世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●昭和の妖怪・岸信介と孫・安倍晋三の違いは隔世的な違い

2016年08月11日 | 日記
岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368))
クリエーター情報なし
岩波書店

 

興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産 (講談社学術文庫)
姜 尚中,玄 武岩
講談社


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●昭和の妖怪・岸信介と孫・安倍晋三の違いは隔世的な違い

 岸信介が、まさに「昭和の妖怪」であった資料が、以下の魚住昭氏のコラムで語られているが、岸信介に特別な興味がない場合、あまり知らない歴史的事実、時に疑惑である。過去の政治家の生き様に、特別興味を持っても、ノンフィクション作家や学者でもない限り、それ程の意味はないものだが、岸信介と云う過去の人物の人生履歴の中に、今もでも生きているであろう資金や人脈、血脈が、現在の我が国の総理大臣に繋がって、日本の将来に重大な影響を及ぼす影響力を持っているとなると、岸信介は、過去の人物ではなく、現在の日本の政治や社会に生きていることになるのだろう。

 岸信介に関する表向きの情報は、Wikipediaで、あらためて確認なさることをお薦めする。
Wikipediaの【冒頭】には、
≪岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤(さとう)。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。≫とある。

 学生時代に、北一輝や大川周明の考えに影響を受けたようだが、左右両翼の考えが混在、或いは同居したイデオロギーを抱えた青春であったようにも感じる。 農商務官僚(商工官僚)時代 - 満州国時代が、岸信介の人生の転換点であったのだろうが、満州国と云う「鵺」のような国家同様、岸信介も、或いは満州浪人と呼ばれる連中も、その後、「鵺」のような生き様を、それぞれに生き抜くのだから、Wikipediaに書かれている程度の紹介で、事実の一端すらも知ることは難しいかもしれない。 その「鵺」のような正体を、一層際立てるのが、【戦犯被疑者としての獄中、そして無罪放免】と云う青天霹靂のような事実である。

 岸信介の【戦犯被疑者としての獄中、そして無罪放免】と云う出来事には、何かが起きていたと考えるのが妥当だろう。
≪巣鴨プリズン出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった藤山愛一郎から彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、年が明けた1949年には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社(きざんしゃ)」と名乗る岸信介事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める≫
しかし、藤山愛一郎は、親米と云う関係性は認められず、むしろ親中政治家と云う印象の方が強い。都市伝説的に「岸はCIA」と云う伝説には、かなりの無理がある。

 思想的に、必ずしも隷米的立ち位置とは言い難い面があるわけで、政治家になって以降、身を賭して、日米安保の立役者のように印象づけられているが、岸信介の思想の中には、大東亜圏と云うアジア主義な要素が強く含まれている。そのことは、藤山愛一郎と通じる部分でもあっただろう。また、資金的に、藤山が岸のバックボーンになったのか、その辺も定かではない。岸信介が満州時代にアヘンに纏わる金の管理をしていたわけだから、満州国の崩壊と云うドサクサにおいて、数兆円の金を数人の仲間と隠匿した可能性の方が有力であり、米国CIAから資金援助を受けていたと考えるのには無理がある。

 この時の、仲間が、
≪甘粕雅彦。大川周明を通じて後に柳条湖事件や自治指導部などで満州国建国に重要な役割を果たす右翼団体大雄峯会に入る。そのメンバーの一部を子分にして甘粕機関という民間の特務機関を設立。また満州の国策である阿片ビジネスでリーダーシップを取った。満州国崩壊により、自殺をするのだが、その時の辞世の句は、彼の生き様を言い当てている。“大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん”さばさばとしたものだったと云う。≫
≪里見甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた≫等々と、古海忠之、鮎川儀助など。

 魚住氏の岸に関するコラムは、まだ続くようなので、彼の結論も読んでみたい。それにしても、岸信介と云う人物は、ジキルとハイド、デビルとエンジェル、所謂、悪と善が同居し、その周りを知識と教養で包み込んだような人物と云う印象を強く持つ。社会民主主義者のように振る舞うかと思えば、国粋主義者のように振る舞い、変幻自在だ。あまりにも多くの知識と教養が、岸の内部で鬩ぎあっていた印象を深くする。逆に考えると、右翼と左翼のものの考えが、似たような経路を辿ると云う側面を考えると、かなりの部分で理解可能だ。しかし、その岸信介の、何処を見て、どのように真似ようとしているのか、現総理で彼の孫の安倍晋三の凡庸さと、日本会議のような偏狭な勢力が馴染むと云うことは、相当の違和感に満ちている。


