チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

全ての情報は「誰か(犯人)の利益のプロパガンダ」で見ると『真相』が分かる。 チャンネル桜の「草莽崛起。」を応援しょう!

 西部邁47。国民の『総意』とは、『伝統』の精神のこと:チャンネル桜・瓦版、地銀が消える日、大再編105行⇒20行に!?

2016-10-22 16:41:16 |  西部邁師の論

  <西部邁師の論(47)。国民の『総意』とは、日本国家の歴史をつらぬく、『伝統』の精神のことだ>

 「国家象徴。」のほうも、その象徴が、歴史に関わるからには、平和の時代のみならず、戦争の時代も、民衆の時代だけでなく、独裁の時代も、象徴の対象としているのです。

 それら、過去の政体を、『復活』させれば、「公民性。」が、回復不能なまでに、踏みつぶされるという、状況判断があるのなら、そういう復古は、やめにすればよいだけのことです。

 日本国憲法の第1条で、天皇の「地位は、主権の存する、日本国民の総意に基づく。」とあり、その第2条では、「皇位は、世襲のものである。」とされております。 「両条の間には、矛盾がある。」、「皇位世襲が、国民の総意とは、限らない。」と、指摘するものが、少なくありません。 

 「馬鹿げた。」議論というべきです。

 国民の(公民としての)『総意』とは、日本は国家の歴史をつらぬく、『伝統』の精神のことだ、と考えておけばよいのです。

 その『伝統』が、今の『生者』の意識の根底を、支ええているとみるのが、むしろ、正統かつ、正当の人間観で、ありませんか?

 その伝統に、皇位世襲(による皇室堅持)のことも、含まれているという解釈が、ごく自然に成り立ちます。

 とはいえ、もし、成文で、『国体』のことを、規定したいのなら、余計な、「民主主義的解釈。」を、あらかじめ、排除しておいた方がよいでしょう。

 そうするためには、一つひとつの言葉の、意味についての吟味と、それを文章に、含ませるに当たったっての『慎重』とかが、必要です。 

 民主主義国家、アメリカの軍人たちが、(聖書の創世記を、真似るようにして)たった、「6日間。」で、書き散らかした憲法草案に、また、ほんの一晩の徹夜作業で、でっちあげた翻訳憲法に、そういう吟味や慎重が、あったはずが、ありません。

 極論となるのを、恐れずに言うと、皇位をめぐる、血統のことは、第二義のことにすぎないでしょう。

 「人間象徴による、国家象徴。」の観念、それを、『保持』するのが、「国民が、『公民』たること。」の必須要件であるという、常識を、「手放さないこと。」が、第一義なのです。

 その常識は、『死生』観と時代観があれば、「公民にあって、おのずと、抱懐される。」ものです。 というより、そういう精神形式を持たないのは、公民として、余りにも、『未熟』だといわなければなりません。

 


 西部邁師46。民主主義;『公民』:チャンネル桜・瓦版、今は西洋医学を信じている医者自体が、いなくなっている

2016-10-16 09:41:16 |  西部邁師の論

  <西部邁師の論(46)。民主主義;『公民』のみが、政治参加の資格を持つ。 共和制を、担保するのは、国民の歴史感覚>

 ◇、公心と私心の2重性

 『市民』のことを、英語でシチズン、仏語でシトワイヤンといいますが、それらは、シティ(都市)に、戸籍や住民票を、登録した人々などという、意味では『ない』のです。 

 「シヴィル。」とは、「礼儀正しい。」ということですが、『礼儀』の体系は、どこから来るのでしょう?

 それは、『公共空間』のルール、マナー、エチケットから、ということになります。 

 「公共空間。」に入るためのチケット(切符)、それが、「エチケット。」の意味なのです。  

 市民の持つべき、パブリック・マインド(公心)を明示するために、『公民』(パブリック)という言葉を使うことにします。

 実際の市民が、プライヴェート・マインド(私心)をも、持つことは、言うまでもありませんが、政治という、公共空間に現れるとき、市民は、『公民』として、振る舞わなければなりません。 

 公民の言葉づかいのなかに、私心が、含まれることになるのは、当然のことです。 

 人は、誰であれ一面では、独個の『個人』(インディヴィデュアル・マン)であり、他面では、何らかの集団に帰属する、「集団人。」(コレクティヴ・マン)でありまして、そして、個人も集団人も、『私心』から、離れることはできないのです。

