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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「木曽馬について」 ネットより

2014年01月05日 00時13分52秒 | 民話の背景(民俗)
「木曽馬について」 ネットより

 「昔は、百姓は馬のおかげでいきていたようなもので、人間が馬に生かされていたようなもので、
嫁が亭主より馬を大事にしたというのも、まるっきり作り話ではないんです。」
 木曽馬保存会会長:伊藤正起さん談

 <馬の住居>
 木曽馬を多く飼育していた木曽の山村では、厩(うまや)は人間の住む家と同じ棟の中にありました。
いわば人間の住む家の一部が厩になっていたのです。
そしてそれは、南側の日当たりの良い、一番温かいところに位置していたのです。

 <馬の看病>
 馬は家族の一員でした。馬が病気にかかったときなどは、家族が病気にかかったのと全く同じように、
あらゆる手だてを尽くして看病しました。
厩に厚く藁を敷き、その上に毛布を広げて、人間が馬と一緒に寝て看病したり、
至れり尽くせりの手当てをしました。
 

 <子馬の祝い>
 なにしろ大切な馬です。
子馬が生まれると、人間の赤ん坊の誕生と同じように、赤飯を炊いて祝いました。
 木曽馬が、おとなしくて「子供でも引いて歩ける」と言われる温順な性格なのは、
こうした長い年月にわたって、木曽の山村農民に、いつくしみ育てられた結果です。

 <馬頭観音>
 こんなにも大切にしていた馬が、病気や怪我などで死んでしまうと、
飼主は家族の一員を失ったように悲しみました。
 遺体を定められた馬墓地に運び、丁寧に埋葬します。
その後、馬の霊を供養するために、馬頭観音の石碑をたてます。
野辺の馬頭観音の石碑は、いわば馬の墓石なのです。

 <馬と猿の話>
 絵馬を見ると、必ずといっていいほど、猿が馬の綱を引いています。
あれは、馬と猿は非常に仲が良いことを示すものだそうです。
 馬が病気で元気がない時、猿を馬屋に入れてやると、馬は喜んで元気になり、
軽い病気なら治ってしまった、とも伝えられています。

 <馬小作制度>
 天保年間(元1830年)後の『馬小作制度』の起源となった、
預り馬、預け馬が盛んに行われるようになります。

『馬小作制度』
大正時代、当時の農商務省による全国各地の主要馬産地調査の際、木曽谷のこの特異な馬の貸借制度は、
こう名付けられた。
以来、馬の所有者を『馬地主』、借りている農民を『馬小作』と呼ぶようになった。

 当時の山村農民が、馬なくしては生きて行けない事や、
村の農民には自分で馬を所有するだけの資力がなかった事などが、
この制度が盛んになった理由だったと思われます。
 この制度の発生で、当時の木曽の経済社会は多様化します。

○馬を有利な投資対象として、競って馬を預ける商人達。
○薬種業や医者など、特殊な家業で得た資金を馬に投資して、大馬地主になった者。
○馬持ちと馬持ち、飼育馬主と馬持ちの間をとりもつ博労(馬喰)という小馬持ち。
○山林を売って得たお金を、馬に投資した中小馬持ち。

 しかし、山村農民にとっては、生きるために大事な制度ではあったものの、
それによって暮らしを良くし農業生産を高める、というような事には、ならなかったようです。

「移りゆく正月風景」 宮本 常一 

2013年10月02日 23時27分38秒 | 民話の背景(民俗)
 「移りゆく正月風景」 歳時習俗事典  宮本 常一  八坂書房 2011年発行

 人々の年齢を満何歳でかぞえるようになって、正月はしだいにさびれはじめたという。
もとはみな正月にいっせいに年をとったものである。
しかし満何歳ということになると、生年月日はそれぞれちがっているのであるから、年をとる日も
一人ひとりでちがってくる。それだけではない。
ちかごろは都会でクリスマスがはやるようになり門松やささ竹、しめかざりなど、
クリスマスのまえにたてるふうが生じて、正月にはささ竹など、もうしなびてしまっているのが多く、
かえって正月をうらぶれてさびしいものにしてしまった。

 とくに、正月にはどこでも凧をあげたものだったが、電線がはりめぐされるようになって、
冬空を色どるさまざまの凧の姿がきえてひさしい。

 そればかりではない。年のはじめのめでたいことばをとなえつつ家々を門付けしてあるいた芸能人も、
近ごろはめっきりへった。
九州博多の町で、いま五月三日から五日にかけて行われているドンタクの行事も、もとは正月五日に
行われていたのである。昔は松ばやしといわれていた。
一月十四日に行われていたモグラウチなども、いまはほとんど見かけなくなった。
棒の先に藁(わら)をくくりつけたもので土を打ちつつ、モグラウチのうたをうたったもんだが、
おとずれた家に若妻がいると、そのモグラ打ち棒で女のしりをたたいた。
そうすると妊娠すると考えられた。 

 中略

 だが、愛知県三河山中で行われる花祭りは、そこが不便な山間であるためであろうか、
いまも昔ながらに夜を徹して、頭屋(とうや)の家で数々の舞いが行われる。
神楽(かぐら)の一種なのである。

