チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 都市再生の2つの視点:チャンネル桜・瓦版、”肉食信仰は、”食品産業と軍国主義(ドイツ・フォイト)が、でっち上げた

2016-08-17 16:57:55 | 公共心

      <都市再生に、新たな2つの視点>

 高度成長以来、日本のまちは、中心部から郊外へ、無秩序・無計画に拡散していく、スプロール現象が続いてきました。

 この結果、シャッター通りに象徴される、既存市街地の衰退、高齢化に伴う交通弱者の増加、環境破壊や公共インフラ整備・維持の財政負担増などの問題が、発生しました。

 これに対して、スプロール化を抑制して、市街地の規模を小さく保ち、徒歩生活圏を作ることで、市街地を活性化し、住みやすいコミュニティを作ることを目指す、コンパクトシティの発想が生まれました。

 今、このコンパクトシティに、新たに、2つの視点を付け加える必要があります。 

 第1は、言うまでもなく、スマートシティの視点であります。

 電力・エネルギーや閑居追う問題に対処するために、電気だけでなく、その他のエネルギーや水、通信、交通、建物、行政サービスなどの公共インフラ全体を垂直『統合』して、運用の効率化を図る必要があります。 

 これによって、都市の持続的成長を促し、市場や雇用を創出することが、できるのであります。

 とくに、大都市にとって、今後、急速に老朽化する公共インフラを、いかに円滑に更新し、効率的に運用するか、その鍵を握るのが、IT(情報技術)や通信を活用した、スマートシティの『制度』設計であります。

 第2は、医療、介護・福祉インフラの再配置であります。

 高齢化する、都市住民の生活の質を維持するために、欠かせない視点であります。

 もちろん、コンパクトシティには、高齢者に配慮した、まちづくりの思想が、盛り込まれているが、これからは、医療、介護・福祉施設インフラを再配置あるいは、集積し、交通インフラや高齢者の居住施設と連携させていく、まちづくりがもとめられます。

 ただし、施設の再配置やインフラの連携というのは、なんでも箱モノ中心の発想であります。

 利用者サイドに立った、医療、福祉サービスを提供していくには、箱モノだけではなく、医療や介護サービスの供給者間の連携や再編、あるいは、それを促すための制度設計、仕組みづくりが欠かせません。

 政府は、社会保障と税制の一体改革で、地域包括ケアシステムの構築を打ち出しているが、これをどう具体化させていくかが、今後の街づくりの課題の、ひとつになります。  

 これからはのまちづくりでは、IT・エネルギー技術者や医療・福祉関係者が参画し、箱モノだけでなく、制度や仕組みをどう設計していくがが、問われることになりましょう。

 


 地方創生:チャンネル桜・瓦版、反日『ドイツ帝国』が、世界を破滅させる

2015-07-02 00:01:30 | 公共心

            <地方創生>

  地方格差があるとすれば(教育により、どのようにするのかは、別途教えていただくとして…)、この状況をどのようにすればいいのでありましょうか? 

 私は、国防の見地からも、地方に居住する方への手当は、当然国家としての全日本的なあり方の「目配り。」を、中央政府が『塩梅』することは不可欠だと思うのです。

 従って、「個人ありき、国民でなく市民だ。」などと言っていた鳩ポッポみたいなのは、「菅(かん・勘)違い。」も甚だしいと思っているのです。

 やはり、中央政権(大、もしくは中規模政府)で、全日本的な(オールジャパンの)「目配り・手配り。」をする必要があると考えます。

 『住民』(inhabitant)とは、その源意からも、「その場にとどまる人。」を意味しますが、しかし左様に過酷な地方に、留まるか否かの選択はその方に任されている部分もあると思うのですよ…。

