チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 日本国の基軸になる『価値』とは:参院選、NHK給与1800万円を糾弾する三宅博に投票を!

2016-07-04 07:14:26 | 民主主義
       <我々の社会(国)の基軸になる『価値』とは何か?>

 『価値』とは、何が『良い』ことか、何が「良くない。」のか、それを『判定』する『規準』であり、精神の次元でそれぞれの人の生を安定させるものであります。  

 それは歴史的につくられ受け継がれてくるものであり、その国の『文化』の軸になるものであります。

 そして、ある国の国民がどのような価値を『共有』しているかは、その国の「政治力。」や「経済力。」にも大きな影響を持ちます。

 『価値』とは、通常は意識の下に隠されており、何か大事なことがあると思いだされたように『意識』の上に浮上してきますが、通常はその多くが『習慣』になっているものです。

 だから、価値は「隠された文化。」と呼んでもいいでしょう。

 ところで、戦後日本では、『価値』は黒板に板書でき、『憲法』という額縁に堂々と入っているのです。

 たとえば第13条のように、《 すべての国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については…最大の尊重を必要とする 》

として、「生命、自由、幸福追求についての個人の権利。」が最大限の『価値』をもつとされているのですよ…。

 そこへ第14条の「法の下での平等。」と第9条の「戦争放棄。」が加われば、戦後日本の「公式的な価値。」は明白です。 

 これを集約して、戦後日本の『価値』とは、個人の自由、民主主義(あるいは平等)、物的な幸福追求(物的豊かさの追求)、それに「平和主義。」といってよいでしょう。

 しかし、これらは決して『価値』の基軸だと思わ『ない』理由があり、これは大きな論点であります。

 戦後日本の中心的な価値は何か?と聞かれれば、多くの人は、自由・民主主義・平和主義・「経済発展。」と答えるでしょう。

 ところが、民主主義も経済成長も自由も、先進諸国の中でも類を見ないほどに『実現』してしまったのです。

 平和主義の方も、アメリカによる安全保障を意識しない限り、現実にかくも戦争から遠ざかった国はなかったのです…。

 こうして戦後日本では、とくに『価値』を意識する必要もありませんでした。

 「公式的な価値観。」に寄りかかって、自由の拡張、民主主義、経済成長、そして世界平和(グローバリズム)などと「能天気。」なことを言っておればよかったのです。

 民主主義という無責任体制:チャンネル桜・瓦版、朝日廃刊のために購読中止の呼び掛けを

2016-05-02 15:21:20 | 民主主義
    <民主主義という名の「無責任。」体制>

 丸山真男は、「無責任の体系。」を述べ、これを戦前の日本を特徴づける構造だといいました。 そして『丸山理論』は、民主主義を確立して、『決断』と『責任』の主体を作ることが必要だとしました。

 民主主義とは、ようするに自分の頭で考え、自分の意志で決断し、その結果に対して責任をもつという政治だというのです。

 こうした自立した個人がつくる社会が「市民社会。」だったのです。

 ところが、民主主義が進展すれば、人々がいっそう決断と責任の意識を高め、模範的な「近代市民。」になるなどという根拠はどこにもありません。

 それどころか現代社会で様々な問題が複雑になればなるほど、人々は自分で確かな判断などできなくなります。

 そこで、自分で判断できなければどうするか? いうまでもなく『大勢』に従うほかないでしょう…。

 『大勢』に従うとはまた、状況を『読む』ということです。

 状況の動きに従うということです。 まさしく『空気』を読むことであり、“KY”は嫌われるのです。

 これは山本七平のいう『空気の支配』にほかならないというのです。 状況の動きを差配するものはその場の『空気』なのです。

 その状況で惹起しているある種の『情緒』が臨場感を持って、その場の『全体』を包括してしまうのです。

 ある与えられた状況の中で、ひとつの『空気』が絶対的に正しいものとみなされ、「(赤信号)みんなで渡れば、怖くない…。」という『民意』が形成されているという新たな「無責任の体制。」が、正義といわれる「民主主義。」の中において『再現』されているのではないでしょかね…!?