 それも昔とはだいぶ様子がかわってきた。
昨年(昭和36年)正月、私は久しぶりに御園(みその)というところまで見にいった。
その日は臨時のバスも何台も出た。
小さなひっそりとした山村に、それほどの人がはいりこめば、夜はさぞにぎわうであろうと思ったが、
夕飯がすんで、舞いがはじまっても、舞い人以外に見物人は二、三人にすぎぬさびしさだった。
見物の客はどこへいったのだろう。
もおてゃ宵の口からにぎわったものだがと思っていると、十二時すぎてぞろぞろ出てきて、
舞殿(まいどの)のあたりはあき地も道も人でいっぱいになった。
宵の口はコタツにあたりながらテレビを見ていたのだという。
テレビが古い行事をしだいに侵蝕しはじめたのである。
それでも、テレビの方は十二時をすぎればやむから、それからさきでも花祭りを見ることはできる。

 舞いはそれから朝日がのぼり、やがて昼になり、夕方まで続いたのだが、
私はその終わりまで見ないで昼下がりに山を下りた。
 「みな出稼ぎにゆくようになって、舞う人だんだん少なくなってきます」
と、村の長老はなげいていたが、たとえ残っていくにしても、
老人と子どもだけで行わなければならぬようなことになるのではなかろうか。

 後略

「ナリキイジメ」 宮本 常一

2013年09月29日 00時06分47秒 | 民話の背景(民俗)
 「ナリキイジメ」 歳時習俗事典  宮本 常一  八坂書房 2011年発行

 また、くだものがよくなるようにといって、ナリキリイジメをする地方もあります。
私のふるさとでは、夫婦がそろってカキの木の下へ行って、夫の方が
 「なるかならぬか、ならぬときるぞ」
と言って、その切り口に持っていったおかゆをなすりつけた、ということをききましたが、
のちに、このようなことは日本じゅうにあったばかりでなく、イギリスの方にもあったことを知って、
これらをくらべて見ることによって、なぜそんなことをしたかもだんだん分かってきました。

 なってもらわなければならないのは、木だけではなく、人もいい子を生むようにとて、
子供たちが棒を持って、若いお嫁さんの尻をたたいてまわる行事が、
これも日本じゅうにあったといってもよいほどで、宮城県では「ガッテイ」、山梨県では「オカタブチ」、
九州の天草では「ハルマンジョウ」と言っています。
いま、子供たちが「お尻まくりはやった」などといって、尻まくりのあそびをしているのを
見かけますけれど、”はらみうち”の名残ではないでしょうか。

「俵編み」 宮本 常一

2013年09月25日 00時08分10秒 | 民話の背景(民俗)
 「俵編(たわらあみ)」 歳時習俗事典  宮本 常一  八坂書房 2011年発行

 稲刈りがすむと籾(もみ)すりの始まるまでの間によなべに新藁(わら)を使って、
俵(たわら)の菰(まこも)編みをする風習が各地でみられた。

 まず細い編み縄をない、次に藁のはかま(下の方の稲藁)をとってきれいにし、
これを菰(まこも)編み台を使って編んでいく。
じょうずな者なら一時間に一枚は編むから二、三人で少し仕事にはげめば一晩に、
10~20枚の菰(まこも)は編まれる。
 これをまず筒状にし、一方の端をじょうぶな縄でとじて袋状にし、その俵の中にもう一つ俵を入れる。
つまり二重俵にする。そうしないと中身がこぼれやすい。
また両端にあてる桟俵(さんだわら)を作る。俵の大きさはもときまりがなかった。
土地によっては五斗俵があり、四斗俵があり、三斗五升俵もあった。

 これは年貢の取立てと深い関係があった。
たとえば高一石について三斗五升俵の定免のところでは三斗五升俵が普通であったし、
福岡県の黒田藩のように叺(かます)を用いさせたところでは、
筵(むしろ)を袋状にとじて作ったものに、米を入れさせて俵を使わなかった。
俵はまた米を入れるだけでなくムギ・イモをはじめ、炭・塩その他の農産物を運搬する場合にも用い、
用途はすこぶる多かった。
 だから籾すり前ばかりでなく、必要に応じて編んだものである。

「よなべ」 宮本 常一 

2013年09月23日 00時45分02秒 | 民話の背景(民俗)
 「夜業(よなべ)」 歳時習俗事典  宮本 常一  八坂書房 2011年発行

 前略

 よなべにする仕事はほぼきまっていた。
男は藁(わら)仕事が多かった。
藁ない・わらじ・草履作り・筵(むしろ)打ち(筵編み)などであり、
女は糸つむぎ・砧打ち・着物のつくろいなどである。
そのほか米麦をついたり、粉をひいたりすることもあり、
イネの取り入れがすんでからは籾(もみ)すりもよなべ仕事が多かった。
 
 中部・東北へかけてワタを作らず、衣類はアサにたよっているところでは、
麻績(おう)みは大事なよなべの一つである。
農民だけでなく、町人も職人もよなべはした。
たいていは囲炉裏にまきをくべてその火のあかりで仕事したが、月あかりを利用して草履を作ったり、
唐臼(からうす)をふんだり、また稲田を刈ることもあった。
よなべはたいてい何人か集まって作業したもので、それも娘は娘で集まり、若者は若者で集まった。
普通の民家の台所や土間を利用することもあったが、若者たちはイネを刈ったあとの田の中や空き地に
小屋を建て、そこでよなべすることが少なくなかった。

 中略

 夜業をよなべというのは作業を終えると必ず夜食をする風習があったためと思われる。
つまり夜鍋を意味するものであろう。