『日本文明』(日本精神・日本文化)の「優位性。」の確認ができることであります。
さらに、「近代文明。」(イコール「西洋文明。」)は、1974年に『終結』しており、以後、「IT(情報)化・金融化。」(新自由主義)で、『延命』を図ってきたが、これも、『欧州ソブリン・バブル破綻』という、終末の現状となっています。
(56)、その中で、日本は、いち早く、『ポスト近代(ポスト・モダン)』を成し終えて、「真の庶民社会。」を『樹立』しているという、理解にあります。
(57)、<世界の中の、日本人(2)。>は、先ず、◇、「近代化。」と「型式化。」について述べています。
モダ二ゼーション(modernization)のことを、日本では、「近代化。」と言っています。 「近代化。」とは、社会の中から、旧い、非合理なものを取り除き、新しい、『合理』的なものを、取り入れていくことです。
すなわち、『合理』主義と、『技術』主義による、社会の「『効率』化。」を志向しての、一連の動きを、「近代化。」というわけです。
だが、それだけでは、モダニゼーションの意味は、今一つ、完全とは言えません。
それは、文字通り、「モダーン化。」すること、つまり今まで、社会や生活の中に、隠されていたことを、表に現す、つまり「現在化。」、「ナウ化。」することであります。
たとえば、今まで、「変なこと、常識にないこと、インフォーマルなこと。」と見なされていたことが、あるときから、「変でない、常識的、フォーマルなこと。」として、世間に、公認され、通用するようになることが、世の中には多いのですが、そういう現象を「モダーン化。」というわけです。
(58)◇、「近代化。」批判とは、「現代化。」のこと
モダーン化ということを、そういう意味で捉えると、それは、「近代化。」でなく、「現代化。」ということになります。
ここで、大事なことは、いわゆる『モダニゼーション』には、「現代化。」と「近代化。」の2つの意味があることを、確認しておくことです。
そして、前者(現代化)の意味が、基本であって、後者(近代化)の意味は、2次的であるということを、はっきり、させておく、必要があるということが、大切なのです。 そうでないと、所謂日本の「近代化。」のメリット、デメリットの分析や、批判の方向性が、つかめなくなるからです。
いわゆる「近代化。」の批判は、単に、批判のための批判であっては、ならない。 そのうらには、「現代化。」という意味での、正しい「モダーン化。」の意識が、働いていなければならないのです。
プラトンの「宇宙(神)の力。」とか、アリストテレスの『魂』(生命論)から始まって、『南方(みなかた)曼荼羅』(南方熊楠)の「因果と縁。」、宇宙(大きな魂)の「分魂が、肉体にやどって、生命になる。」という考え…。
さらに、「輪廻転生。」、「いや、仏陀は、死ねば、何もないといっている。」とか、キリスト教の「人間は、神によって、生命を、吹き込まれたもの。」とか…、各論があり、閑な、私にも、まったく、分かりません…。
いずれにしても、「今を生きている。」という、「有り・難い。」事実、そして、今や、「生きているだけで、丸儲け。」という、いい加減さであります。
「悔いなき人生を、送る。」ための、「この世の仕組み。」(生きる知恵)があるというので、これを、「ポレポレ。」と尋ねながら、とりあえずは「今を、しっかりと、過ごすのかなあ…。」といったところです。
私は、かねて、「いい人生ですね…。」と人からいわれたらいいなと、思っていました。
ところで、先日のクロアティア・イストラ半島の周遊ツアーでは、同行になった人から、10日間の間、毎日、「いいわね、いいわね…。」と言われたのは、『意外』なことではありました。
まあ、私の友人たちのように「もう難しいことは、たくさんだ。 余生を、のんびりと過ごしたい…。」という意見に、賛成しています。
そして、その終日の時にあたって、「いろいろなことがあったけれど、まあ、自分の人生とは、そんなものだったんだろうなあ。」と、それなりに、『納得』できる人生であれば、それこそ、「丸儲けだ…。」と、相変わらずの、「損得計算。」であります。
若くて、これからの大いなる、可能性を持つ、あなたから、閑ではあるが、余命少ない私に、大切な「生命。」について、考える、機会を頂けたことに、感謝であります。
また、ぜひ、「ふ~む。 そうなのかあ。 どれどれ…。」と、ごそごそと、山積みした中から、何か、引っ張り出そうかな、というような、いつもの、あなたの意見を、愉しみに、お待ちしております。
参院選大勝利の核心的戦略目的達成の「アベノマジック。」だったが、そろそろ「景気失速。」をどう乗り越えるかの課題(正念場)に差しかかっています…。
「3本の矢。」というプラセボ(偽薬)である違法ハーブ(みんなで渡れば、怖くない…)の「インフレ期待。」景気に成功したまではいいが、財務省の口車に乗っての消費税引き上げは案の定(『想定』通りの)景気『失速』となってきています…。
「持ち直す。」はずだった、7月の家計消費支出(マイナス5.9%)は逆に前月(マイナス3.0%)より『悪化』し、生産の水準も事前の予想を下回った…。
生産が下落するのも当然で、消費税プラス3.0%分を考えれば、消費実数はマイナス『5.9%』の大幅落ち込みとなるわけで生産指数の悪化となります…。
政府や御用メディア・御用学者の景気持ち直しのプロパガンダ(世論誘導)により生産ベースを上げたものが、「在庫積み増し。」となっています。
さらに、輸出不振のせいで1.1%のプラスだった外需の押し上げ効果分を引くと、実質的には『16%』のマイナスと、背筋がぞっとする数字になるらしいのです…。
さあ、大変…! 「戦後レジューム。」からの脱却、「瑞穂の国・日本。」を取り戻すことを『希求』する私にとっての頼みの希望の星である「安倍内閣。」は、国内、自民党内でも極めて「『少数』勢力。」なのであります。
その「安倍内閣。」の頼みの綱である景気回復をもたらしている「アベノマジック。」がネタバレになりそうなピンチにあります…。
となれば、「ねずみ講。」そのものではありますが「日経株式(日経ダウ)。」の下落を何としても『阻止』する必要があります…。
そこで、違法性が高いとは言いながら、PKO(価格維持操作)としての「GPIF。」(年金積立金管理運用独立行政法人)の日本株投資、「NISA。」(少額投資非課税制度)の拡充、さらに明らかな名義貸し(違法でしょう)であるNISA子ども版創設、孫・子名義で投資 金融資産の世代間移転促進へ・・・大人版も18歳に引下げ若年層に投資を促すという離れ業が登場しているわけであります…。
皆さんも、是非とも『国益』のために「みんなで渡れば、怖くない…。」ということで、日経の「戻り相場。」へ参加いただけますよう、お願い申し上げま~す!!
