みんなの党 政党広報コマーシャル 「公務員削減」篇
今度の参院選では「みんなの党」の躍進が予想されているそうですが、何故こんな党が人気を集めているのか、私には全然理解出来ません。勿論、党のHPも何度も見ました。しかし、それを見ても私の疑問は全然氷解しませんでした。
まず、この党の組織についてですが、党のHP(党概要)には、党本部の所在地として、東京都心の「藤和半蔵門コープ」というマンションの一室が上げられています。党本部がマンションの一室なのです。しかも、週刊朝日の記事によると、そこには常駐スタッフは不在で、議員秘書や非常勤のアルバイトが時折顔を見せるだけ、との事です。
これも見ようによっては、「昨年結成されたばかりの党であり、常駐の事務所やスタッフを抱える余裕は無い」「議員活動は個々の議員事務所で行われているから、別に構わないではないか」と言う事かも知れませんが、ちょっと待って下さい。若し自分がそこの党員や支持者だったとして、たまたま不当解雇や生活困窮の憂き目に遭ったとしたら、どうでしょう。党に相談しようにも、常駐の事務所やスタッフもいない、困った時には何の頼りにもならないのでは、一体何のための党なのでしょうか。それに対して、「代わりに議員事務所に相談すれば良い」と言うのであれば、それでは議員の個人後援会だけあれば良いのであって、こんな党なぞ別に要りません。少なくとも私は、こんな党なぞ支持する気には到底ならないです。こんな体たらくでは、「この党は単なる政党助成金の受け皿でしかない」と思われても仕方ないでしょう。
そして、この党の公約・主張についても、「脱官僚」「地域主権」「生活重視」が三本柱のスローガンとして掲げられていますが、一見耳障りの良い事が書かれているようでも、よく読めば今まで自民党が言って来た事と殆ど変わりません。
まず「脱官僚」についてですが、確かに天下りやカラ残業などの官僚の利権漁りは目に余るものがありますが、これも所詮は政治の為せる業です。大本の政治家が利権政治に汲々としているからこそ、手足の官僚も腐敗が著しいのです。例えば、官僚による不作為の典型である「消えた年金」「薬害エイズ」などの諸問題にしても、その背景には、国の仕事を大企業優遇(経財)・土建行政(国交)・軍拡(防衛・外務)・国民統制(文部科学)などに限定し、厚生労働行政なんて国内大資本や外資の金儲けの道具にすれば良いとする、歴代政府・財界の意向(新自由主義の基本路線)があったからこそ、年金記録業務の派遣会社への丸投げや、製薬企業と官僚との癒着も起こったのです。そんな官僚政治を生み出した大本の悪政を正さずに、徒に官僚だけを叩いた所で、羊頭狗肉の責任逃れや問題のすり替えにしかならないでしょう。
それに、そんな官僚叩きも野党の立場だからまだ可能なのであって、攻守代わって自らが与党の立場に立てば嫌でも官僚を使わざるを得ず、だからこそ尚更、自らの政治姿勢こそが問われるのです。悪い官僚は悪い政治から生まれるのに、政治そのものを問題にせず、官僚だけを叩いても意味がない。それでは「矛先そらし」と取られても仕方ありません。
次の「地域主権」についても、真に地域主権(地方自治)の確立を望むのであれば、現実に今、地方で大問題になっている、医療崩壊や地域の衰退、産業空洞化、農業の後継難や、生活保護切捨ての「水際作戦」「北九州方式」や、受験競争偏重の全国一律学力テスト強要や、沖縄への米軍基地負担の強要に見られるような、住民生活・住民自治・民主主義に対する侵害こそ、真っ先に問題とされなければならないのと違いますか。ところが、この党のマニフェストには、その事への言及は殆ど無いか、あっても「規制緩和」頼みの過去の路線にひたすら固執しているだけです。それどころか、普天間基地や学力テスト、農業自由化の問題では、過去の自民党や今の民主党の悪政を、そのまま推進する立場に立っているではないですか。
