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コソボ独立宣言をどう見るか

2008年02月29日 23時16分59秒 | その他の国際問題
・コソボ:議会で独立宣言を採択 旧ユーゴは7カ国に分裂(毎日新聞)
 http://mainichi.jp/select/photo/news/20080218k0000m030053000c.html
・コソボ情勢(外務省)
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/serbia/kosovo/josei.html
・旧ユーゴ便り:最新更新ページ「ウリメ!コソヴォ独立」へは此処から。
 http://www.pluto.dti.ne.jp/katu-jun/yugo/index.html
・コソボ共和国(世界飛び地領土研究会)
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/kosovo.html
・Crisis in Kosovo
 http://www.imcnews.com/kosovo/kosovoindex.html
・コソボ問題―わかりやすく解説(井浦伊知郎氏のHP)
 http://hb6.seikyou.ne.jp/home/iura/kosovo.htm
・コソボの戦い&バルカン紛争(Nishitatsu1234の部屋)
 http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/Balkan.htm

 東欧旧ユーゴスラビア・セルビア共和国内のコソボ自治州が、2月17日にセルビア本国からの独立を宣言しました。このコソボ独立をどう見るか、支持すべきか否か、実は今までずっと考えていました。確かに、域内全人口の約9割を占めるアルバニア人が熱狂的に支持しての独立宣言なのですから、人民主権や民族自決権擁護、被抑圧民族・人民解放を身上とする左派の立場からすれば、当然独立支持という事になります。しかし、この問題について調べれば調べるほど、そう単純には話が行かないという事も分かってきて、今もって態度を決めかねているというのが正直な所です。

 そもそもこの地域は、「セルビア王国発祥の地」と伝えられている事からも分かる様に、当初住んでいたのはセルビア人の方でした。それが、東ローマ(ビザンツ)帝国、オスマン・トルコ帝国という様に、時の支配者が次々変わる中で、イスラム教徒が中心のアルバニア人が南方から移住してきて、正教徒中心のセルビア人は次第に北方に押し出される形となりました。それが現代に至る民族分布の因って立つ謂れです。
 そして19世紀以降は、オスマン・トルコ帝国が衰退するにつれて、西方からはドイツやオーストリア・ハンガリーが、東方からはロシアが相次いでこの地に進出し、ルーマニア・ブルガリアなど東欧各地の民族を傘下に組み込んでいきます。その結果、東欧・バルカン半島のこの地は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる様になり、やがて20世紀に至り第一次世界大戦となって爆発します。

 第一次大戦後は、民族自決の原則に則り、東欧でもポーランドやチェコ・スロバキアなどの民族国家が誕生しますが、この地はセルビア・クロアチア・スロベニアなどと共に、ユーゴスラビアという国の一部にされてしまいます。
 そしてユーゴは、第二次大戦時の対独パルチザン闘争を経て、戦後はパルチザン指導者チトーの下で、社会主義の連邦国家として対ソ自主独立路線と独自の地方分権・自主管理政策で世界の注目を集めるものの、彼の死後は民族対立の激化と東欧社会主義圏崩壊の中で次第に瓦解の道を歩み始め、21世紀に入る頃には世界地図の上からも完全に消えてしまいます。その後もセルビア人とクロアチア人・スロベニア人・ムスリム人・アルバニア人との対立は続き、それで今に至っているのです。

 これを日本に当てはめて考えると、以下の様になります。平安時代までの日本人の主な活動エリアは関東地方から九州までだった。やがて各地方では地方武士による群雄割拠が進み、朝廷から相次いで独立する。その中で、今の京都府一体には渡来人が大挙押し寄せて住み着き、やがて人口全体の9割を占めるに至る。そして長年の日本人による差別に怒り、近畿地方からも一方的に独立―その平安期の日本人エリアが社会主義時代の旧ユーゴ、近畿地方がセルビア、京都府がコソボに当たると考えると、イメージが思い浮かぶでしょう。実際にも旧ユーゴの面積は日本の約3分の2で、それが大小8つの共和国・自治州に分かれていたのですから(この際、時代の違いは敢えて無視して下さいw)。

