チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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朝日新聞・廃刊の次は、NHKの解体が目標:人生の在り方。 不確実性

2014-09-16 23:52:55 | 悔いのない人生

 Y:Mさんとの木曽路月例会の中で面白かったのは、「論理と数字。」に関連して、中国進出もしている経営者の方の、科学的経営手法(論理)と統計数字を駆使すれば、経営問題を「想定内。」のものとして把握することができ、「賢明な経営判断。」をすることが可能であるという意見があるということについてでした。

  私は、「人生の在り方。」ということについては少しく考えますが、経営とか経済についてはよく分からずにいるのですよ…。

 けれども、人生というのは、自分の思うようにいかないことが、次々に起きてくるという『無常』(無情ではない)というのが『真理』(仕組み)だと思うのですよ。

  とすると、同じ人間が関わる『経営』の分野でも、思ったようにはいかないという「想定外。」のことが日常に発生するのではないかと思うのですがね~。

  K:そうですね~。 やることなすこと『裏目』になるという癖のある私にしてみれば、「想定外。」であることこそが、『想定』できるものだったということが、皮肉でありましたねえ。

 ゆで卵の坂東英二が、人生には3つの坂がある、「上り坂・下り坂そして真逆(坂・まさか)だ。」と言っていましたが、『脱税』で、芸能生活を棒に振ってしまいましたねえ…。

  このような「想定外。」(=思ってもいなかった・不測の)のことが起こることが、人生には、ままあるとも言えますね~。

 これを、フランク・ナイトは、アントラナシップ(起業家)の『利得』がなぜ発生するかを論じて、それはアンサートゥンティ(不確実性)への冒険を引き受けることだ、と言っているようですね…??

  ナイトが、「不確実性。」と名付けたのは、確率的にすら『予測』できないものとしてのクライシス(危機)のことにほかならないようなのですよ。

  そして、Mさんも、経営について「組織と『管理』。」の論文を執筆中と聞いていましたが、確率的に「形式(論理)と数量。」を明示して『予測』(プレディクト)できるのは、『危険』(リスク)だということのようですね。

  そして、同じく「形式(論理)と数量。」を示す形でのマネジメント(管理)を施すことが出来るのは、『危険』にかんしてであって、『危機』についてではないのでしょうねえ…。

  Y:ふ~む、経営のことはよく分からないけれど、『人生』は、「一寸先の見えない(分からない、『無常』―無情ではない)人間が、『運命』(自分の持つ良さを引き出す、生き抜く力・生命力)に手を引かれて歩く、巨大迷路のようなもの。」だとも言われていますねえ…。

   


2014年、世の流れは(良い方向に)大きく変わる…??:朝日がつぶれるとは思えない

2014-09-16 23:52:03 |  プロパガンダ・策謀

 「2014年、世の流れは(良い方向に)大きく変わる…。」と表されています。

  どのような変化が起こるものかと注目していたところ、チャンネル桜の継続・『街宣』活動(毎週火・金曜日正午)、「読まない、買わない、読ませない。」運動(Tシャツを作って、山手線一周)など・などの執拗な攻撃継続に、ついに「朝日新聞『炎上』。」となりました…。

  朝日崩壊に続いて、チャンネル桜の昨年の1万人訴訟で初めて敗訴したNHKの『解体』となれば、日本はアインシュタインの待望したごとく「世界の救世主。」として登場するものと考えました。

  ところが、友人たちには、次のような意見があります…。

  1、安保反対闘争、秘密保護法反対デモ、集団的自衛権反対騒動などを見ても、結局何も変わっていない…。

  飽きやすい日本人の性格から言っても、今回の朝日・W吉田問題も、一過性のものであり「世の流れが変わる…。」ことなどにはならないと思う…。

  2、天下の朝日新聞が倒産することなどありえない。

  今回の「捏造・謝罪問題。」などについては、社長以下の辞任はあるかもしれないが、優秀な社員もいることであり、新たな経営陣での「朝日再生。」となると思う…。

  マッカーサー司令部の命を受け、NHKと共に戦後レジューム体制のオピニオンリーダーとしての朝日新聞は、政官財、司法・大学などに確固たるネットワークを持っています…。

  このように戦後レジュームの象徴ともいえる朝日新聞の牙城は崩れないものと考える…。

  などというものであります。

  皆さんは、どう考えられますか…?  ご意見をお聞かせください!