 そういう、制限がついた上でのことですが、人々が、『公心』を、表面にかかげてはじめて、国家にまとめ上げられるものとしての、「公共空間。」が、出来上がると見なければ、なりません。

 フランス革命の『権利憲章』における、「人および市民の。」という限定も、その「公民性。」をさしているのです。 

 「民間部門。」のことを、プライヴェ―ト・セクターと呼んで、パブリック・セクター(政府部門)と区別するのは、アメリカ流ですが、それは、『誤解』を招く言い方です。

 民間部門の基礎に、人々の『公心』が、据えられていなければ、政府が、まともな、公共部門になるはずも、ありません。 

 そして、人々に、『共通』の公心の出所は、となると、これまでの議論でも明らかでしょうが、住民にあっての『歴史』の流れ、それのもたらす、『慣習』の体系、そこに内包されている『伝統』の精神を、参照する以外にないのです、

 公心を生み出すのは、『伝統』精神を「判断基準。」に、しなければ、ならないでしょう。 

            (続く)

 


 西部師の論(45)。「実践と解釈。」:チャンネル桜・瓦版、10月NYダウ暴落説は、米大統領選後に変更!

2016-10-13 18:48:32 |  西部邁師の論

      <西部師の論(45)。「実践と解釈。」について>

 平成改革によって「日本的なるもの。」をほぼ最終的に蒸発させ、その挙げ句に米中両国から政治的・軍事的に挟み撃ちされているのが現代日本である。

 こうした日本列島の現況からして、いかんともしがたくそうなるという危機を感じ、乗り越えようと努める。

 その一方で過去の人生と時代を振り返り、他方で、両者にどんな『未来』が待ち構えているかを除き見ようとする。

 危機において想起と展望という、二種の心理が激しく交錯するということである。

 その交錯振りを解釈をすれば、危機にある人間のいわゆる『実存』の姿が浮かび上がってくるであろう。

 伝統というものに訴求していくほかない人間の本来性、それを再発見し保守しようと励むのが、危機における人間の生き方だということである。

 次に、危機における人間の決断の仕方が浮き彫りになるであろう。

 つまり、不確実な未来へ向けて想像を休みなく掻き立てていく以外にない人間の際疾(きわど)さ、その種の冒険を実践すべく努めるのが、危機における人間のもう一つの側面だということである。

 要するに、コンサヴァティヴィズム(保守思想)とエグジステンシャリズム(実存思想)とは表裏一体となっているのである。

 その一体性が炙り出されてくるのが危機の時代なのだと考えられる。 

 事実、それら領袖の思想は、フランス革命の大混乱やナチズム革命の社会病理といったような危機の時代に登場したのであった。

 前者にあってはエドマンド・バークの保守思想、後者にあってはマルティン・ハイデッガーの実存思想がその見本である。 

 そうであればこそ、危機が到来するとほぼ必ず過去の帷の中から聞こえてくるのが『伝統』回帰の叫びであり、『実存』確認の悲鳴なのである。

 両方の思想とも、合理主義との対決という形で生まれてきた。

 合理主義は、科学と技術の武器を携えて、近代社会の津々裏浦々に至るまでをも席捲してきた。

 その合理主義がおのれの運命に従うようにして大挫折に見舞われるとき、それを超克せんとする省察と行為の中から、保守思想と実存思想とが、互いにひそかに手を携えつつ、いくたびも蘇生してくるのである。

 その合理主義との対決の模様は、省察の作業にあっては、ハーマニューティックす(解釈学)が必要となる。

 つまり、「言語による言語活動への解釈。」という難事に挑むということである。 又行為の営みにあっては、プラグマティズム(実践学)が要請される。

 つまり、「実践の中での認識の改善。」という難関に立ち向かうということである。

 それら両方の挑戦とも、「合理主義を突破するための合理の展開。」なのであるから、困難を承知の思想の企てなのであった。

 あるいは、近代との全面的な対決を企てるものなのであった。

 そういう学者風のやり方を無残に圧殺してきたのが近代の合理主義なのであった。 

 アカデミズム『学術趣味』は、近代の飾り物にはなり得ても、人間の生の本来性が忘却されていく模様と社会の伝統の本源性が消失させられていく様子とを発(アバ)き出すことができない。

 しかもその狂暴なる思想のピュエリリズム(精神的小児病)は、かってなく広く深く現代社会を覆い、IT革命などという時代の標語すらもが高く掲げられる始末となっている。

 それを足蹴りなり肩透かしなりを食わせるしかなく、そのためには学術を祖述しているだけでは駄目なのだ。


 西部邁44。「生命第一主義。」の弊害(その2):核・ミサイル暴走、金正恩と習近平のチキンレース!