つたやで『リーガル・ハイ』(堺雅人主演)を借りてきて見られたとのことですね…。 『民意』『世間常識』に対して、法廷で勝つことのみを目標に対抗する内容で、山本七平さんの『空気の研究』を思い浮かべたとのことです。
『空気の研究』とは、懐かしいですね…。 触発されて、何か書いてみましょう…。
丸山真男は、「無責任の体系。」を述べ、これを戦前の日本を特徴づける構造だといいました。 そして『丸山理論』は、民主主義を確立して、『決断』と『責任』の主体を作ることが必要だとしました。
民主主義とは、ようするに自分の頭で考え、自分の意志で決断し、その結果に対して責任をもつという政治だというのです。
こうした自立した個人がつくる社会が「市民社会。」だったのです。
ところが、民主主義が進展すれば、人々がいっそう決断と責任の意識を高め、模範的な「近代市民。」になるなどという根拠はどこにもありません。
それどころか現代社会で様々な問題が複雑になればなるほど、人々は自分で確かな判断などできなくなります。
そこで、自分で判断できなければどうするか? いうまでもなく『大勢』に従うほかないでしょう…。
『大勢』に従うとはまた、状況を『読む』ということです。
状況の動きに従うということです。 まさしく『空気』を読むことであり、“KY”は嫌われるのです。
これは山本七平のいう『空気の支配』にほかならないというのです。 状況の動きを差配するものはその場の『空気』なのです。
その状況で惹起しているある種の『情緒』が臨場感を持って、その場の『全体』を包括してしまうのです。
ある与えられた状況の中で、ひとつの『空気』が絶対的に正しいものとみなされ、「(赤信号)みんなで渡れば、怖くない…。」という『民意』が形成されているという新たな「無責任の体制。」が、正義といわれる「民主主義。」の中において『再現』されているのではないでしょかね…!?
<『無心』という生き方。 日本的霊性の自覚>
「ちょっとここに、君の命を出してみてよ。」と言われても、誰も、返答に困るだろう。 「此処に、こうして生きている。 それが、命あることの証(あかし)じゃないか?」という、ほかにない。
ところが、達磨禅師は、更に訊くのだ。 「それは、君が、頭で思った、観念を語っただけだ。 命そのものを、出して見せたわけではない。 命は、いったい、どんな姿かたちをしているのか?」と。
もし、「命に、姿かたちはない。」と答えたなら、また、「命の重さは、どうか?」と訊くだろう。 自分の体重を、答えたなら、すぐに、「それは、君の肉体の重さであって、命の重さではない。」と責めるに違ない。
そこで、もう、大抵の人は、行き詰る。 かって、「命の尊さは、地球より重い。」と言った、総理大臣があった。 この地球という環境を離れては、存在しえない命であることを、まったく忘れて、かれも、頭の中だけの観念で言った。 (中略)
しかも、その命が、亡くなることを、我々ほど、怖れている者もないのである。 それなのに、なぜ、こんなに、大事で、尊いものを、はっきり見ることが、できないのだろう。
慧可が、達磨から、「その不安な心を、出してみよ。 汝の心を、落ち着かせてやろうほどに。」と言われたときも、「その命を、出してみよ。」と、問われたのと、同じ状況だった。 何としても、明確に見ることができない。 (中略)
されば、我々が、安心を願うのは、誰の心にも、確かな安らぎが、備わっているからに違いなかった。
そこで、すっかり行き詰って、ついに言った。 「不安な心を探してみましたが、どこにも、見つかりません。」。
すると、達磨が、答えた。 「不安が、見つからないなら、わしは、汝の心を、落ち着かせたのだ。」。
その一言で、慧可は、「ハッ。」と悟った。 急に、安心の心の根本が、納得されたのだ。 (??)
◇、清く、明らかな心
なにを、どう、悟ったのだろうか? 慧可は、そのとき、達磨に言った。 「いま、始めて知りました。 こころは、本当は、空っぽで、一念も生じることがない、静寂なものでした。
だから、海のように、知恵が、湧き出て、尽きることがないのですね。」
達磨が、答えた。 「その通りだ、その通りだよ。」と。
人生の不安と安心について、悩んだことがないものには、さっぱりわからない話だと思う。
(誰か、わかりました~?) 「禅など、やる者は、こんな馬鹿なことを言いあって、一体何の得があるのか?」というかもしれない。
日本人が、本来もってきた、清明で、素朴な心が、鎌倉時代に、禅思想の影響を受けて、深まり、日本的霊性の自覚として、開花されたのだとは、「ZEN。」を世界に伝えたことで、知られる、鈴木大拙博士の主張である。
外来の密教や禅や浄土教の思想に出会ったことで、始めて、日本人は、自己を、哲学的に見出したのである。 (う~む。 なにも、見出せないぞ…。)