         <未完>


 地方創生は、なぜ『空語』となるのか?:チャンネル桜・瓦版、世界を戦争に導くグローバリズム

2015-04-10 14:39:35 | 公共心

    <地方創生は、なぜ『空語』となるのか?>

  今日、平均的日本人の暮らしはアッフルエンス(豊かさ)に満ちているとみざるをえない。

  だが、パブリック・ウォント(公的需要)となると、依然として「未充足。」である…。

  好むと好まざるとにかかわらず、中央および地方の公共機関が『規制』を以て介入するほかないのが公的な財・サービスの需要と供給なのである。

  そういうことなら、「公共的、地域的そして具体的。」な施策を立案・遂行するための「組織作り。」、それこそが地域創生の柱となる…。

  その健全性の基準は「地域住民に歴史的に形成され来った『良識』。」のほかには何もない。

  そうした『良識』をかっては(世論・せろんではなく)『輿論』(よろん)と呼んでいた。

  地域の『輿論』に逆らうような政治家は、選挙を通じて、地位を剥奪されるのである…。

  それもそのはず、『輿』というのは、元来が「荷車の台。」のことであり、それが「社会の土台。」にいる『庶民』のことを表し、そして、物事の大まかな枠組みと方向については庶民の常識に拠るべし、というのがデモクラシーの『本義』なのである

           

 


 過疎化は政策で「解決できる。」ことではない:チャンネル桜・瓦版、朝日廃刊の追撃を進めよう!

2015-03-09 04:18:29 | 公共心

  <過疎化は政策で「解決できる。」ことではない>

 農村、漁村、林業などを主産業とする村は、人口集中する必要とする仕事がない。

  チャンスがないと思えば出ていくだろう。 そして、放っておけば出ていく人たちを引き留めるために人為的に作り出した仕事は、先ずきちんと賃金を払って企業として成立するものにはならない。

  そんな可能性があったら、目端の利いた私企業がとっくに昔にやっていたはずなのだ…。

  農林漁山村については、人が少なくなったら、その分だけ自分一人で耕せる土地が増える、自分一人で支配できる漁場が拡大する、自分一人で木を切れる林が拡大するなど、メリットがあると思う人が残ればいいのではないか?

  農林水産業に従事していて、しかも近隣に賑わいのある都市や街を維持したいというのは、かなり贅沢な要求だ…。

  できれば素晴らしいが、そう簡単に達成できるような目標ではない。

  出来るかできないかは当人たちの努力や「創意工夫。」の問題であって、政府が『政策』でつくてやれることの『範囲』をはるかに超えている。

 

 

 


 <道徳。 公民の価値>:チャンネル桜・瓦版、朝日糾弾原告団に、是非ご参加くださいを!

2015-01-10 19:33:41 | 公共心
   <道徳。 公民の価値>

 自分の(言葉をめぐる)保守性を自覚している保守主義者と、それを自覚することのできない進歩主義者がいる。

 「これみよがし。」であるのは、後者であって、彼らの楽しげな『慣習』破壊によって、慣習的な言葉づかいのうちに含まれていたコモンセンスが、いいかえれば、伝統の精神、無残に傷つけられていった。

 つまり、進歩主義者には、自分の表現の前提・枠組み・方向を良識につなぎとめてくれている『伝統』に攻撃を仕掛けるという点で、自殺狂の癖があるのである。

 バランス感覚を失っている知識人を目にする。

 現代のような不断に変化しゆく社会にあって、道徳論は、2つの方向で難関にぶつかる。

 という折、それらの難関は、道徳論に、一般的につきまとうものなのだが、その難度が、現代にあって幾重にも拡大するということである。
 
 1つには、慣習体系が、動揺する現代において、慣習という制度的実体に内蔵されている伝統(精神の平衡術に関する歴史的英知)という精神的形式を、『解釈』によって、取り出す作業が、複雑にならざるをえない。

 例えば、長幼の序の慣習が、安定化しているなら、人生経験というものによって、形成される徳の力について、ことさらの解釈を加える必要はない。

 あの事実をみよ、といっておけば、大概のものが、伝統の何たるかを了解するからである。

 しかし、長幼の序を壊すことが、自主的精神の発揮としてもてはやせる現代にあっては、人生経験と伝統習得のかかわりを解釈しようとすると、言語学やら社会学、あるいは心理学やら認識論といった、さまざまな知見を動員せざるをえなくなるわけだ。

