朝ドラはあまり見たことがないのですが、今は見ています。古関裕而がモデルということなので、その音楽への関心と生涯をどう歩んだか知りたい思いからです。
あわせてその生涯は、ぼくの父と母と同世代であり、歩んだ時代を映像で知りたい思いもあります。父と母とは地域も環境も仕事も違うのですが、どのような社会的状況で生涯を送ったのかを想像する手掛かりになるかもしれない、という思いがあります。
子ども時代を経て大正期はわずかだけで、昭和3年になってしまいました。大正初期に蓄音機でクラッシック音楽を聴ける家は、ごく限られていたはずです。それから大正13年からラジオ放送が始まり、音楽の普及という意味での環境が変わったでしょうが、それには触れられませんでした。それに大正期の「浅草オペラ」にも触れられていません。
そして昭和8年になりました。作曲を独学とされていますが、その過程には全く触れられていません。レコード会社の専属となったものの、同期の古賀政男の「影を慕いて」が売れながらも、鳴かず飛ばずといったところです。山田耕筰が音楽界の重鎮としてふるまっているのは、分かります。その後軍隊の少将となり音楽家を束ねて戦争協力をしましたから。
どうやらこのドラマは、古関裕而をモデルにしながらも社会背景に触れずに無風の中での身辺の人間関係と音楽で展開していくようです。モデルがありながらもフィクションとことわっていることからしても、ぼくの期待した時代背景にはほとんど触れずに展開していくようです。
ドラマの作りとしても映像がアップが多く、ときに周辺の人の現実味のない映像が挿入されます。紙芝居的、お笑い的要素とも思われる手法を取り入れているのかも、とぼくには思われます。それに当時全くなかっただろうハグをするし、衣装や部屋のどの装置も新しくて生活感のないものにしています。これがリアリティーを遠ざけフィクションの世界に誘っているようでもあります。
古関裕而は多くの人に親しまれた作曲家、とくにNHKやスポーツにかかわる曲も多いので、ドラマのモデルにふさわしい人でしょう。実在した人をノンフィクション風に描くことは難しいもので、負の評価を思われることを捨象し、場合によっては美化もするでしょう。
ぼくは小学生低学区年の時から、ラジオを通して古関裕而の名前と音楽を知っていて、親しんでいました。「長崎の鐘」は作詞者とともに作曲者も耳に残っていました。
印象深いのは「君の名は」の歌と音楽です。歌は本格的に歌唱の織井茂子が歌い、ラジオ番組でのハモンドオルガンが奏でる音楽は、いまだに耳元に残っているように鮮明に記憶があります。
当時はNHKの「今週の明星」という歌番組はオーケストラでしたし、「のど自慢」「3つの歌」はピアノでした。ハモンドオルガンはめずらしい不思議な音でした。ぼくは小学3年生でした。同時期に「雪の降る街を」もぼくは口ずさんでいたと記憶しています。
ところで古関裕而は、「異国の丘」「同期の桜」「若鷲の歌」「暁に祈る」「ああ神風特攻隊」という戦時歌謡も作曲しています。これらの歌の作曲者名は知りませんでしたが、ぼくはこれらの歌をすべて知って歌っていました。小学中学年頃です。父は兵士体験がないし、決して歌いませんでした。母はぼくが歌うのを禁止はしませんでしたが、目を背けるような姿が記憶に残っています。母は炊事をしながら時々「あかいくつ・・・」といった童謡を口ずさんでした。
ぼくがなぜ覚えたかというと、古い雑誌の付録のような戦時歌謡集を探し当ててそれを見て覚えたのでした。メロディーは10歳上の兄(昭和16年からの国民学校入学で終戦時5年生、旧制中学最後の学年)がふと部分を口ずさむときがあったので、その時問いただすように聞いて覚えたのです。それに夕方近所の若者と子どもがなにげなく集まるときにも問いただした記憶があります。ぼくにとっては歌の内容ではなく、歌いやすいし多くを覚えたいという要求を満たすためだったからでしょう。
ドラマは、古関裕而が戦時歌謡の作曲を手掛ける時代になるでしょうが、おそらく多くは省略されるでしょう。しかしどうやらレコード会社の商品として作り出されたのではないか、と予想されます。もしそうだとしたら、時代の要請と生活の糧としてつくっていたということです。長年戦時歌謡の作詩作曲者は戦争とどう向き合って作ったのか、というように考えていましたので、ぼくの考えすぎだということになります。
このドラマの企画は、今年はオリンピックイヤーだったので、64年の東京オリンピックのオリンピックマーチの作曲者としての古関裕而をたたえることがテーマとして考えられたのかもしれません。
なお、そのオリンピックの開会式、閉会式にぼくはバックスタンドにいたのでした。森正が警視庁音楽隊と合唱の指揮を執りました。
3月まで放送されたテレビ朝日の倉本聰の「やすらぎの刻~道」は、フィクションでありながら、フィクションだからこそ戦時下の農村の描き方がリアルで、ぼくの父と母の暮らしぶりや地域の暮らしぶりにも想像力が及びました。
朝ドラは趣旨は違うし、そのような期待をすべきではないと言い聞かせながら、今後も見ることになるでしょう。
