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民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「声が生まれる」 話すことへ その2 竹内 敏晴

2016年12月20日 00時37分08秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その2 P-26

 息を吐かない人々①――歯を開けないでしゃべる子ども

 その女の子は、わたしなどにはほとんど聞き取れないかすかな声で話す。しかし文言はみょうにはっきりしていて、しかも棒読み。なんだかロボットが減衰したエネルギーの限度で発音しているみたいに生気がない。よく見てみると唇はほんの少し開いている――でなくては声は外へ出てこないわけだが――が、歯をかみしめたままらしく下顎が全く動かないのに気がついた。

 それ以来気になって注意してみると、どうも歯を開けないでしゃべっているらしい子が意外に多いことに気がついた。 (中略)

 要するにからだの奥で動いている息づかい――ということは、情動(エモーション)と言ってもよいが――がことばと一緒に現れ出ようとするのを、歯でかみ殺しているのだ。できる限り情動としての自己を現さず、事務的に情報だけを伝えようとしているのだが、そうされている相手としては、どうでもいいことを投げ出されているという不快感を覚えることになる。

 こう試みてはじめて、自分のいつもの話し方がほとんど歯を開けていないことに気づく人はかなり多い。自分の話し方に、自分のふだんの、家庭での、あるいは企業での存在の仕方、息をひそめている身構えが現れていることを、外から眺めるような気づいて愕然とする。今までは、自分は遠慮深く身を退いている、とさえ気づいていなかったのだ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

「声が生まれる」 話すことへ その1 竹内 敏晴

2016年12月18日 00時01分22秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その1 P-24

 さてことばを話すということになると、その出発点としていちばん大切なことはなんだろう?あなたはどう思いますか?

 (中略)

 『神様は手話はできるの?』(スプラドリー著、山室まりあ訳、早川文庫)という本がある。全く耳の聞こえない女の子を授かり、そのことにはじめは気がつかず、後に必死になってことばを教えようと苦しんだ父親の手記である。アメリカでは聾教育は口話中心だ。これは、相手が話す時の唇の形を読んで発音を判断し、文章を理解する。そして自分も唇の形を作り、自分で聞くことのできない声音を発することを訓練して、なんとか会話を成立させようとする方法である(この方法には長い歴史があるのだが、今のわたしには賛成しきれないことが残る)この父親も補聴器にわずかな望みを託しながら、唇の形を読み、その形をまねすることを幼い子に教えてゆく。だが親や教師の努力にもかかわらず、かの女はひとことも話すことができない。

 ある日隣りのアパートに住む男の子の誕生パーティに加わったかの女は、子どもたちにまじってデコレーションケーキのロウソクを吹き消そうとする。かの女もほかの子のように燃えているロウソクの方に身を乗り出して、口を小さく丸めたが、炎はゆらぎもしない。もう一度。なにも変わらない。父親ははじめて、かの女が、息を吹き出すことを知らないのだということを目の当たりに見たのだった。

 息を吐かなくては声は出ない。あまりにも当たり前のこと過ぎて、人はそれを忘れている。では耳の聞こえない子にどうやって息を吹き出すこおとぉ教えられるのか。父親は試みかけて呆然と立ちつくす。この後、かの女と親たちはなん年もの苦闘の末にようやく手話で話す人たちに出会い、口話中心の聾教育者たちに非難されながら手話によって、「ことば」を獲得してゆく。「神様は手話ができるの?」とは、かの女をかわいがって進んで一緒に手話を覚えてくれたおばあちゃんが亡くなった時、かの女が父に尋ねたことばである。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

「声が生まれる」 ことばを見つけに その1 竹内 敏晴 

2016年12月14日 00時26分15秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 ことばを見つけに その1 P-18

 (一高に入学して弓術部に入った著者は自己紹介の時に自分はしゃべれないことに気づく) 

 はじめて気づいたのは、わたしがほとんど会話をしないということだった。生活上、必要最小限度の事柄について尋ねたり答えたりしているだけで、友人たちの話の輪に入っている時は、ただ黙って相槌を打つとか時には笑い出しもする、という程度。会話がないからいわば世間をまるで知らない。ことばによって入ってくる情報がまるで乏しい。出来事、特に人と人との関係の噂話などはまるで縁がない。しかし会話しようと志してもことばを持っていない、というのは自らの尾をかんでいる蛇、ウロボロスの輪のようなものだ、出口がない。

 もう一つ、こちらは改めて気づいたことだが、どうにも声が出ていないらしい。今から見れば発音の仕方をまるで知らないでいた、ということになるが、当時、ただ声を大きくするば他人に伝わるだろうと思いこんでいた。