 

 


チャンネル桜は、朝日廃刊の100万人署名運動を開始:PKシリーズ。 対症療法の過ち

2014-09-16 22:50:10 | ピンピン・コロリ

 近年、耐性菌の出現によって、抗生物質が効かない結果うが増加したり、SARS(重症急性呼吸器症候群)が世界各地で感染拡大をみせたりするなど、新たな感染症の脅威に対しては、楽観を許さない状況が生まれています。

  過去の歴史を振り返る限りでは、医学は抗生物質の発達に助けられ、人命を奪ってきた感染症の多くを克服しました。 

  又、麻酔薬の発達、無菌操作(手術の際に使用するピンセットなどの道具類、手術を行う部位、手術を行う手などの滅菌状態を保ち、病原体を患者に移さないようにすること)や手術法の進歩によって、医学や怪我ややけどなどの外傷に対しても威力を発揮してきました。

  現代医学の発達史の中では、薬が果たしてきた役割はあまりに大きなものがあります。 それゆえ、“病気は、薬で治す“という「方向性。」が医療の中で、自然に出来上がっていきました。

 皮肉なことに、薬に依存するこうした医療の在り方が、病気を治せない原因になっているのです。

  病気になって現れる痛みや発熱・かゆみなどの不快症状は、体が治るときに生ずる「治癒反応。」ですが、患者さんにとっては、辛く苦しいものにすぎません。

 また医師からも、こうした治癒反応は、悪玉としてみなされて、症状を薬で抑える「対症療法。」が行われます。

  これで、患者さんはいったん楽になりますが、治癒反応を抑えられた体は治るチャンスを失ってしまいます。

 その結果、病気の治りは悪くなり、さらに医薬を足していくという悪循環が始まるのです。

 対症療法は昔から行われていましたが、戦前は抗生物質や免疫抑制剤、抗ガン剤のような強い薬はありませんでした。

 作用の弱い役は効き目もそこそこで、治癒反応もさほど阻害されずにすぎました。 

  対症療法を行っても、治癒のプロセスをたどることが出来たのです。 現代医学は、薬学と二人三脚で歩みを進めてきました。

 消炎鎮痛剤、ステロイド剤、免疫抑制剤など、症状を劇的に改善できる薬が開発されるようになると、対症療法の世界も『一変』しました。

  これら作用の強い薬を使えば、激しい炎症『治癒反応』もたちどころにおさまります。

 不快な症状が治まると、患者さんは治ったような気になり、医師も治療がうまくいっているように錯覚し、ますます熱心に症状を抑え込むようになります。

  その結果、病気の治療は臓器ごとに分かれ、医師は個々の症状にだけ目が向いて、眼の前に現れている現象(症状)を「取り去る。」ことばかりにエネルギーを注ぎ込むようになります。

 ここに、次々と開発される作用の『強い』薬が加わって、対症療法に拍車がかかるというわけです。

  しかも、そこで使用される薬は、「交感神経。」の『緊張』を促すものがほとんどです。  

 これでは、体に「治って!」という方が、『無理』でしょう?