 または、長幼の無秩序が、もたらした出来事について多面多層の解釈を加えなければならなくなる。

 それが、面倒で、戦後的腐儒でありつづけるのは、たしかに解釈を加えなければならなくなる。

 「思考の節約。」ではある。 しかし、その結果として、思考が爛れるのは、眼に見えているのであるから、伝統とは何か、についての長い解釈学的な論及を避けて通るわけにはいかないのである。

 2つに道徳は、状況に応じて、異なった現れ方をする。

 例えば長幼の序が、具体的にどうであるべきかは、その年長者が、謙虚であるか傲慢であるか、その若年者が勇敢であるか臆病であるかなどに依存して、様々に変わりうる。
 
 つまり道徳をいささかでも、具体的に語ろうとすると『状況』の具体的様相についても、描写しなければならないわけだ。

 その状況が、現代にあって、錯雑になり転変しつづけている。

 だから、文化、政治、経済そして社会の諸相について、さらには、それらにおける過去への遡及と未来への展望について、その状況をいかに解釈するかということと、道徳論とが密着不可分だということになる。

 何らかの(社会的な)価値を背負って生きる人間を『公民』と呼ぶならば、国民の道徳とは、「公民の価値。」だといってさしつかえない。
 自分の(言葉をめぐる)保守性を自覚している保守主義者と、それを自覚することのできない進歩主義者がいる。

 「これみよがし。」であるのは、後者であって、彼らの楽しげな『慣習』破壊によって、慣習的な言葉づかいのうちに含まれていたコモンセンスが、いいかえれば、伝統の精神、無残に傷つけられていった。

 つまり、進歩主義者には、自分の表現の前提・枠組み・方向を良識につなぎとめてくれている『伝統』に攻撃を仕掛けるという点で、自殺狂の癖があるのである。

 バランス感覚を失っている知識人を目にする。

 現代のような不断に変化しゆく社会にあって、道徳論は、2つの方向で難関にぶつかる。

 という折、それらの難関は、道徳論に、一般的につきまとうものなのだが、その難度が、現代にあって幾重にも拡大するということである。
 
 1つには、慣習体系が、動揺する現代において、慣習という制度的実体に内蔵されている伝統(精神の平衡術に関する歴史的英知)という精神的形式を、『解釈』によって、取り出す作業が、複雑にならざるをえない。

 例えば、長幼の序の慣習が、安定化しているなら、人生経験というものによって、形成される徳の力について、ことさらの解釈を加える必要はない。

 あの事実をみよ、といっておけば、大概のものが、伝統の何たるかを了解するからである。

 しかし、長幼の序を壊すことが、自主的精神の発揮としてもてはやせる現代にあっては、人生経験と伝統習得のかかわりを解釈しようとすると、言語学やら社会学、あるいは心理学やら認識論といった、さまざまな知見を動員せざるをえなくなるわけだ。

 または、長幼の無秩序が、もたらした出来事について多面多層の解釈を加えなければならなくなる。

 それが、面倒で、戦後的腐儒でありつづけるのは、たしかに解釈を加えなければならなくなる。

 「思考の節約。」ではある。 しかし、その結果として、思考が爛れるのは、眼に見えているのであるから、伝統とは何か、についての長い解釈学的な論及を避けて通るわけにはいかないのである。

 2つに道徳は、状況に応じて、異なった現れ方をする。

 例えば長幼の序が、具体的にどうであるべきかは、その年長者が、謙虚であるか傲慢であるか、その若年者が勇敢であるか臆病であるかなどに依存して、様々に変わりうる。
 
 つまり道徳をいささかでも、具体的に語ろうとすると『状況』の具体的様相についても、描写しなければならないわけだ。

 その状況が、現代にあって、錯雑になり転変しつづけている。

 だから、文化、政治、経済そして社会の諸相について、さらには、それらにおける過去への遡及と未来への展望について、その状況をいかに解釈するかということと、道徳論とが密着不可分だということになる。

 何らかの(社会的な)価値を背負って生きる人間を『公民』と呼ぶならば、国民の道徳とは、「公民の価値。」だといってさしつかえない。