チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 死生論:チャンネル桜・瓦版、教えられてきた『世界史』は、国際金融資本家(グローバリスト)に都合の良いストーリーに過ぎない!

2016-10-19 12:32:23 | 哲学

      <死生論>

  先日、『源氏物語・新訳』シリーズを執筆した林望(りんぼう)さんの講演を聞いたときに、アルフォンス・デーケン先生を推奨されていたのです。

 ということで、今回は、『死生論』についてであります…。 

 (1)、P・アリエスの死についの著作、『死と歴史』に、【 前近代にあっては、家庭をはじめとする、身近の人間関係の内に、抱え込まれていた「死」が、近代社会の訪れとともに、忌み嫌われるようになり、それにつれて、死にゆく者たちが、病院の中に、隔離されるようになった。】

 と説明されている。

 そういう整理の仕方は、間違ってはいないが、古代においても、中世においても、死というものは、いかにも、不可思議な、説明あたわずの出来事、だったのであるから、それだけでも、死というものを、忌わしく思う、気持ちを拭うことは、できなかったのではないか?

 とはいえ、そういういまわしいものに、向かって進んでいるものとしての、『生』を肯定せざるを、得ないわけだから、というより、生がなければ、死もありえないわけであるから、生の肯定に引きずられる形での、「死の肯定的な、抱え込み。」というものが、あったであろう。 

 死後の世界を想定したり、死者の黄泉がえりを、想像したりするということである。

 つまり、死を拒否するか、受容するかの「二者択一。」だはなく、死を意味すると同時に、迎えるという「両面性。」から、人間は、離れられないのであり、その点においては、前近代と近代に、基本的な差はないのだ。

  (2)、バラモンの徒は、「輪廻転生。」を、信じています。(これはリサイクル理論であります。)  

 次に、キリスト教では、死んだ後、もう一度、「再度の審判。」があり、「二度死ねる。」といいます。

 そして、天国か地獄行きが、決まり、戻ってこない、「一方通行。」であります。(キリストは、復活できます。)

  「御釈迦さんは、死んだら、極楽とか無いと、言っているよ。」とM・N(元・中之島支店長)さんは、言ってました。


 西田幾太郎。座禅:20億年前、ミトコンドリアが人間の体に入ってきて、具合がいいから細胞内に共生するようになった

2016-10-15 22:31:53 | 哲学

      <西田幾太郎。座禅>

 座禅とは、存在が無から坐りなおすことです。

 直立二足をもっぱらとして文明文化を築いた歴史を、直ちに短絡ないしは終局させる。

 世界も存在も恋も男も、山も両親も音楽も、坐り込んだら何もない。

  しかし、座禅には座禅なら立ち上がる『出定』というものがあります。

 座禅が座禅のままであるなら、それはただのめいそうじょうたいになってしまう。 だから、どこかでガバっと立ち上がる。

 そして日常の作務をする。

 そしてまた迷って坐る。 

 こうしてしだいに結跏も出定も身についていくのです。 

 西田はこれに賭けました。

 不働の座禅が立ち上がったまま、そのままの形で哲学ができないかと観じたのです。 

 しかもヨーロッパ哲学の優れた論理や概念を取り込んで、そこへ『無』の哲学を持ち込めないかと考えた。

 片っ端から哲学書を読んでいます…。 

 そんなにしだが、(善の研究)を書く直前の明治40年、次女と五女をあいついで亡くしました。 これ禅機となり、覚悟になります。

 「名刹を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一尺の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋に日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた。」と『思索と体験』に書いている。

 さらに、次のように加えました。

 「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壷中の白骨となると云うのは、如何なる訳であろうか? 

 もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。   

 ここには深き意味がなくてはならぬ。」

 人生は、矛盾と葛藤の連続です。

 空海は「生まれ生まれて、死の初めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わり暮らし。」と言った。

 自分にそんなものが渦巻いているのも、日本にそんなものが渦巻いているのも当たり前。 

 そこで西田は、その矛盾と葛藤の只中に「疑うに疑いようのない、直接の知識。」を見る気になります。

 人間にとって疑うことのできない確実なものとは何でしょうか?

 『自然』でしょうか? 『運動』でしょうか? 『真理』でしょうか?