 

                             

 


朝日新聞、解体へ追撃:高い城壁で囲まれた、不潔で、非衛生的海外の都市

2014-09-16 07:08:32 | 日本の都市は世界一

 考えてみれば、中国から、中近東・西欧にいたる社会は、大多数の人間が、蛮族による皆殺しの恐怖によって、高い城壁で囲まれた、不潔で、非衛生的な都市に住むことを、強制されてきた歴史が、数千年続いた後、たかだか2、3百年だけ、城壁を取り払われた、出入り自由な都市に住んできたという、生い立ちなのであります。

  ふだんは、開明的な言辞を弄する欧米人が、『都市』問題となると、突然、先祖がえりをして、プラトンが夢見た、『哲人王』が、無知な大衆を、どこに住まわすかという議論でしかない、『都市』計画などという、しろものを振り回すのは、無理は無いのかもしれないのであります。

  そして、その都市計画を振り回す際に、錦の御旗になっているのが、城壁都市後遺症の、もうひとつの表れである、都市と郊外との間に、「はっきり分かる境界線が、ないこと。」に対する、漠然とした『不安』感であります。

  第2次世界大戦後の極度に混乱した世相の中で、ドサクサに紛れて、ロンドン周辺にグリーンベルトが導入されました。

 このグリーンベルトは、それでなくとも、凋落が続いていたロンドン周辺部の製造業に致命傷を与え、現代イギリス経済が、あまりにも過度に、金融業に依存するきっかけとなりました。

  だがこれもまた、先史時代から、中世末期までつづいた、ヨーロッパ都市民の籠城心理を反映しているだけなのであります。

 つまり、命をかけて、立て篭もるべき場所である都市と、その周辺の見殺しにしても良い連中が住んでいる場所との間には、一目で、分かる障壁がなければ不安だ、というわけであります。

  驚くべきことに、いまだに、欧米人の多くが、日本に来ると、例えば、ナリタ・エクスプレスや東海道新幹線の車窓から、風景を見ていて、「いったいどこまでが都市で、どこから郊外が始まるのか、分からない。」といった感想を口にするのです。

  もっと驚くべきことは、欧米と日本に違うところがあったら、つねに欧米は優れていて、日本は劣っている証拠だと信じている日本の『知識人』は、この漠然たる不安感が美的感覚の問題、しかも自分たち日本人より、優れた美的感覚を持った西欧人からの、「有り難い忠告。」だと、思い込んでいることであります。

 


『文化』とは、何か? 『文化』とは、「暮らしの立て方。」、『文明』の基礎

2014-09-16 05:28:11 | 日本文化

 文化は、英語のculture、ないし独語のKulturの訳語であります。

 

 独語のKulturには、『物質文明』に対する、『精神文化』という意味合いがあります。 一方、英語のカルチャーは、人々の『生活様式』(way of life)と定義されます。 ひらたく言えば、「暮らしの立て方。」であります。

 

 日本語で、文化という時には、両方の意味が、混在しているが、英語圏の文化の定義は、文化人類学(民族学)で、広範に使用され、国際的な普及度が高いのであります。

 

 近代『文明』と経済発展とは、一体のものとみなされているが、文化と経済とは、『対立』的に考えられがちだが、しかし、その考えは、浅薄であります。

 

 メセナ活動への理解が進み両者を、両立させる動きがあるが、メセナ活動は、企業による、芸術活動への援助なので、経済は、富を生み、文化は、富を使うという理解を、もっている人がいます。

 

 「文化は、金食い虫。」といって、はばからない、向きもあります。 又、数式は、文化論には適用しにくいが、経済学には、活用できるから、文化は、『非』合理的だが、経済は、合理的だという人もいます。

 

 ことは、そう単純ではありません。 経済は、生産と消費、供給と需要、販売と購入からなります。 しかし、いかに生産の合理化を追求し、供給ルートを押さえ、販売に力を入れても、人々が、消費せず、需要がなく、購入しなければ、経済活動になりません。

 

 消費は、経済活動であり、同時に、「生きる行為。」であります。 『消費』なくして、暮らしはありません。

 

