<経済論争。19世紀の大デフレ期は、経済急成長と平等化が、同時進行した時代だった!>
そもそも、「デフレで、生産が、削減され、経済規模が、『縮小』する。」という、前提自体が、「まちがいだ。」というところから、始めましょう。
1930年代のアメリカの大不況では、たしかに、デフレと経済規模縮小が、共存したが、それ以前のデフレ期は、ほとんど『例外』なく、生産が、『増強』され、経済規模が、「急拡大。」した時代だった。
一番良い例が、1873年~95年の20年余りにわたって続いた、1930年代大不況の、先代に当たる、「大不況。」だ。
一般物価が、ほぼ、『半分』になっていたのだから、生やさしいデフレではない。
それでは、このすさまじいデフレの中で、生産活動は『縮小』していたのだろうか?
それが、まったく「正反対。」に、順調に「伸び続けて。」いたのだ。
当時は、蒸気機関の大型化による、大西洋・太平洋横断航路の「汽船ブーム。」、「高炉製鉄ブーム。」、「鉄道建設ブーム。」が、続いていて、実体経済は「急拡大。」していた。
その中で、「金融業界。」だけは、蚊帳の外に置かれて、名目所得だけではなく、実質所得まで激減して、この世の終わりとでもいうような『悲嘆』にくれていたが…。
それでは、延々と続くデフレの中で、経済成長率は、どうだったのかを検証してみよう。
先ず、すでに、かなりくたびれの来た、老先進国イギリスの実情だ。
1873~95年というのは、1845~70年の年率1~2%成長の低迷期を脱して、2%台後半から3%台へと、成長が『加速』した時期となっていた。
つまり、経済全体として縮小していたどころの話ではない。
「成長が、『加速』。」していたのだ。
さらに、この「大デフレ時代。」には、もっと、すばらしいことが起きていた。
イギリス中が、鉄道ブームで湧きかえっていた1860年代前は、イギリス経済のジニ計数(不平等性の尺度)は、0.55あたりのかなり不平等な水準で高止まりしていた。 (ゼロなら、完全平等社会、1なら、すべての富が、たった1人の人間に集中している社会。)
それが、19世紀の最後の四半世紀、つまり、1875~99年を境に「平等性化。」に転じる。
最初は、緩やかな低下だったが、第2次世界大戦前後にはかなり急激な低下となり、ジニ計数は、0.36~0.37くらいまで下がる。
つまり、1860年代までは、インフレの中で、金持ち、金融機関、大企業、国が、いくらでも何回でも、自由に『借金』できるという『特権』を利用して、庶民から所得と資産を「巻き上げ。」ていた「不平等化の時代。」だった。
1873~95年の「大不況。」は、この不平等化に「終止符。」を打って、平等化の時代を招き入れたのだ。
そして、「デフレ。」に『よる』勤労者の実質「賃金上昇、」は、経済成長を『加速』させた…。
老大国イギリスでさえ、これだけ頑張っていたわけだから、当時まさに興隆期にあった、アメリカやドイツとなるともっと威勢がいい。
この「大不況期。」に、欧米諸国の経済規模が、どれだけ急速に『拡大』したかを見てみましょう。
1870年~1900年の30年間(大不況期)で、イギリスは2倍弱伸びただけだったが、ドイツが3.5倍、アメリカにいたっては『5倍』近く、工業生産が伸びている。
世界全体でも『3倍』になんなんとする『高成長。』だ。 (デフレ期には、「高成長になる。」ということである。)
この間、アメリカは、4~6%の年間成長率となっている。
アメリカ経済が、30年間にわたって、これより高い成長率を維持したのは1820年代の5.7%、30年代の6.1%、40年代の4.5%だけだった。
そして、この20年代からの30年間も、ナポレオン戦争後の「デフレ。」が続いた時期で、人によっては「1820年代大不況。」と呼ぶこともあるほど、「金融業界。」には「きつい。」時期だった。 (そうかあ。 金融機関にはつらいので、「不況期。」というが、民間生産は、高成長となることがあるのか…。)
何故、1873~95年の「大不況期」(金融機関にとって…)に、各国経済が、これほど『順調』に伸び続けていたかと言えば、当時のリーディング・インダストリーだった鉄鋼業の生産高が、ぐんぐん上昇して経済全体を引っ張っていたからだ。