現代では、文明の進歩なるものは「民主主義。」の普及度によって測られております。
そしてその民主主義こそが「いじめ。」の元凶となっていると考えられるのです。
民主主義の本質は「人は生まれながらにして平等である。」とする平等主義(エガリテリアニズム)にあり、としておきましょう。
225年前のフランス革命における人権宣言にあってすら「人の能力は平等に非ず。」と確認されていました。
ところが、戦後日本の(いわゆる日教組教育における)平等主義は、「人間の能力の等級を明示してはならぬ。」という方向を強く打ち出してきたのです。
その傾向を促進したのは、ヒューマニズム(人間性なるものを礼賛する思想)にほかなりません。
その思想は、人間性を『性善』と規定する説のことです。 性善説に立つ以上、人々の能力を明確に区別するのは不適当だ、とみなされるのは致し方ありません。
しかし、集団の意思決定は「多数決。」で行われます。 それが民主主義の『方法』ということです。
そして多数決とは少数者の意思を排除すること以外の何ものでもありません。に関する性善説と集団における多数決とを組み合わせると何が起こるでしょうか?
「排除される少数者は、人間性に悖る。」とみなされがちとなります。 「少数者は人間の名に値するような存在ではない。」と、多数者が半ば無自覚のうちに認定するのです。
平等主義における人間性の全面肯定(性善説)が民主主義における人間性の部分的否定(多数決)を生み出し、この少数者排除が少数者内部での人間性の全面的否定(「いじめ。」の暴走)をもたらす、という回路があるに違いないのです。