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自分を「わたし」といわない

2013-08-20 11:55:31 | 生活・教育・文化・社会
 数年前になるが、自分を「わたし」と言わず、名前を言う学生に出会った。めずらしかったが、明るくマイペースな性格のようでもあり、冗談口と思って印象に残っている。その後2年ぐらいたって、小3の孫娘が「わたし」といわずに主語を自分の名前でいうことに気づいた。
「みんな『わたし』と言わないで、自分の名前を言うの?」と訪ねた。
「そうだよ」
「年中ぐらいになったら『わたし』っていうようになると思っていた。どうして「わたし」っていわないの?クラスの人みんななの?」
「『わたし』って言う人もいるけど、少ないよ」
驚いて、
「へー、小学生ではみんな『わたし』っていうと思っていた。どうして言わないの?」
「わたしっていう人は、何かぶっている人なの、みんな自分の名前で言うよ」
「先生が『わたし』って言うように、注意しないの?」
「しない、しない。授業の発表の時とか『わたし』っていうもん」
 どうやらパブリックとカジュアルの時を区別して使っているようだ。小5になっても、わたしと言う気配はない。というより「わたし」も「自分の名前」も言わない、つまり主語を使わなくなっているようだ。わたしが「わたし」と言ったほうがよいと思っていることを、感じ取っているからかもしれないが。

 どうやら主語に「わたし」を使わずに自分の名前で言うのが一般化しているのではないかと思い、大人である学生に聞いてみた。女性の半数以上は「わたし」を使わず自分の名前を言っている。家族、友人などとの会話で言い、パブリックの場では「わたし」を使うという。場による使い分けをしているようだ。ところで知り合いの近所の人、親戚の人といったパグリックとまでいえなくも大人として振舞うときは、主語を言っていないかもしれない。
 自分を名前で言うのは女性に多いが、男性が自分の名前を使う人が少ないとしても、それを意味する気分というか、文化は男性にもあるだろう。
 芸能人といわれている人たちが、私的なことを告知する時に「わたし○○は」と自分の名前を告げてからにするという形式になっている。
 ツイッターなどででは、主語がなくすぐに自分の思い吐き出すような文章が多い。社会、あるいは対象を考えずに思いをぶつける行動は、公人がときには問題を起こす。「わたし」「ぼく」という主語を省略することが、社会の中の自分というのを弱くしているかもしれない。また、話や文章にも「を」などを使う目的語が少なくなっているのも、物事を関係性で捉えないのかと、気になっている。

 学生時代の児童心理学の授業で、自己中心性のともなった第1反抗期が過ぎると、社会性が育つ、と。その象徴的こととして自分のことを「わたし」「ぼく」というようになると、習った記憶がある。たしかテキストにもそんな記述があったような気がする。親が「わたし」「ぼく」というように教えていたのだろう。社会における自分と他人という意識を醸成する文化を伝えていたということなのだろう。
 わたしを使わずに自分の名前で言う「くつろいだ気分」「自分を中心にした気分」は、時代の空気を表している一端かもしれない。



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