 ≪ 昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」

 ■アヘンがあってこその満州国
・アカデミズムの世界で広くその名を知られる京大人文科学研究所の山室信一教授は、私の高校時代のクラスメートだ。
・といっても彼は飛び切りの秀才。私は部活が命の体育会系だったから、一緒に遊んだ記憶はない。私が今もかすかに覚えているのは、小柄なわりに頭が大きくて、生真面目な顔をした山室君の学生服姿である。
・その山室君の労作『キメラ―満洲国の肖像 増補版』(中公新書)を読んだ。23年前に初版が出たとき、ずいぶん話題になったから、すでに読まれた方も多いにちがいない。
・今ごろになって言うのも失礼だが、一読三嘆。中国東北部の大地に忽然と現れて消えた幻の国の本質に迫った傑作だった。
・私は半世紀前の熊本でこんな立派な仕事をすることになる人と机を並べていた。と思うだけでちょっぴり誇らしくなった。
・本の中には最近、私が追いかけている「昭和の妖怪」岸信介も登場する。とくに興味深かったのは、増補版で新たに加筆された「補章」の記述だった。
・山室教授は、満州国政府で岸の忠実な部下だった古海忠之(前回登場したアヘン取引の責任者である)の言葉を引きながら、こう述べている。 〈総務庁次長を務めた古海忠之は、「満洲国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」とみていますが、満洲国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満洲国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだともいわれています。基本的な資金源はアヘンでした〉
・山室教授によると、アヘンは満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主な資金源になった。そのため満州や蒙古各地でケシを栽培させたほか、ペルシャなどから密輸した大量のアヘンを満州国に流し込んだという。
・それが莫大な利益を生み、軍の謀略資金になった。関東大震災(1923年)直後、無政府主義者の大杉栄ら3人を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦が、満州で「影の皇帝」といわれるほどの権勢をふるったのもそうした裏金があったからだと指摘して教授はこう語る。
〈甘粕はまた中国人労働者を満洲に雇い入れる斡旋事業においても、裏金をつくり出していました。岸信介にしても一介の官僚でありながら、甘粕の特務工作に対してその当時の額面で一〇〇〇万円(卸売物価の上昇率からみて現在 の八〇億~九〇億円にも相当します)を手渡したりしています〉
・ただし、甘粕はこれらの資金を着服したりはせず、満州国から華北や蒙疆へ日本が進攻していくための特務工作に使用したといわれている。だから〈満洲国はそうした「第二の満洲国」造り工作の策源地であり、資金源であったということになります〉と教授は解説する。
・なるほど、そう考えると、関東軍が陸軍中央の統制を無視して暴走を繰り返した理由も分かってくる。彼らは満州でアヘンという打ち出の小づちを手に入れた。だから中央の顔色をうかがう必要がなかったのだ。
・それにしても、岸から甘粕に渡されたという1000万円は眉に唾をつけたくなるほど巨額のカネである。ホントだろうか。
・山室教授が根拠にしているのは、戦後になってからの古海の証言だ。その全容は『新版 昭和の妖怪 岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)に収録されているのでご紹介しておく。

