『価値』とは、何が『良い』ことか、何が「良くない。」のか、それを『判定』する『規準』であり、精神の次元でそれぞれの人の生を安定させるものであります。
それは歴史的につくられ受け継がれてくるものであり、その国の『文化』の軸になるものであります。
そして、ある国の国民がどのような価値を『共有』しているかは、その国の「政治力。」や「経済力。」にも大きな影響を持ちます。
『価値』とは、通常は意識の下に隠されており、何か大事なことがあると思いだされたように『意識』の上に浮上してきますが、通常はその多くが『習慣』になっているものです。
だから、価値は「隠された文化。」と呼んでもいいでしょう。
ところで、戦後日本では、『価値』は黒板に板書でき、『憲法』という額縁に堂々と入っているのです。
たとえば第13条のように、《 すべての国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については…最大の尊重を必要とする 》
として、「生命、自由、幸福追求についての個人の権利。」が最大限の『価値』をもつとされているのですよ…。
そこへ第14条の「法の下での平等。」と第9条の「戦争放棄。」が加われば、戦後日本の「公式的な価値。」は明白です。
これを集約して、戦後日本の『価値』とは、個人の自由、民主主義(あるいは平等)、物的な幸福追求(物的豊かさの追求)、それに「平和主義。」といってよいでしょう。
しかし、これらは決して『価値』の基軸だと思わ『ない』理由があり、これは大きな論点であります。
戦後日本の中心的な価値は何か?と聞かれれば、多くの人は、自由・民主主義・平和主義・「経済発展。」と答えるでしょう。
ところが、民主主義も経済成長も自由も、先進諸国の中でも類を見ないほどに『実現』してしまったのです。
平和主義の方も、アメリカによる安全保障を意識しない限り、現実にかくも戦争から遠ざかった国はなかったのです…。
こうして戦後日本では、とくに『価値』を意識する必要もありませんでした。
「公式的な価値観。」に寄りかかって、自由の拡張、民主主義、経済成長、そして世界平和(グローバリズム)などと「能天気。」なことを言っておればよかったのです。