「日日是好日」 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 森下 典子 新潮文庫 2008年(平成20年)
まえがき その1
毎週土曜日の午後、私は歩いて10分ほどのところにある一軒の家に向かう。その家は古くて、入り口には大きなヤツデの鉢植えが置いてある。カラカラと戸を開けると、玄関のたたきには水が打ってあって、スーッと炭の匂いがする。庭の方からは、チョロチョロとかすかに水音が聞こえる。
私は、庭に面した静かな部屋に入り、畳に坐って、お湯をわかし、お茶を点(た)て、それを飲む。ただそれだけを繰り返す。
そんな週一回のお茶の稽古を、大学生のころから25年間続けてきた。
今でもしょっちゅう手順を間違える。「なぜこんなことをするんだろう」と、わけのわからないことがいっぱいある。足がしびれる。作法はややこしい。いつまでやれば、すべてがすっきりわかるようになるのか、見当もつかない。
「ねえ、お茶って、何がおもしろいの? なんでそんなに長く続けているの? 」
こう、友達から聞かれることがある。
小学校5年生の時、親に連れられて、フェリーニ監督の『道』という映画を見た。貧しい旅芸人の話で、とにかく暗い。私はさっぱり意味がわからず、
「こんな映画のどこが名作なんだろう。ディズニーの方がよかったのに」
と、思った。ところが、10年後、大学生になって、再び映画を見て衝撃を受けた。
「ジェルソミーナのテーマ」には聞き覚えがあった、内容は初めて見たも同然だった。
「 『道』って、こういう映画だったのか! 」
胸をかきむしられて、映画館の暗闇で、ボロボロ泣いた。
それから、私も恋をし、失恋の痛手を負った。仕事探しにつまづきながら、自分の居場所をさがし続けた。平凡ながらも10数年が過ぎた。30代半ばになって、また『道』を見た。
「あれ? こんなシーン、あったっけ? 」
随所に、見えていなかったシーンや、聞こえていなかったセリフがいっぱいあった。無邪気なヒロイン、ジェルソミーナを演じるジュリエッタ・マシーナの迫真の演技に胸が張り裂けそうになった。自分が捨てた女の死を知って、夜の浜辺で身を震わせ慟哭する老いたザンパノは、もはやただの残酷な男ではなかった。「人間て悲しい」と思った。ダラダラと涙が止まらなかった。
フェリーニの『道』は、見るたびに「別もの」になった。見るたびに深くなっていった。
森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。
まえがき その1
毎週土曜日の午後、私は歩いて10分ほどのところにある一軒の家に向かう。その家は古くて、入り口には大きなヤツデの鉢植えが置いてある。カラカラと戸を開けると、玄関のたたきには水が打ってあって、スーッと炭の匂いがする。庭の方からは、チョロチョロとかすかに水音が聞こえる。
私は、庭に面した静かな部屋に入り、畳に坐って、お湯をわかし、お茶を点(た)て、それを飲む。ただそれだけを繰り返す。
そんな週一回のお茶の稽古を、大学生のころから25年間続けてきた。
今でもしょっちゅう手順を間違える。「なぜこんなことをするんだろう」と、わけのわからないことがいっぱいある。足がしびれる。作法はややこしい。いつまでやれば、すべてがすっきりわかるようになるのか、見当もつかない。
「ねえ、お茶って、何がおもしろいの? なんでそんなに長く続けているの? 」
こう、友達から聞かれることがある。
小学校5年生の時、親に連れられて、フェリーニ監督の『道』という映画を見た。貧しい旅芸人の話で、とにかく暗い。私はさっぱり意味がわからず、
「こんな映画のどこが名作なんだろう。ディズニーの方がよかったのに」
と、思った。ところが、10年後、大学生になって、再び映画を見て衝撃を受けた。
「ジェルソミーナのテーマ」には聞き覚えがあった、内容は初めて見たも同然だった。
「 『道』って、こういう映画だったのか! 」
胸をかきむしられて、映画館の暗闇で、ボロボロ泣いた。
それから、私も恋をし、失恋の痛手を負った。仕事探しにつまづきながら、自分の居場所をさがし続けた。平凡ながらも10数年が過ぎた。30代半ばになって、また『道』を見た。
「あれ? こんなシーン、あったっけ? 」
随所に、見えていなかったシーンや、聞こえていなかったセリフがいっぱいあった。無邪気なヒロイン、ジェルソミーナを演じるジュリエッタ・マシーナの迫真の演技に胸が張り裂けそうになった。自分が捨てた女の死を知って、夜の浜辺で身を震わせ慟哭する老いたザンパノは、もはやただの残酷な男ではなかった。「人間て悲しい」と思った。ダラダラと涙が止まらなかった。
フェリーニの『道』は、見るたびに「別もの」になった。見るたびに深くなっていった。
森下 典子 1956年(昭和31年)、神奈川県横浜市生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業。大学時代から「週間朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者として活躍。その体験をまとめた「典奴どすえ」を1987年に出版後、ルポライター、エッセイストとして活躍を続ける。(中略)20歳の時から茶道を習い始め、現在も続けている。