 佐伯啓思の理。『正義』の偽装:「国民主権。」:チャンネル桜・瓦版、成人病を治す専門医はいない

2015-11-21 17:38:12 | 民主主義

  <佐伯啓思の理(1)。『正義』の偽装:「国民主権。」という摩訶不思議>

 今日の日本の政治の動揺は、「民主主義。」や「国民主権。」や「個人の自由。」なる言葉をさしたる吟味もなく『正義』として唱えられた点にあると思われます。

 つまり、われわれは、本当に「信じてもいない。」ことを『正義』として『偽装』してきたのではないか?というのです…。

 まずは、「国民主権。」というとき、『国民』も『主権』も両者とも決して分りやすい言葉ではありません。

 『主権』のほうから言えば、この言葉に最初に明確な定義を与えたジャン・ポダンは、主権とは、「法の拘束を受けない、最高の権力である。」といいます…。 

 ところで、「民主主義」の原理は、「国民主権。」にあるとされています。

 イギリスの大思想家トーマス・ホッブスも、『主権』を、自らが法を生み出すことのできる絶対的権力と定義します。

 とすると、『国民』なるものが、定義上は、法の拘束を受けない絶対的な『権力』を持つことになる…。

 「法の拘束を受けない。」とは、『法』を自由に作り出しかえることが出来る、つまり「立法権。」を持つことであり、同時にこの権力を実行する「行政権。」も持つことになります。

 しかし、「国民主権。」の「民主主義。」では支配する者と支配される者の関係が明瞭でなく、支配する者も支配する者も同一の『国民』になるのであります…。

 そこで、ホッブスの「国家契約説。」であり、「君主主権。」の「王権神授説。」に代わる「主権者。」としての近代的な「主権国家。」の誕生となりました。

 主権者は絶対的権力を持ちますが、その役割は、あくまで人々の生命の安全保障にあり、社会秩序の確保であります…。

 つまり、「安全保障。」とは、対外的には外交・防衛であり、国内的には、法や警察力を動員した「社会秩序。」の維持ということになります。

 ところで、『国民』とは、あくまで『人々』なので、本来的に「自己利益。」を求めてお互いに相争っている、いわば『エゴ』の集まりでありますよ…。

 ここに、「国民主権。」という概念の危うさもあり、人々を主権者とみなすということは、人々が自己利益を目指して相互に争うように仕向けるということになります。

 「民主主義。」には、「多数派の専制。」や「衆愚政治。」という危うさを、常に『内在』することになります…。

 

 

 


 民主主義。良き民衆とは、庶民のこと:チャンネル桜・瓦版、日本株急落は一時的ではない理由

2015-09-07 23:51:38 | 民主主義

    <民主主義。良き民衆とは、庶民のこと>

  人間性には、理想『主義』に走って放縦・画一・偽善に陥る可能性があり、現実『主義』に固執して抑圧・差別・残酷に嵌まる可能性もあります。

 そして、理想と現実の平衡を目指すのが人間性の最も奥深い性質だとみなければなりません。 

 そうみなさなければ、「人間とは何か?」と考えることの意義が無くなってしまいます。

 個の平衡への意志は、具体的には、予測困難な『状況』のなかでの「生の実践。」として示されるのです。

 ということは、予測にかかわる(科学をはじめとする)合理的な分析では片がつかないということを意味します。

 ホセ・オルテガたちが(1930年代に)いったように、「人間は崖っ淵に立つ存在。」であるのです。

 つまり、「危機の綱渡り。」をなすように人間は運命づけられております。

 デインジャー(危機)に直面していればこそ、人間は必死に過去を回顧し、懸命に未来を展望するのです。

 しかもその回顧と展望は、アナリティカル(分析的)ではなく、シンセティカル(総合的)でなければなりません。

 視線を、ローカル(局所的)ではなく、グローバル(広域的)にしなければ、危機の綱渡りから転落すること必定でしょう。 

 だが、人間の総合力は高が知れています。

 状況における結論には時間の制約がありますので、悠長に総合作業をやっているわけにもいきません。

 自己の生き方についてのコンフィデンス(確信)や、他者との関係にかんするトラスト(信頼)が多少ともあってはじめて、この綱渡りが何とかかんとか捗るのです。 

 ここでは、そうした革新・信頼の貯蔵庫をさして、換言すれば「人間が精神の平衡を保つのに有益な歴史の英知の集積。」をさして、トラディッション(伝統)と呼んできました。

 マイケル・オークショットという保守思想の系譜のいわば最後の大立者が、第2次世界大戦後に、テクニカル・ナレッジ(技術知)ではなく、プラクティカル・ナレッジ(実践知)を重要視したのもこの文脈によってのことです。 

 「経験知にもとづく実践知。」、それを示唆してくれるのが『伝統』だということです。

 この種の知恵を有している人々をコモンマン(通常人あるいは『庶民』)というのではないでしょうか?