 ■あの男から取ってきてやる
・古海によると、岸が満州国政府の高官だった1930(昭和5)年代後半、岸と甘粕を中心に古海らを加えて約10人が会を作っていた。会の名はなかったが、そこでアジア政策をどうするか、日本での情宣活動はどうあるべきかが話し合われた。
・会は単なる懇談に止まらず、具体的な行動もとった。日本内地の新聞の乗っ取りを企てたり、甘粕による排英工作(=英国勢力をアジアから駆逐する謀略工作)を支援したりした。その意味では会というより一派と呼んだほうがふさわしかった。
・古海が言う。
〈甘粕という人はたくさんのカネを持っていたが、使う方もバカ大きくて、そういう意味では、ケタ外れのスケールをもっていましたね。大量の工作資金を必要とするのに、甘粕は決して自分で資金づくりをしない。そのため、随分私どもも甘粕のために資金作りをしたものです〉
・当初、甘粕には満州国総務庁の機密費を支出していた。ところが、1937(昭和12)年に大蔵省出身の星野直樹が総務長官になって「機密費の流用はまかりならん」ということになり、甘粕は資金の調達に困ってしまった。そのため甘粕から頼まれた古海が岸に取り次いだ。
・「甘粕が困っている。1000万円必要だといっている」
・古海が言うと、岸が答えた。
・「何か担保はないか」
・「鉱山の採掘権を持っている」
・「そうか。採掘権さえあれば大丈夫だ。それくらいはたいしたことではない。いままで一度も鮎川から搾ったことがないから、あの男から取ってきてやる」
・岸はあっさり資金調達を引き受けた。鮎川とは新興財閥・日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(岸の縁戚)のことだ。日産は1937年末、岸らの誘致で本社を満州の新京(現・長春)に移転し、社名を満州重工業開発に変更した。古海が言う。
〈岸さんは鮎川に甘粕の採掘権を一千万円で売りつけたわけです。甘粕は満州建国の功労で関東軍からあちこちの鉱山の採掘権をもらっていたのです。その後、鮎川は岸さんの斡旋で甘粕にカネを出し続けていました〉
・額が真実かどうかはともかく岸は膨大なカネを自由に動かしたようだ。『岸信介-権勢の政治家-』(岩波新書)の著者・原彬久東京国際大学名誉教授は〈岸は同僚官吏はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたといわれる〉と記している。
・私が気になるのは、岸の豊富な資金がアヘンの密売によって作られたものだったのかだ。その謎に迫るには、上海の「阿片王」里見甫の証言に耳を傾けなければならない。 『週刊現代』2016年8月6日号より ≫ 


 ≪ 岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?

 ■意外にも平凡な「アヘン王」の風貌
・千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園は、戦国時代に里見一族が北条氏と戦って敗れた古戦場として知られている。
・土曜の午後、その里見公園の隣にある総寧寺を訪ねた。上海の「阿片王」といわれた里見甫の墓があると聞いたからだ。
・人気のない境内の奥の墓地に入って探したら、すぐ見つかった。こぢんまりした墓石に「里見家之霊位」と刻まれ、側面には「岸信介書」とあった。
・たしかに岸の字だ。少し丸みを帯びていて優しげで、しかも繊細である。岸がその政治人生でしばしば見せる、激しさや冷酷さは少しも感じさせない。
・「字は体を表す」とか「書は人なり」というけれど、岸にはその格言は当てはまらない。彼はつねに千変万化する。善人なのか、悪人なのか。鵺のようで捉えどころがない。
・一方の里見はどうだったのだろう。彼は戦後の1965(昭和40)年、69歳で亡くなった。われらが先達、草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞社刊)で里見をこう描いている。
〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂天が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。路傍の地蔵尊や野際の石小 法師の前をとおるときは、必ず足を停めて掌をあわせる。物静かな語り口であり、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝るほど食事を摂らない〉
・さすが草柳である。里見の人間像が眼前に浮かぶ。里見はアヘンで中国に途方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、恬淡とした男だったらしい。
・草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に面したピアス・アパート3階に住んでいた。6畳と3畳の二間しかない家で、秘書はおかず、「おちかさん」という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。
・乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。 ・総寧寺の里見の墓石のわきには友人の筆になる小さな墓碑が建っていた。そこに刻まれた語句が里見の生の核心を見事に捉えているような気がした。

凡俗に堕ちて 凡俗を超え
名利を追って 名利を絶つ
流れに従って 波を揚げ 其の逝く処を知らず

■里見と岸の関係
・里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でアヘンについてこう語っている。
〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった〉
・読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。
・岸がつづけて語る。
〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も 手に入れたのでしょうが、満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからですね〉
・茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係ではなかったと言いたいらしい。
・たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。
・岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」という。
・しかし、これは残念ながらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。 〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次のことが真実である事を誓ひます。
・1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に参りました。私はそれ以前天津に居つたのであります。
・1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を売つて呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシヤから来る途中にあると云ひました〉
・里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大 部分は中華航空機で運ばれてきたことなどを語っている。
・問題は興亜院などに送られた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知っているはずだが口をつぐんでいる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。
・そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金ニ割当テラレル為東京ニ送ラレタ〉という衝撃的な記述があった。以下次号。 『週刊現代』2016年8月13日号より  ≫(以上二つのコラム、現代ビジネス>メディアと教養>わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ)

満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦 (角川新書)
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KADOKAWA/角川学芸出版



キメラ 満洲国の肖像 [増補版] (中公新書)
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