藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

お茶碗かごをやめました

2019年05月17日 | 雑感

 もう結構前になりますが、食事に使った食器類を洗った後に、水気を切るために入れる
「お茶碗かご」をやめました。

 家族数が減ったのと、調理に使うスペースを広げたいのと、かごを洗う手間を無くすために。

 専用の布巾を敷いて、その上に洗った食器類を伏せて置き、洗い終わったら別の布巾で拭いて、しまう。

 あら~、簡単!

 子供たち家族が来た時も、一人が洗う、一人が拭くとやって、おしまい。シンク横ひろびろ。

 今まで当然と思っていたことが、実は改善できることだった。

 以前に三角コーナーをやめた時もそうでしたが、本当に要るのか?と考えるプロセスを持たなかったわけですね。

 
 唐突に。

 私は死刑廃止に賛成です。

 って、前にもかきました。

 死刑執行は、結局殺人と同じです。同じことを繰り返してしまうことだと思います。

 でもでも。

 やっぱりそうなんだけれど、思ってしまう。

 こんな人間は死刑にしたいよ!と、思ってしまう。

 児童虐待。

 力の差が歴然とある中で、どうして子どもの体と心を破壊するのか。

 よく言われるのは、自身が幼い時に虐待された経験があるとそれを繰り返すと。

 私には正直、心理学的なことはわかりませんが。

 暴力行為を続けられると、支配されてしまいそこから抜け出そうとする気持ちが萎えてしまうと。

 最悪、自分が被害にあわないようにするために、より力の無い者に関心をむけさせるか、自らも加害を加えるようになると。


 それならやっぱり、第三者が「本当にあってはいけないことなんだ!」という強い態度を持って、「虐待ゼロ」に向かわないとならないのだと思います。

 DVの防止から、ではなくて、もう幼い時からの<人権教育>。相手を大切にし、命を尊重する教育。

 たとえば、小さい子はよく噛んだり叩いたりとやりますが、「言葉が言えないからやるわね」じゃなくて、「本当にやってよいのか?」「なぜそうするのか?」「やめさせるには?」ともう一度考えるプロセスが必要かもです。

 お茶碗かごの次に虐待の話で、一体なんだ!と言われそうですね。

 無くてもよいものと、あってはならないものという大きな違いがありますが、わが身に置き換えて、無くすにはどうしたら良いかと考える必要があると思うのです。

 自分でもできることを見つけて、どんな小さなことでも取り組んだほうが良い。

 報道に胸を痛めるだけでない、何かが出来れば、と思うのです。
コメント
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