 『庶』は『諸』と同じで公の場では目立つことの少ない諸々の人々といったくらいの意味です。 

 そういう通常人のあいだに実践知がさりげなく共有(コモン)されているのです。 

 「さりげなく。」というのは、彼らの実践知が日常生活の中で、半ば無自覚に遂行されていることをさしています。

 その半ば無自覚的物に、自覚的な表現を与えるのが知識人の主たる任務だとすると、『伝統』が保守されるのは「通常人と知識人。」の連合においてだということになります。

               以上

 


 民主主義。時代を失った、現代:チャンネル桜・瓦版、沖縄、反政府闘争のシンボル

2015-08-17 05:38:51 | 民主主義

           <民主主義。時代を失った、現代>

 『時代』(エイジ)とは、異なった年齢層(エイジ)としての、さまざまな、世代(ジェネレーション)が、社会という、舞台に上がって、それぞれの『演技』をする、その仕方のことに、ほかなりません。

 しかし、『近代』(モダン)では、それが、『現代』(コンテンポラリー)という時代に入ると、なおさら、各世代が、こぞって、目前の「新模型。」、新流行に、呑み込まれていきます。

 それは、「新奇さ。」(ニューネス)の中で、出来するのが、現代人に、共通の快楽なのか、と思われる風景です。 

 そこでは、年齢の定義までもが、変わって、ニューネスに、急速に、なじむことが、出来る者、それが、『若者』ということになります。 

ニューネスに、飛びついて、若造りに成功した、60歳は、ヤングであり、ニューネスの前で、たじろぐ20歳の人間は、すでに、オールドだ、ということになります。 

 いずれにせよ、「年寄りじみた。」人間は、社会の片隅に、蟄居するほかないわけですから、老年、壮年、青年、さらには、少年、幼年の間の、「世代間交流。」というものが、失われます。

 それ、すなわち、時代感覚の蒸発ということです。 

 というより、社会から、無視されるという点で、目立つのは、ニューネスに、接近する能力を失った、「後期高齢者。」と、その能力を、まだ持たぬ、「幼年者。」の立場です。

 ファミリー(家族)という、世代間交流の本拠地が、すでに、瓦解しておりますので、後期高齢者は、『遺棄』され、幼年者は、『虐待』されます。 

 そうするしかないのが、現代の、成り行きです。

 どんな人間も、かっては、幼年者であったし、これから、どうあがいても、後期高齢者になるという、事実を、指摘してみても、全く無意味です。

 変化のフロー(一瞬の流れ)に、身をさらす者には、過去のその流れを、ストック(長きにわたる、累積)することがなかったので、『記憶』というものが、ないかのようです。 

 「記憶のない。」人間は、遠い未来を見渡すための展望台を、失っているに、等しいのですから、瞬間に生きるしかなくなります。

 彼らは、正確には、老人を遺棄したり、幼児を、虐待したりしているのでは、ありません。 

 彼らの視野に、老人や幼児のことが、「始めから、入っていない。」だけのことです。 過去も、未来もない人間は、「昨日から、今日への変化率。」という数字が、「今日から、明日への変化率。」としても、成立するだろう、とみなします。

 つまり、超短期の時間意識において、生きるのです。

 そんな、愚かしい予測は、もし、彼が、社会の少数派に、属しているのならば、彼をして、ただちに、社会の落後者に追い込むでしょう。 

 しかし、経済の(特に証券の)市場や政治の(特に、政権や政策への支持率の)世論を見れば、すぐわかるように、彼は、圧倒的な、多数派の一員なのです。

 彼ら、一人びとりの愚かしさが、寄せ集められて、その結果が、市場の崩壊や世論の錯誤として、現れるだけのこととなります。 

 その崩壊や修復や錯誤の修正は、議会や政府の責任であって、「多数派。」は、その責任を、ひたすらに追及していれば、良いということになります。

 家庭の崩壊や錯誤のことでいえば、社会という名の「他者の群れ。」の責任であって、自分は、社会に、不平不満を、述べれていれば、すむわけです。

 こういう人々を、『マス』(大衆)と呼ぶことについては、前に述べました。

 ここでの繋がりでいうと、大衆は、「変化率。」の数値という、それ以上は、単純化できない模型(モデル)に従って、生きるという点が、大事です。

 瞬時の変化に、没入する大衆は、実際に生じる、新しい数値の変化率を、「新模型。」と、見立てて、結局は、とめどなき、変化の流れの中を、『漂流』します。 

 ―経済学では、それが、マイオピック(近視眼的)な、「期待形成。」と呼ばれています。

 アダプティヴ(適応的)な、期待形成というものも、ありますが、それは、「実際に、生じた、出来事を、参照にして、期待を、少しずつ、修正していく。」ということに、すぎないのですから、似たようなものです―。

                以上