あわせてその生涯は、ぼくの父と母と同世代であり、歩んだ時代を映像で知りたい思いもあります。父と母とは地域も環境も仕事も違うのですが、どのような社会的状況で生涯を送ったのかを想像する手掛かりになるかもしれない、という思いがあります。
子ども時代を経て大正期はわずかだけで、昭和3年になってしまいました。大正初期に蓄音機でクラッシック音楽を聴ける家は、ごく限られていたはずです。それから大正13年からラジオ放送が始まり、音楽の普及という意味での環境が変わったでしょうが、それには触れられませんでした。それに大正期の「浅草オペラ」にも触れられていません。
そして昭和8年になりました。作曲を独学とされていますが、その過程には全く触れられていません。レコード会社の専属となったものの、同期の古賀政男の「影を慕いて」が売れながらも、鳴かず飛ばずといったところです。山田耕筰が音楽界の重鎮としてふるまっているのは、分かります。その後軍隊の少将となり音楽家を束ねて戦争協力をしましたから。
どうやらこのドラマは、古関裕而をモデルにしながらも社会背景に触れずに無風の中での身辺の人間関係と音楽で展開していくようです。モデルがありながらもフィクションとことわっていることからしても、ぼくの期待した時代背景にはほとんど触れずに展開していくようです。
ドラマの作りとしても映像がアップが多く、ときに周辺の人の現実味のない映像が挿入されます。紙芝居的、お笑い的要素とも思われる手法を取り入れているのかも、とぼくには思われます。それに当時全くなかっただろうハグをするし、衣装や部屋のどの装置も新しくて生活感のないものにしています。これがリアリティーを遠ざけフィクションの世界に誘っているようでもあります。
古関裕而は多くの人に親しまれた作曲家、とくにNHKやスポーツにかかわる曲も多いので、ドラマのモデルにふさわしい人でしょう。実在した人をノンフィクション風に描くことは難しいもので、負の評価を思われることを捨象し、場合によっては美化もするでしょう。
ぼくは小学生低学区年の時から、ラジオを通して古関裕而の名前と音楽を知っていて、親しんでいました。「長崎の鐘」は作詞者とともに作曲者も耳に残っていました。
印象深いのは「君の名は」の歌と音楽です。歌は本格的に歌唱の織井茂子が歌い、ラジオ番組でのハモンドオルガンが奏でる音楽は、いまだに耳元に残っているように鮮明に記憶があります。
当時はNHKの「今週の明星」という歌番組はオーケストラでしたし、「のど自慢」「3つの歌」はピアノでした。ハモンドオルガンはめずらしい不思議な音でした。ぼくは小学3年生でした。同時期に「雪の降る街を」もぼくは口ずさんでいたと記憶しています。
ところで古関裕而は、「異国の丘」「同期の桜」「若鷲の歌」「暁に祈る」「ああ神風特攻隊」という戦時歌謡も作曲しています。これらの歌の作曲者名は知りませんでしたが、ぼくはこれらの歌をすべて知って歌っていました。小学中学年頃です。父は兵士体験がないし、決して歌いませんでした。母はぼくが歌うのを禁止はしませんでしたが、目を背けるような姿が記憶に残っています。母は炊事をしながら時々「あかいくつ・・・」といった童謡を口ずさんでした。
ぼくがなぜ覚えたかというと、古い雑誌の付録のような戦時歌謡集を探し当ててそれを見て覚えたのでした。メロディーは10歳上の兄(昭和16年からの国民学校入学で終戦時5年生、旧制中学最後の学年)がふと部分を口ずさむときがあったので、その時問いただすように聞いて覚えたのです。それに夕方近所の若者と子どもがなにげなく集まるときにも問いただした記憶があります。ぼくにとっては歌の内容ではなく、歌いやすいし多くを覚えたいという要求を満たすためだったからでしょう。
ドラマは、古関裕而が戦時歌謡の作曲を手掛ける時代になるでしょうが、おそらく多くは省略されるでしょう。しかしどうやらレコード会社の商品として作り出されたのではないか、と予想されます。もしそうだとしたら、時代の要請と生活の糧としてつくっていたということです。長年戦時歌謡の作詩作曲者は戦争とどう向き合って作ったのか、というように考えていましたので、ぼくの考えすぎだということになります。
このドラマの企画は、今年はオリンピックイヤーだったので、64年の東京オリンピックのオリンピックマーチの作曲者としての古関裕而をたたえることがテーマとして考えられたのかもしれません。
なお、そのオリンピックの開会式、閉会式にぼくはバックスタンドにいたのでした。森正が警視庁音楽隊と合唱の指揮を執りました。
3月まで放送されたテレビ朝日の倉本聰の「やすらぎの刻~道」は、フィクションでありながら、フィクションだからこそ戦時下の農村の描き方がリアルで、ぼくの父と母の暮らしぶりや地域の暮らしぶりにも想像力が及びました。
朝ドラは趣旨は違うし、そのような期待をすべきではないと言い聞かせながら、今後も見ることになるでしょう。
本当なら、福島市は今回の朝ドラで誘客したかったはずです…。
ぼくは大学生の時の友人、教員に福島出身の人と交流がありましたから親しみがあります。