 暮らしには、『スタイル』が、あります。 ライフスタイルであります。 ライフスタイルは、個性であり、人間のアイデンティティに、かかわることであります。 どのようなものを、どのように消費・需要・購入するかは、一律ではありません。 

 

 性別、年齢、社会的地位、用途、人格、好みなど、さまざまな要因に、左右されます。 これらは、量に還元できません。 人生の『質』にかかわることであります。

 

 海外で、物を売るには、その地域の暮らし(文化)に合ったものを、売らねばなりません。 それゆえ、市場調査が、不可欠になります。 市場調査とは、消費性向、需要動向、購入意欲を調べるものであり、『文化』調査といっても、よいものであります。

 

 生産は、消費のためにあり、供給は、需要を生むためにあり、販売は、購入に支えられます。 その点からすれば、生産・供給・販売は、消費・需要・購入に、『従属』するとすら、いえます。 言いかえれば、経済は、『文化』に従属します。

 

 あるいは、『経済』は、文化のしもべであり、文化の発展に、『奉仕』する活動といっても、よいでありましょう。 

 

 文化は、衣食住のように、目に見えるものと、価値観・制度などのように、目に見えないものとからなります。 アメリカ文化とは、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフのことであります。 ウェイ・オブ・ライフは、「生活様式。」と訳すのが、慣例ですが、個人レベルに即して、もっと単純に訳せば、「生き方。」であります。

 

 ライフスタイルと『同義』であります。 日本人一人ひとりの生き方(ライフスタイル)の集合が、日本文化(ジャパニーズ・ウェイ・オブ・ライフ)であります。 日本では、人々の暮らしや、一人ひとりの生き方に、花を添える、芸術・芸能・学問のみを、文化扱いしています。

 

 それは、誤りではないが、いかにも、『狭義』の文化理解であり、いわば、文化の『花』の部分だけを、見ているのであります。 花を『支え』ている、土壌・根・茎・葉にも、目配りがいります。 『生活』文化を、視野に入れなければなりません。

 

 日本人の生活様式ないし、暮らしの立て方が、日本文化なのでありますから。

 

 既述のように、文化には、「生活様式。」という定義があるが、文明には、文明論者の数だけ、定義があります。 そこで、まず、私なりに、文化と文明の区別に触れ、次いで、文化・文明の観点から、『経済』文明としての、近代社会の成立を、略述してみましょう。

 

 文化は、地球上のどの地域に住む人も持っています。 しかし、文明は、そうではありません。 地球上の一部の地域にしか、存在しなかったし、現にそうであります。 エーゲ海にギリシャ文明が、栄えたころのローは、文明とは、いえません。

 

 その後、ギリシャに代わって、ローマ帝国が、文明の担い手になりました。 あるいは、英国は、中世までは、文明ではありません。 やがて、19世紀に、世界の7つの海を、支配する大帝国になったとき、英国は、近代資本主義の覇者として、自他ともに認める、文明になりました。

 

 英国人が、『文明』という言葉を使い始めるのも19世紀であり、それ以前にはありません。 日本最初の文明論というべき、福沢諭吉の『文明論の概略』で参照された、英国人バックルの『英国文明史』が、書かれたのは、1857~61年、19世紀中葉に、大英帝国が、世界に君臨したときであります。

 

 英国の『衰退』とともに、人々は、文明としての大英帝国よりも、英国『文化』を語るようになります。 文化は、『遍在』するが、文明は、『偏在』するのであります。

 

 このように、ある地域の文化が、文明になります。 文化は、人々の暮らしがあるとことに、遍在するだけでなく、永続します。 一方、文明は、『興亡』するのです。 古い文明は、衰亡し、新しい文明が、隆盛します。

 

 それに応じて、文明地域は、移動します。 文明は、長続きするが、永続はしません。 文明の存在する地域には、必ず、その地域の『文化』があります。 文化が、文明の『基礎』であります。 それゆえ、文明を論じる際にも、文化を見据えて、置かなければならないのであります。

 

                 以上