 普通は、外界の事物や現象は我々の感覚や意識とは独立して確実に存在しているように思われます。

 主観がどうあれ、そういう客観的なものは実在しているように見えます。

 しかし、西田は、それだって疑おうと思えば、いくらでも疑えると考えた。

 だいたいそれらを実感している我々の感覚や知覚の実在性が、つきとめられない。

 そこで西田は、自分の主観と客観がまだわかれる以前の、又知・情・意の区別もまったくない「純粋経験。」というものを想定してみるのです。

 それゆえ『善の研究』の冒頭には、まずは「色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない。」と書きました。

 主客は同時とみたののです。

 これを侘数寄の茶の心に通じます。 

 道元の「朕兆未萌の自己。」にも通じます。

 「自己が生まれる以前のもの。」という意味です。

 道元の言葉通り、主客がそこにあったと言っても、その主客がいまだ分かれぬ以前をこそ、禅も茶も面白がったのです。 

 西田もそのことを哲学用語を駆使して、うんうん考え込みました。


 『知性』:チャンネル桜・瓦版、次期政権が、トランプでもヒラリーでも、金融政策主導・FRB主導が終わった!

2016-10-03 01:37:42 | 哲学

   <『知性』そのものを、メンタル・ワークの一つとして、まともにとらえ直す、必要があるのに>

 『知性』が、『意志』によって、働くものであることは、ショーペンハウエルやニーチェを待たずとも、当然のことである。

 だからといって、そんなものは、つまらないといって、踏みつけたりしていいか? 

 とんでもない話。

 そんなことをいえば、我々の手足だって、『頭』だって、みんなつまらない、とるにたらないもの、ということになってしまう。

 何故なら、当のショーペンハウエル自身もいっているように、『意志』の産物は、何も『知性』だけでなく、「我々の手や足、あるいは、脳から、肉体の、全てが、意志の所産。」だからである。 

 にもかかわらず、誰も、手足は、つまらない、とるにたらないとは、いわない。

 頭などいらない、とはいわない。

 要は、その生みの親が何であれ、手足は手足、頭は頭で、それなりの存在意義と、それなりの機能をもっている、ということである。 

 『知性』も同じ。 

それが、『意志』の産物だろうと、プラトン等のいうように、神から授かったものであろうと、『知性』は、『知性』、その意味と機能には、かわりはない筈なのである。

  「主意主義。」は、その『知性』が、神からの授かりものでないことが分かるや、忽ち、そんなものは、いらないといって、ポイ捨てしてしまった。

 今日の科学主義の「知主義。」は、そんなルーツを問題にしないかわりに、これこそ、「人間の証明。」とばかり、『知性』をさかんに、もちあげている。

 「意志主義者。」も、無責任だが、「科学主義者。」も、もう一つ無責任。

 いずれも、『知性』そのものを、メンタル・ワークの一つとして、まともにとらえ直し、その働きを究明しようとしていない。 

 その方面の専門家と称する、心理学者や大脳生理学者達も、『知性』について、余りにも、いい加減なことをいっている。

 差し引きのこるところは、『知性』のバロメーターとしての、『知能』(インテレクチュアル・ファカルティ)という言葉だけ。 

 そのため、小さな子どもたちが、学校で、どんなに、ひどい目にあわされていることか。

 これでは、山の中で、わけの分からぬ、モモンガ―に襲われたようなものである。 とても、まともな「知性論。」、「知力論。」とはいえない。


 鶴見和子(3)。直線の論理と「曼荼羅の思想。」:チャンネル桜・瓦版、バイク塗装は、西村コーティングへ!