その住民無視・民主主義蹂躙の姿勢が変わらない限り、幾ら「既存の都道府県を新たな道州に再編し、そこに3ゲン(権限・財源・人間)をつぎ込む」とか「中央省庁もそれに合わせて再編する」とか言われても、それでは、悪政推進の「入れ物」をより大きな物に置き換えるだけにしか過ぎません。それでは、かつての運輸省や建設省に代わって国交省が従来通りの箱物・土建行政を推進しているのと同様に、今の都道府県の代わりに、新たな道州や再編された中央省庁に、従来通りの悪政を住民や市町村にごり押しさせようとしているだけではないですか。何のことは無い、自治体リストラによる財界の地方支配と、更なる国家統制の強化という真の狙いを、偽りの地方分権ポーズで誤魔化しているだけです。
これは最後の「生活重視」についても同じです。この党は、盛んに民主党の「国民生活が一番」というスローガンを「バラマキ」だと言って攻撃していますが、自身の「生活重視」の内容も、それと同じかそれ以下でしかなく、絶対にそれを乗り越えようとするものではありません。結局はこのスローガンも、新自由主義や格差社会への批判に対抗し、「勝ち組」が巻き返しに出てきているのを、偽りの生活重視ポーズで誤魔化しているだけです。
それが証拠に、言っている事は「名目4%以上の成長で10年間で所得を5割アップ」とか「頑張れば報われる」「イノベーション」「規制緩和」とか、かつての自民党の小泉内閣や安倍内閣が言っていた事の、二番煎じ・焼き直しにしか過ぎないではないですか。ところが実際は、その規制緩和によって、格差が広がり、経済は冷え込み、国民生活が破壊されたのです。だからこそ、「もうこんな政治は沢山だ」と、先の衆院選で自民党にノーを突きつけ、「代わりに政権をとった民主党も第二自民でしかなかった」と、みんな怒っているのでしょうが。
「郵便局がコンビニになる」と言われた郵政民営化も、その後に起こったのは地方の郵便局の閉鎖や、郵貯や簡保を米国保険会社の金儲けの道具にしただけでした。規制緩和で郊外に野放図に進出した大型店によって、駅前商店街はシャッター街と化してしまいました。「フリーな働き方」「生活が便利になる」との触れ込みで行われた派遣労働の自由化や労働規制緩和によって、実際にもたらされたのは、「派遣村」の惨状であり、深夜バス・JRの安全無視や、耐震偽装・産地偽装の数々の事例でした。
そんな自民党政治にノーを突きつけたものの、結局は第二自民でしかない民主党に騙された世論の一部が、何でこんな第三自民(第二民主)の党に、また引き寄せられていくのか。
まあ、それは何もこの党だけに限った話ではなく、「みんなの党」を「第二民主党」と攻撃している「立ち上がれ日本」あたりの「より右寄り新党」にしても、新自由主義路線や自民党政治の継承という点では、みんな同じ穴のムジナなのですが。その「同じ穴のムジナ」同士が、参院選後の大連立も睨んで、今は少しでも自分たちを高く売っておこうと、選挙前に醜い足の引っ張り合いを演じているにしか過ぎないのですが。
消費税増税についても、一見すれば自民・民主の増税路線とは一線を画しているように見えるこの党も、所詮は「直ぐに増税するか少し間をおくか」の違いでしかありません。大企業優遇税制などの幾多の抜け道はそのままにして、ひたすら弱者や取り易い所から羊の毛をむしるように、ひっそり、ごっそり収奪する手立てのみを考えている、今の増税論議の本質においては、自民・民主も、「みんなの党」やその他の右寄り新党も、みんな同じでしかありません。
そもそも、この「みんなの党」代表の渡辺喜美にしてからが、つい1年ほど前までは、同じ自民党の有力政治家として、さんざっぱら悪政を推進してきたのです。そして1年前の政権交代選挙を前にして、沈み行く自民党から自分だけ責任を逃れようと、恰も泥舟から逃げ出すネズミの如く、とりあえず別の新党に看板を付け替えただけにしか過ぎないのです。
上記の党広報動画で、渡辺党首が「ヨッシー」と声援を受けなが中央集権やら官僚政治のパネルを倒す姿が描かれていますが、小泉・安倍人気の絶頂期には、その中央集権やら官僚支配を自らも積極的に支えてきたくせに。今頃になってそれをマッチポンプで誤魔化している渡辺も渡辺なら、それにバカみたいに「ヨッシー」と声援を送る奴らもどうかしてます。それで国会議員や公務員を半減しても、その半減された奴らが、密室で今まで通りの強権政治を推進していたら、同じことではないですか。その「半減された奴ら」がもっと少数で政治を行っているのが、今の北朝鮮や中国ではないですか。まさか「みんなの党」は、こんな国に日本もしたいのでしょうかw。