 実を言うとこの誤解は、どうもことばが相手にちゃんと伝わっていないようだと感じる悩みを持つ人々に、かなり共通する思い込みである。そう思い込む根本的な理由は、そもそも自分の声を自分で聞くことはできない、という単純な事実に、わたしたちが気づけないでいることにある。自分の声を自分の耳で聞くことは不可能なのだ。骨を伝わって聴覚神経にとどく波動としての、自分の発する声は骨導で聴覚の中枢に伝わる。わたしたちは内部の音を聞いているので、同じ自分の声でも唇から外へ出、空気の疎密波として他人の鼓膜を振動させる「声」を聞くことはできないのだ。録音した声を聞いた人はだれでも、コレガオレノコエ?と違和感を覚えるのはそのゆえだ。自分が外界へ発している声を、聞き分けるというより感知できるようになるには、訓練が要る。呼びかける声によって、相手と自分の共に立つ場全体がどのように活気づくか、的確に響き合い受け取る体験がひらかれてはじめてできることなのだ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

「声が生まれる」 音が聞こえる その3 竹内 敏晴

2016年12月11日 01時16分35秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音が聞こえる その3 P-12

 その次に、「ことば」の内容を聞き分ける努力、がやってくる。
 まず単語を聞き分けること。一つの単語はいくつもの音で成り立っている。音には強弱のアクセントがある。ある音ははっきり聞こえるがある音は聞こえない。聞き留める音の連なりから欠け落ちてしまう。この語はなんなのだろう?聞き返さねばならぬことがのっぴきならず出てくる。そのために「わたしは耳が悪いので」と告白しなくてはならない。その勇気が身につくまでなん年かかったか。

 文章の場合は同じことが一層しばしば起こった。文章の一部が欠け落ちたのを判読するのは暗号解読みたいなものだ。神経を張り詰めて、残った音の記憶から原文を復元しようとあれこれの音を手探りする。人、特に教師には一定の語り癖があって、それに気がつくには忍耐と時間が要った。

 それでもおよそ半年ほどで、わたしは授業をかなり聞き分けられるようになっていった。驚いたことに成績が一気に上がってきた。試験の手応えなど自分としてはあまり変わらないのに。教師の見る目が変わってきたのだろうとしか思えなかった。採点にも偏見があるんだなあ、とわたしは時々感じたものだった。軍事教練は除外されないようになった。小隊長にも任命された。しかしまだ号令をかけられるほどの声は出すことができなかったので、小隊長はすぐ交替させられた。

 (中略)

 五年に進級する時、わたしは一年生の時以来四年ぶりに後ろの席に座った。
 卒業直前の1941年12月8日に太平洋戦争が始まった。わたしは第一高等学校理科甲類に合格、生まれてはじめて親の許を離れて東京駒場の寄宿寮に入った。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。



「声が生まれる」 音が聞こえる その2 竹内 敏晴

2016年12月08日 00時14分40秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音が聞こえる その2 P-11

 極めて単純化して言い切ってしまうと、聞こえる音と対象が一つになって、ああ、これはこれの音か、とわかるためには、釘を打つ仕草が目に、音が耳に、同時にこちらに伝わる、靴を踏みつける身動きと音とが一緒に響いてくる、という直接さが要るのだ。だから姿の見えない鳥の啼き声などはなんのことかなかなかわからない。

 人の声の聞き分けについては殊更にそれが複雑だ。わたしの生きている環境では聞こえる音は圧倒的に人の声が多い――というよりは生活の必要上そちらに向けてわたしのからだが常に身構えているので、そのうちに、鳥や虫や風の音などは注意の圏外へ追い出されて、聞こえなくなってしまうのだ。聞こえ始めた頃の音の無差別な洪水は、音の分節化がいくらかでも進むにつれて、人の声を中心にした選択的な世界にぐんぐんと狭まってゆく。

 人の声はみな似ている。人の声だとわかるだけでは用をなさない。だれの声だと聞き分けることができなくては意味がない。面と向かってことばを聞けばすぐわかるように思われるが、実はそういう時は声を聞いていないのだ。唇の動きをと発語の聞き分けには注意を集中していて、それが単語の発音として、やがて文の発音として一致してくれば、ことばの意味がわかる。声は無自覚に記憶に蓄積されるだろうが、自覚的に聞き分けることには直接につながらない。
 たとえば、肩を叩いて「オハヨウ!」と呼びかけられる。ビックリして振り向くとそこに顔がある。あ、これがこいつの声か、と気づく。この体験があれば、声が聞き分けられた時かれの顔が浮かぶ。声は声だけで聞き分けることはできない。人と人とのふれあいにおいて、特に呼びかけられたことに気づくことで、はじめて音源のひとりひとりに気づいてゆくのだ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。