2016-09-10 08:40:54 | 哲学

  <鶴見和子(3)。直線の論理と「曼荼羅の思想。」>

 直線の論理というのは、アリストテレスの形式論理学だけで、割りきるという、そういう論理学と、仏教は「循環の論理。」であり、直線ではないのであります。

 だから、使っている論理が、違う文化と文化との対話が、どうなるか?ということになります。

 「科学と文化の対話。」の中の1つで、「排中律。」では、駄目だ、それは、ホントのリアリティ(真実)を把握する論理ではない、というのです。

 そして、「包中律。」というのがある、というのです。

 それで、考えていくと、リアリティに、いくつかの『次元』がある、というのです。

 それぞれが、リアリティだということであります 

 ザデ―(1921-。数学者。ファジー理論を提唱。)の『ambigunity(あいまいの論理)』というのは、Aと非Aのあいだに、たくさんある。

 Aと非Aのあいだがない、というのが、アリストテレスであります。 

 量子〈理論〉物理学者のヘンリー・スタップとカール・プリブラムは、『東京からのメッセージ』で、「『部分』の中に、全体が、包含され、『部分』が、全体に分散されているという認識。」、つまり、「全は、個に、個は、全に、遍照する。」と言っています。

 これは、まさしく『曼荼羅』であります。

 だから、問題は、『結界』ということ、これは、やはり「聖の世界。」です。

 此処に、実は、問題があり、それに対して、『南方(みなかた)曼荼羅』は、『結界』ではないというのです。 

 これは、「開かれた曼荼羅。」といわれ、その面では、『南方曼荼羅』のほうが、はるかに、すぐれた『曼荼羅』だと思われます。 

 

 『結界』といえば、これは、エデンの園も結界です。 結界は、壁で、囲まれた、世界なのです。 実は、英語でいう、パラダイスは、元来は、ペルシャにあった、庭なんです。 その庭には、ラテン語で、ホルトゥスという、囲われた庭があり、必ず、壁があり、中には、泉があり、いろいろな樹木が生えている、果樹園なのです。

  これが、エデンの園で、それを、みんなめざしていて、イスラームの死後赴く天国も、まさしくそういった、オアシスです。 オアシスも、じつは、壁に囲まれていて、だからこそ、アダムとイブの追放というのが、可能だったのです。

 それが、破門で、本当に、門を出ていく。 神様は、アダムとイブが、帰らないように、そこに、ケルビームという炎の剣を持った、天使をおくわけです。 それが、あの旧約聖書の描写です。

 


  鶴見和子(2)。「内発的発展論」から「南方曼荼羅」:週刊現代、とんでもない医者と病院の実態・第13弾

2016-09-05 19:58:22 | 哲学

   <鶴見和子(その2)。「内発的発展論。」から「南方曼荼羅。」>

 鶴見和子は、戦中の留学で、「マルクス主義。」を身に就け、戦後は、アメリカで「近代化論。」を学び、それを否定的に媒介して独自の「内発的発展論。」を構築した。

 「史的唯物論。」は、マルクスが、晩年に「西ヨーロッパに『のみ』、あてはまる。」と述べたように、「西欧社会。」の発展から抽出された理論であり、「近代化論。」は、「アメリカ。」の社会風土から抽出された理論である。

 すなわち、史的唯物論・近代化論は、「西洋社会。」と、深い「親縁性。」がある。

 帰国後の鶴見は、日本を含む、アジアの非西洋社会の現実と、史的唯物論・近代化論の理論との『相性』の『悪さ』を直視し、日本を含む非西洋社会の発展そのものを理解する「方法論。」を『模索』した。

 それは、西洋に発信源のある理論を正確に理解した、自己の知的パラダイムの『転換』を意味した。 

 その「自己変革。」の中から、鶴見が、自らのうちに、自己の良心に照らして「真実、これだ!」と確信を持って発見し、育て上げた理論が、「内発的発展論。」である。

 鶴見の知性における、パラダイム転換である1階級から「キー・パースン」へ、国家から『地域』へ、マルクスから柳田国男や「南方熊楠。」へ…。

 これらは、「外発性。」の理論の、「受ける。」理論から、「内発性。」の発展論へのコペルニクス的展開であったといってよいものであろう。

 その『東風の学風』の最良の成果の一つが、論文「南方曼荼羅。」である。

 この論文は、19世紀のヨーロッパにおいて確立した、自然科学・社会科学の「単線的」因果論の徹底的『批判』を、南方熊楠の粘菌観察から抽出される、「縁起論。」を武器にして行ったものだ。

 すなわち、ヨーロッパの発展論の基礎にある、単線的・必然的な「因果論。」は、南方の「演技論。」からすれば、因果系列の一つに「すぎない。」ことを、明らかにしたのである…。