そんな党が何故、今これほど「穴人気」になっているのか、私には全然分かりません。恐らく、橋下徹や東国原英夫などのタレント知事に対する人気と同様の、「何か知らんけど、イケメンでベスト・ドレッサーのヨッシーなら、何かやってくれるのと違うか」という、他力本願の淡い願望によるものなのでしょうが。しかし、その彼の過去と現在を見ると、かつて小泉・安倍自民党や前原民主党が実行に移して国民からノーを突きつけられた政治と、全く同じでしか無い。それは何も難しい知識が無くとも、政治の素人でも少し立ち止まって考えれば、直ぐに気が付きそうなものですが。しかし、現実は斯くの如しです。何故こうなるのかについては、次回以降の記事でも、もう少し考えてみたいと思います。
今度の参院選では「みんなの党」の躍進が予想されているそうですが、何故こんな党が人気を集めているのか、私には全然理解出来ません。勿論、党のHPも何度も見ました。しかし、それを見ても私の疑問は全然氷解しませんでした。
まず、この党の組織についてですが、党のHP(党概要)には、党本部の所在地として、東京都心の「藤和半蔵門コープ」というマンションの一室が上げられています。党本部がマンションの一室なのです。しかも、週刊朝日の記事によると、そこには常駐スタッフは不在で、議員秘書や非常勤のアルバイトが時折顔を見せるだけ、との事です。
これも見ようによっては、「昨年結成されたばかりの党であり、常駐の事務所やスタッフを抱える余裕は無い」「議員活動は個々の議員事務所で行われているから、別に構わないではないか」と言う事かも知れませんが、ちょっと待って下さい。若し自分がそこの党員や支持者だったとして、たまたま不当解雇や生活困窮の憂き目に遭ったとしたら、どうでしょう。党に相談しようにも、常駐の事務所やスタッフもいない、困った時には何の頼りにもならないのでは、一体何のための党なのでしょうか。それに対して、「代わりに議員事務所に相談すれば良い」と言うのであれば、それでは議員の個人後援会だけあれば良いのであって、こんな党なぞ別に要りません。少なくとも私は、こんな党なぞ支持する気には到底ならないです。こんな体たらくでは、「この党は単なる政党助成金の受け皿でしかない」と思われても仕方ないでしょう。
そして、この党の公約・主張についても、「脱官僚」「地域主権」「生活重視」が三本柱のスローガンとして掲げられていますが、一見耳障りの良い事が書かれているようでも、よく読めば今まで自民党が言って来た事と殆ど変わりません。
まず「脱官僚」についてですが、確かに天下りやカラ残業などの官僚の利権漁りは目に余るものがありますが、これも所詮は政治の為せる業です。大本の政治家が利権政治に汲々としているからこそ、手足の官僚も腐敗が著しいのです。例えば、官僚による不作為の典型である「消えた年金」「薬害エイズ」などの諸問題にしても、その背景には、国の仕事を大企業優遇(経財)・土建行政(国交)・軍拡(防衛・外務)・国民統制(文部科学)などに限定し、厚生労働行政なんて国内大資本や外資の金儲けの道具にすれば良いとする、歴代政府・財界の意向(新自由主義の基本路線)があったからこそ、年金記録業務の派遣会社への丸投げや、製薬企業と官僚との癒着も起こったのです。そんな官僚政治を生み出した大本の悪政を正さずに、徒に官僚だけを叩いた所で、羊頭狗肉の責任逃れや問題のすり替えにしかならないでしょう。
それに、そんな官僚叩きも野党の立場だからまだ可能なのであって、攻守代わって自らが与党の立場に立てば嫌でも官僚を使わざるを得ず、だからこそ尚更、自らの政治姿勢こそが問われるのです。悪い官僚は悪い政治から生まれるのに、政治そのものを問題にせず、官僚だけを叩いても意味がない。それでは「矛先そらし」と取られても仕方ありません。