 以上がこの地域の大まかな歴史ですが、こうしてみると、単純な支配・被支配や大国・小国の関係だけでは説明しきれない事が分かります。ベトナム・アルジェリア・旧ポルトガル領アフリカや東ティモールの様な、帝国主義・植民地主義vs民族解放戦線の対立図式とは全然異なります。
 また、パレスチナ問題やウイグル・チベット問題とも異なります。なるほど、<かつての被抑圧民族(ユダヤ人・中国人)が今では多数派となって別の少数民族を抑圧している>という対立図式だけに限って言えば、パレスチナ等の問題もコソボと似通っていますが、<今もどちらかが一方的に抑圧者の立場にあるとは言えない>という点では、コソボ問題は他の場合とも異なります。例えばパレスチナ紛争の場合では、双方がテロの応酬に明け暮れているとは言っても、抑圧者の立場に立っているのは明らかにイスラエルの方ですが、コソボの場合は後述する様に、どちらか一方が抑圧者であるとは断定出来ないからです。

 一般マスコミではとかく<多数派セルビア人による少数派アルバニア人への弾圧>という枠組みで報じられる事の多いこの問題ですが、実際はそんな単純なものではなく、寧ろ<双方が互いに相手を虐殺しにかかっている>と捉えた方が近いのではないでしょうか。謂わば、<双方ともに被害者であると共に加害者でもある>のです。かつては、今とは逆に、アルバニア人がセルビア人を抑圧した事もありました。また、今もセルビア本国ではアルバニア人は少数派として抑圧されていますが、逆にコソボに行くと今度はセルビア人が少数派として抑圧されているのです。
 そういう意味では、このコソボの民族対立は、スリランカ国内でのシンハラ人・タミール人の対立や、映画「ホテル・ルワンダ」の背景ともなった、アフリカ・ルワンダにおけるフツ・ツチ両部族の対立構造に近い様に思われます。そして、これらの民族・部族対立に共通しているのは、<昔はそれなりに共存していた各民族が、その後の分断統治によって次第に反目・対立させられる様になり、それが現代まで尾を引いている>という事です。

 この様な民族対立の構図を背景に持つ今回のコソボ独立宣言ですが、それでも民族自決や人民主権の立場に立つ限り、一方的独立という選択もやむを得ないのかも知れません。今更共存しようにも出来ない所まで対立が進行してしまった以上、無理に統合させても直ぐまた分裂してしまうだけだからです。スターリン時代の旧ソ連とは異なり、域内諸民族の平等と宥和にはそれなりに心を砕いた筈のチトーの手腕を以ってしても、ユーゴの統一が維持できなかったのですから。
 しかし、独立で事態が好転する事もないでしょう。寧ろ独立によって更に民族対立が激化する兆しすら見られます。コソボ独立を契機に、近隣のボスニアでもセルビア人とムスリム人の対立が激化するでしょうし、ルーマニア・トランシルバニア地方のハンガリー人も分離独立の傾向を強めるでしょう。一層の事、もう気の済むまで散り散りバラバラになるしか道はないのかも知れません。実際、ナチスドイツ占領時代のバルカン半島の国境線が、一番実際の民族分布を反映したものであったのかも知れないというのでは、もう歴史の皮肉という他ありません。

 この地域にとって一番大切な事は、民族間の憎悪の連鎖が断ち切られ、諸民族の平和と平等が保障される事であって、民族独立はあくまでその為の手段でしかない筈なのに、現実は必ずしもそうはなっていない。それどころか寧ろ、一地域の独立が、更なる民族間の憎悪を生んでいる様にすら見えます。そんな中にあって、域内諸民族の平等・平和共存や民族独立・民族自決権擁護の主張が、一体どれだけの意味を持つのだろうか。真の人間解放が達成されるまでには、あとどれだけの経過を辿らなければならないのだろうか。そんな事をついつい考えてしまいます。
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