、まるでわかっていなかったのである。
私たち世代は「秀吉の朝鮮征伐」と教えられただけで、そのかげにどんなことがあっていたかは、全く知らされずにいた。勝者の側だけの記述しか知る場がなかったのだろうが、昨今、ようやく歴史の隠されていた部分が少しずつ明るみに出て私たちの目に入るようになってきた。それがきっかけで、それまで点でしかなかったものが線ではっきりつながるのを知ったとき、心のうちはまことに複雑きわまりなくなるのである。
あれから四十年近くたったが、私は、情感をこめて歌っていた当時の教え子たちに、自分の不勉強をあやまりたいと、心底、思っている。
(「ふくやま文学」第十一号)