2016-10-07 16:46:12 |  西部邁師の論

  <西部邁師の論(44)。「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害(その2)>

 日本の反戦思想の中に、単に正当性をもたない戦争に反対するという政治的主張があるだけではない。

 そこには、人間は危険に「直面する。」ことなしに生きることが出来るはずだ、という「独りよがり。」の人生観、社会観が含められている。

 日本が、アメリカという大国の庇護の下にあった状態では、こうした独りよがりの平和主義も、ヒューマニズムも生命第一主義も、許されたであろう。

 だが、日本が大国となり、世界の最前線で他の大国とのせめぎ合いを演じなければならないという状況になれば、いやおうなく国際摩擦という形での『危険』が押し寄せてくるのである。

 又、外国との摩擦という形に限らず、国内においても様々な葛藤がありうる。

 このことは、失業社会の訪れとともにますます明確になってきている。

 だとしたら、日本人もそろそろ「人間性。」(ヒューマニズム)に対する半ばの絶望の下に、人生も歴史もタイトロープを渡るような作業なのだ、ということをわきまえなければならないだろう…。 

 その綱渡りの「平衡術。」を特定の個人や時代だけによって準備することは不可能であり、長い歴史の知恵としてのみ鍛えられているのだという、「歴史感覚。」を持たなければならない。

 


 西部邁師43。「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害:チャンネル桜・瓦版

2016-10-04 09:16:10 |  西部邁師の論

  <西部邁師の論(43)。「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害(その1)>

 ヒューマニズムの弊害が様々な方面にもたらされているが、その最も端的な現れは、生命第一主義の価値観の帰結に見られる。

 「生きることそれ自体が、最高の『価値』。」であるとしうるのはなにゆえであろうか? 

 それは、人間礼讃のヒューマニズムがあるからである。

 人間が生きていればそれだけで、あとは自動的に素晴らしき人間性が発揮されるとみなす。 そうであればこそ生命が第一の価値だとされるのである。

 世にいわれるところの日本的平和主義もまた、この生命第一主義の思想にもとづいている。 

 つまり、日本における平和主義は単に戦争がない状態ということなのではない。

 もしも、戦争が無い状態としてのみ平和を既定するならば、戦争が無い状態の起こらない状態を齎すにはどうすればよいか、という論理のなかで、軍隊を持つことの必要性やさらには大きな戦争を避けるために小さな戦争(武力衝突)をなさねばならないことなども認められたであろう。 

 だが、日本で平和主義というのはそれ以上のものなのである。

 つまり、人間の生命が安穏な状態に置かれること、それが平和主義とされている。 

 生命が安穏ならば、後は人間性が花開く、というヒューマニズムを信じていれば、素晴らしき社会や生活を期待することが出来るというのである。

 だが、生命第一主義は、「性善説。」をとらないかぎり成り立ちえない。

 人間が錯誤すを犯すものであるということ、或いは性悪ぶりを発揮しうるものであるということ、または他者を傷つけうるものであること、おのれを堕落させうるものであるということを認めるならば、人間にとっての最大の価値的課題は、「生きることそれ自体。」ではなく、いかに「よく生きる。」かということになるはずであある。

 そしていかによく生きるかということを探究するために、様々な価値の追求が行われなければならない。

 さらには、様々な価値観の間の対立やカットを調整するために、価値における平衡感覚を鍛えておかなければならない。 

 極端に言えば、よく生きるために死ぬことをもあえて辞さずという場合も起こりうるのである。

 人間性の礼賛に立たないかぎり、この世は何ほどか危険に満ちたものとなる。

 社会とは、他者を気づ付け、他者によって傷つけられる関係そのものなのである。 

 しかも、傷つけ合いの可能性がある関係のなかで、いかにおのれを持すか、あるいは他者との関係を持すかという危険を引き受けながら、ときには自分の生命をも犠牲にしなければ、よく生きたことにはならないという局面すらあるのである。

 こうした局面の最も分かりやすい例が戦争ということであろう。

          (続く)