<「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害>
ヒューマニズムの弊害が様々な方面にもたらされているが、その最も端的な現れは、生命第一主義の価値観の帰結に見られる。
「生きることそれ自体が、最高の『価値』。」であるとしうるのは何ゆえであろうか?
それは、人間礼讃のヒューマニズムがあるからである。
人間が生きていればそれだけで、あとは自動的に素晴らしき人間性が発揮されるとみなす。
そうであればこそ生命が第一の価値だとされるのである。
世にいわれるところの日本的「平和主義。」もまた、この生命第一主義の思想にもとづいている。
つまり、日本における平和主義は単に戦争がない状態ということなのではない。
もしも、戦争が無い状態としてのみ平和を既定するならば、戦争が無い状態の起こらない状態を齎すにはどうすればよいか、という論理のなかで、『軍隊』を持つことの必要性やさらには大きな戦争を避けるために「小さな戦争。」(武力衝突)をなさねばならないことなども認められたであろう。
だが、日本で「平和主義。」というのはそれ以上のものなのである。
つまり、人間の生命が安穏な状態に置かれること、それが平和主義とされている。
生命が『安穏』ならば、後は人間性が花開く、というヒューマニズムを信じていれば、素晴らしき社会や生活を期待することが出来るというのである。
だが、生命第一主義は、「性善説。」をとらないかぎり成り立ちえない。
人間が『錯誤』を犯すものであるということ、或いは『性悪』ぶりを発揮しうるものであるということ、または他者を傷つけうるものであること、おのれを堕落させうるものであるということを認めるならば、人間にとっての最大の価値的課題は、「生きることそれ『自体』。」ではなく、いかに「よく生きる。」かということになるはずであある。
そしていかによく生きるかということを探究するために、様々な『価値』の追求が行われなければならない。 さらには、様々な価値観の間の対立やカットを調整するために、価値における平衡感覚を鍛えておかなければならない。
極端に言えば、「よく生きるために死ぬ。」ことをもあえて辞さずという場合も起こりうるのである。
「人間性の礼賛。」に立たないかぎり、この世は何ほどか危険に満ちたものとなる。
社会とは、他者を傷つけ、他者によって傷つけられる関係そのものなのである。
しかも、傷つけ合いの可能性がある関係のなかで、いかにおのれを持すか、あるいは他者との関係を持すかという危険を引き受けながら、ときには自分の生命をも犠牲にしなければ、よく生きたことにはならないという局面すらあるのである。
こうした局面の最も分かりやすい例が『戦争』ということであろう。
日本の反戦思想の中に、単に正当性をもたない戦争に反対するという政治的主張があるだけではない。
そこには、「人間は危険に『直面』することなしに生きることが出来るはずだ。」という「独りよがり。」の人生観、社会観が含められている。
日本が、アメリカという大国の『庇護』の下に合った状態では、こうした独りよがりの平和主義も、ヒューマニズムも生命第一主義も、許されたであろう。
だが、日本が大国となり、世界の最前線で他の大国とのせめぎ合いを演じなければならないという状況になれば、いやおうなく国際『摩擦』という形での危険が押し寄せてくるのである。
又、外国との摩擦という形に限らず、国内においても様々な葛藤がありうる。
このことは、失業社会の訪れとともにますます明確になってきている。
だとしたら、日本人もそろそろ人間性に対する半ばの『絶望』の下に、人生も歴史もタイトロープを渡るような作業なのだということを「わきまえ。」なければならないだろう。
その綱渡りの「平衡術。」を特定の個人や時代だけによって準備することは不可能であり、長い歴史の知恵としてのみ鍛えられているのだという、「歴史感覚。」を持たなければならない。
以上