司馬遼太郎は、朝鮮に思い入れがあるのか?日本国のことを「わが国。」と言わず「この国。」(歴史随想全6巻)と他所から目線で『評論』していました。
これと同じことは、慶大同級生の中にも多く、「全くなっていない。」、「嘆かわしい。」、「しっかりしたエリートはいないのか?」「俺1人がやろうと思っても、無駄だからやらない。」と、これまた他所から目線で「観覧席。」の観客みたいに当事者意識がないのでありますよ…。
泡沫候補と言われた安倍晋三を総裁選に担ぎ出した救国の団体・チャンネル桜(サポーター2千人委員会に加入ください)の『草莽崛起』は、「私が『日本』なのだ。」という「当事者精神。」のそれでありますよ…。
自分はコートに立たず(手を汚さず)、「良い試合を期待している。」と高みの見物の「評論家。」は、御用達・TVコメンテーターと同様で「ちゃんちゃらモンブラン。」だと思うわけでありますよ。
(えつ!お前だって「何にもセンム。」じゃあないのか?ってですか!?? う~む、まじいなあ~)
ということで、別ブログに、<西部邁師の論:評論(critique)とは、高みの見物>と<司馬史観>をアップしておきますから、何かコメントをお願い致します…。