次の「地域主権」についても、真に地域主権(地方自治)の確立を望むのであれば、現実に今、地方で大問題になっている、医療崩壊や地域の衰退、産業空洞化、農業の後継難や、生活保護切捨ての「水際作戦」「北九州方式」や、受験競争偏重の全国一律学力テスト強要や、沖縄への米軍基地負担の強要に見られるような、住民生活・住民自治・民主主義に対する侵害こそ、真っ先に問題とされなければならないのと違いますか。ところが、この党のマニフェストには、その事への言及は殆ど無いか、あっても「規制緩和」頼みの過去の路線にひたすら固執しているだけです。それどころか、普天間基地や学力テスト、農業自由化の問題では、過去の自民党や今の民主党の悪政を、そのまま推進する立場に立っているではないですか。
その住民無視・民主主義蹂躙の姿勢が変わらない限り、幾ら「既存の都道府県を新たな道州に再編し、そこに3ゲン(権限・財源・人間)をつぎ込む」とか「中央省庁もそれに合わせて再編する」とか言われても、それでは、悪政推進の「入れ物」をより大きな物に置き換えるだけにしか過ぎません。それでは、かつての運輸省や建設省に代わって国交省が従来通りの箱物・土建行政を推進しているのと同様に、今の都道府県の代わりに、新たな道州や再編された中央省庁に、従来通りの悪政を住民や市町村にごり押しさせようとしているだけではないですか。何のことは無い、自治体リストラによる財界の地方支配と、更なる国家統制の強化という真の狙いを、偽りの地方分権ポーズで誤魔化しているだけです。
これは最後の「生活重視」についても同じです。この党は、盛んに民主党の「国民生活が一番」というスローガンを「バラマキ」だと言って攻撃していますが、自身の「生活重視」の内容も、それと同じかそれ以下でしかなく、絶対にそれを乗り越えようとするものではありません。結局はこのスローガンも、新自由主義や格差社会への批判に対抗し、「勝ち組」が巻き返しに出てきているのを、偽りの生活重視ポーズで誤魔化しているだけです。
それが証拠に、言っている事は「名目4%以上の成長で10年間で所得を5割アップ」とか「頑張れば報われる」「イノベーション」「規制緩和」とか、かつての自民党の小泉内閣や安倍内閣が言っていた事の、二番煎じ・焼き直しにしか過ぎないではないですか。ところが実際は、その規制緩和によって、格差が広がり、経済は冷え込み、国民生活が破壊されたのです。だからこそ、「もうこんな政治は沢山だ」と、先の衆院選で自民党にノーを突きつけ、「代わりに政権をとった民主党も第二自民でしかなかった」と、みんな怒っているのでしょうが。
「郵便局がコンビニになる」と言われた郵政民営化も、その後に起こったのは地方の郵便局の閉鎖や、郵貯や簡保を米国保険会社の金儲けの道具にしただけでした。規制緩和で郊外に野放図に進出した大型店によって、駅前商店街はシャッター街と化してしまいました。「フリーな働き方」「生活が便利になる」との触れ込みで行われた派遣労働の自由化や労働規制緩和によって、実際にもたらされたのは、「派遣村」の惨状であり、深夜バス・JRの安全無視や、耐震偽装・産地偽装の数々の事例でした。
そんな自民党政治にノーを突きつけたものの、結局は第二自民でしかない民主党に騙された世論の一部が、何でこんな第三自民(第二民主)の党に、また引き寄せられていくのか。
まあ、それは何もこの党だけに限った話ではなく、「みんなの党」を「第二民主党」と攻撃している「立ち上がれ日本」あたりの「より右寄り新党」にしても、新自由主義路線や自民党政治の継承という点では、みんな同じ穴のムジナなのですが。その「同じ穴のムジナ」同士が、参院選後の大連立も睨んで、今は少しでも自分たちを高く売っておこうと、選挙前に醜い足の引っ張り合いを演じているにしか過ぎないのですが。
消費税増税についても、一見すれば自民・民主の増税路線とは一線を画しているように見えるこの党も、所詮は「直ぐに増税するか少し間をおくか」の違いでしかありません。大企業優遇税制などの幾多の抜け道はそのままにして、ひたすら弱者や取り易い所から羊の毛をむしるように、ひっそり、ごっそり収奪する手立てのみを考えている、今の増税論議の本質においては、自民・民主も、「みんなの党」やその他の右寄り新党も、みんな同じでしかありません。
そもそも、この「みんなの党」代表の渡辺喜美にしてからが、つい1年ほど前までは、同じ自民党の有力政治家として、さんざっぱら悪政を推進してきたのです。そして1年前の政権交代選挙を前にして、沈み行く自民党から自分だけ責任を逃れようと、恰も泥舟から逃げ出すネズミの如く、とりあえず別の新党に看板を付け替えただけにしか過ぎないのです。
上記の党広報動画で、渡辺党首が「ヨッシー」と声援を受けなが中央集権やら官僚政治のパネルを倒す姿が描かれていますが、小泉・安倍人気の絶頂期には、その中央集権やら官僚支配を自らも積極的に支えてきたくせに。今頃になってそれをマッチポンプで誤魔化している渡辺も渡辺なら、それにバカみたいに「ヨッシー」と声援を送る奴らもどうかしてます。それで国会議員や公務員を半減しても、その半減された奴らが、密室で今まで通りの強権政治を推進していたら、同じことではないですか。その「半減された奴ら」がもっと少数で政治を行っているのが、今の北朝鮮や中国ではないですか。まさか「みんなの党」は、こんな国に日本もしたいのでしょうかw。
そんな党が何故、今これほど「穴人気」になっているのか、私には全然分かりません。恐らく、橋下徹や東国原英夫などのタレント知事に対する人気と同様の、「何か知らんけど、イケメンでベスト・ドレッサーのヨッシーなら、何かやってくれるのと違うか」という、他力本願の淡い願望によるものなのでしょうが。しかし、その彼の過去と現在を見ると、かつて小泉・安倍自民党や前原民主党が実行に移して国民からノーを突きつけられた政治と、全く同じでしか無い。それは何も難しい知識が無くとも、政治の素人でも少し立ち止まって考えれば、直ぐに気が付きそうなものですが。しかし、現実は斯くの如しです。何故こうなるのかについては、次回以降の記事でも、もう少し考えてみたいと思います。
議員削減がそれなりの支持を得てしまう背景には,タレントだの2世・3世だのといった無能議員ばかりで何の役にもたたないという「実感」があるし,同様に公務員バッシングの背景には役所窓口での横柄な態度やたらい回しに対する反感と安定した地位と収入への嫉妬があるのだろうと思います。
新自由主義についても,日本社会の前近代的な集団主義,息苦しい同調圧力といったものを打破してくれるものという期待がかつてあったし,今もまだあるのではないでしょうか?(80年代,「フリーター」は会社人間,日本的共同体を脱した自由な存在として肯定的にとらえられていたのではなかったか?岩波,朝日のような「リベラル」なメディアが意外と新自由主義と親和性が高いのはこの辺に理由があるのではないか。)
なぜ「性懲りもなく」新自由主義が支持されるのか?国民が馬鹿だからとかメディアの影響とか言うのではなく,日本社会のより深い分析が必要だと思います。
そう、それなんですよ。私が言いたかったのは。だから、70年代には共産党や社民連を支持した事もあるような、どちらかといえば革新系の無党派の人(例えば私の兄貴)が、90年代後半ぐらいを境にして、小泉自民党や前原民主党(今ではみんなの党)に急速に靡いてしまったのです。他方で、そんな小泉や前原には胡散臭さを感じていた人も、新自由主義に対する感情的反発に止まり、その反動で逆に右翼的なもの(歴史修正主義)に惹かれる人も出てきました。その結果、新自由主義をリベラルと勘違いする一方で、復古反動を格差社会批判者として美化するような、両方の誤った見方が、世の中に相当程度広まってしまいました。
そこをどう乗り越えるかという事を、次かその次あたりの記事で、自分の体験とも絡めて、少し書こうと思っています。果たして、どこまで書けるか分かりませんが・・・。
ソ連東欧の体制崩壊は、ただ単にスターリン主義的な「社会主義」幻想を粉砕しただけでなく、左翼運動やマルクス主義に本来必要な未来展望をも曖昧化してしまったからこそ重大なのだと思いますよ。
旧ソ連東欧の国有国営型インチキ社会主義(=全体主義)が否定されても、それに替わるものが貧富の差別や公害垂れ流しの中国流「市場社会主義」だけしかないんじゃ、誰も左翼に深い信頼や支持なんて寄せないでしょ?
多くの人には、現在の左翼にせいぜい単なる批判勢力(=万年野党)としての存在価値しか感じられないんじゃないですか?
だからオレは繰り返し主張しているんです。
左翼は、直面する個別課題に対症療法的な処方箋を与えるだけじゃなく、自らがよって立つ立場の根本を再構築するべきだ、と。
「反資本主義」などという抽象的スローガンだけでは無意味・無効だと。
そういう主張を、未来社会の「青写真作り」だなどと揶揄、軽視して努力を放棄している限り、左翼に本当の未来はないでしょう。
「青写真作り」ではない、未来の芽が既にかなり提供されているのですからね。
>左翼は、直面する個別課題に対症療法的な処方箋を与えるだけじゃなく、自らがよって立つ立場の根本を再構築するべきだ(バッジさん)
ソ連東欧の崩壊→スターリン主義の崩壊と手放しで礼賛(日本共産党)、しかし民衆は、単にソ連東欧の姿だけでなく、中国の改革開放の現実(格差拡大・環境破壊・言論抑圧)をも目の当たりにする事で、社会主義や左翼的価値観そのものに疑いの目を向けるようになった、という事ですね。それを踏まえて、左翼理論の再構築(青写真作り)が求められている、と。
上記は左翼側にとっての「重大事態」ですが、これは単に左翼だけでなく、民衆にとっても「重大事態」ではないかと、つくづく思います。
何故ならば、「左翼運動やマルクス主義に本来必要な未来展望をも曖昧化してしまった」というのは、とどのつまり「社会科学的、唯物弁証法的な物の見方を放棄してしまった」という事でしょう。だから、世界的に見ても、従来の左派主導の解放理論に代わって、中東ではイスラム原理主義が、中国では法輪講のような新興宗教や迷信の類が、日本でもオウムやスピリチュアル・心霊ブームや得体の知れない陰謀論が興隆を極め、ニューヨークが米国の何処に在りアフリカが何の名前であるかも知らない、地動説や進化論も信じないバカが、堂々とネオコンの有力政治家に収まってしまう、日本でも石原や田母神みたいなのがチヤホヤされる、そんな世に中になってしまったのでしょう。
これだけを見ると、まるで中世が現代に復活してしまったようで、暗澹たる気分になってしまいます。まあ、そんな人は世界全体からすればまだまだ少数派(異端者)なので、そこで初めて少しホッとさせられるのですが。
そんな現状を一刻も早く打破しなければならないという意味でも、「自らがよって立つ立場の根本を再構築」すべき左翼の責任は重大だとも言えるのですが、果たして今の左翼にそこまでの力が備わっているかと問われたら・・・。
オレは、やはり「敵」は「みんな」じゃないかと思うんだけど・・・・
「みんな」は消費税問題でも、巧みに欠陥隠しをしているみたいですよね。
暴露と奪取、出来るだろうか???
また、新自由主義をはじめとする資本主義にしても、計画経済に見られる共産主義にしても、人間の「欲」をあまりにも軽んじており、どちらの思想も絵に描いた餅と言わざるを得ません。殆どの人間には欲があって当たり前。でもそれは放置しておくと際限無くなる傾向がある、という認識に立脚すれば、完全に個々の経済活動を抑え込むのも、野放図に放任するのもどちらも正しい選択ではないと思います。
ちなみにこの「みんなの党」は小さな政府を目指しているようですが、社会の機能のひとつとして、個人の能力では解決が困難な問題を、相互扶助という方法で解決し、支え合うというものがあります。
この格差が話題となる時代においても、能力・ポジションがあり、相応の収入を得られる人ならばあまり心配はないのですが、大半の人間は結構凡庸で中途半端で不安定な立場にいます。しかもその能力が実は学生時代の学習量と成績の評価の延長だったり、ポジションが社会人としてデビューする時の経済情勢に大きく影響されてしまう傾向が強いのがやっかいなところです。たまたまそれらを得られなかった凡庸で不安定な人間がいざ転落した時、仮に小さな政府で福祉基盤が脆弱な場合、再起が困難なばかりか、死と隣り合わせになる可能性さえあります。
庶民層にとっても「健全な」競争に勝つ為の力をつける努力は勿論必要なのですが、「健全な」競争自体が綺麗事だったり、経済のパイが増えない場合には、いくら力をつけても一定数の割合で脱落者が出ることになります。その脱落者を保護する福祉機能は、力のない彼らにとってある意味死活問題と言えるのですが、それらを破壊してしまっても良いのかどうか。
金があれば満足な福祉(サービス)を受けられるが、金がない場合には、それらを得るために競争に参加するか、「生きる」という事自体を天秤に掛けて生活する覚悟がいる世の中を、凡庸な庶民が望んでいるのかは正直疑問です。