チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 ブログ;ヒゲジイ「人間は平等」:チャンネル桜・瓦版、救国のオピニオン誌『言志』無料、お申し込みを

2015-12-07 09:17:04 | ヒューマニズムという虚説

   <ブログ:ヒゲジイのアル中患者よもやま話「人間は平等」は正しいですか?>を読みました。>

 素晴らしい内容ですので、是非お読みくださいませ。

 以下は、国宝・日下公人氏の「平等論。」であります…

 「貴族は貴族なりに、奴隷は奴隷なりに、皆『平等』に神を崇拝できる。」という有名な言葉がキリスト教にはあります。

 『欧米』の「平等概念。」とはこんなものなのですよ…。

 「生活の質。」が同じならば平等だ、というのはあくまでも日本人『独特』の発想です。

 『欧米』の価値観は、あくまでも神の前では、というモノサシがあります…。

 日本人は、あくまでも「人間同士。」の話、そこには神は入り込まない。 そもそも意識しない…。

 それは神仏がいないのではなく、あまりにも生活に「融け込んで。」いるから気付きもしないわけなのですよ。

 


 「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害:チャンネル桜・瓦版、中国株の暴落から

2015-08-21 03:39:55 | ヒューマニズムという虚説

       <「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害>

 ヒューマニズムの弊害が様々な方面にもたらされているが、その最も端的な現れは、生命第一主義の価値観の帰結に見られる。

 「生きることそれ自体が、最高の『価値』。」であるとしうるのは何ゆえであろうか?

 それは、人間礼讃のヒューマニズムがあるからである。

 人間が生きていればそれだけで、あとは自動的に素晴らしき人間性が発揮されるとみなす。

 そうであればこそ生命が第一の価値だとされるのである。

 世にいわれるところの日本的「平和主義。」もまた、この生命第一主義の思想にもとづいている。

 つまり、日本における平和主義は単に戦争がない状態ということなのではない。

 もしも、戦争が無い状態としてのみ平和を既定するならば、戦争が無い状態の起こらない状態を齎すにはどうすればよいか、という論理のなかで、『軍隊』を持つことの必要性やさらには大きな戦争を避けるために「小さな戦争。」(武力衝突)をなさねばならないことなども認められたであろう。

 だが、日本で「平和主義。」というのはそれ以上のものなのである。

 つまり、人間の生命が安穏な状態に置かれること、それが平和主義とされている。 

 生命が『安穏』ならば、後は人間性が花開く、というヒューマニズムを信じていれば、素晴らしき社会や生活を期待することが出来るというのである。

 だが、生命第一主義は、「性善説。」をとらないかぎり成り立ちえない。

 人間が『錯誤』を犯すものであるということ、或いは『性悪』ぶりを発揮しうるものであるということ、または他者を傷つけうるものであること、おのれを堕落させうるものであるということを認めるならば、人間にとっての最大の価値的課題は、「生きることそれ『自体』。」ではなく、いかに「よく生きる。」かということになるはずであある。

 そしていかによく生きるかということを探究するために、様々な『価値』の追求が行われなければならない。 さらには、様々な価値観の間の対立やカットを調整するために、価値における平衡感覚を鍛えておかなければならない。

 極端に言えば、「よく生きるために死ぬ。」ことをもあえて辞さずという場合も起こりうるのである。

 「人間性の礼賛。」に立たないかぎり、この世は何ほどか危険に満ちたものとなる。 

 社会とは、他者を傷つけ、他者によって傷つけられる関係そのものなのである。

 しかも、傷つけ合いの可能性がある関係のなかで、いかにおのれを持すか、あるいは他者との関係を持すかという危険を引き受けながら、ときには自分の生命をも犠牲にしなければ、よく生きたことにはならないという局面すらあるのである。 

 こうした局面の最も分かりやすい例が『戦争』ということであろう。

 日本の反戦思想の中に、単に正当性をもたない戦争に反対するという政治的主張があるだけではない。

 そこには、「人間は危険に『直面』することなしに生きることが出来るはずだ。」という「独りよがり。」の人生観、社会観が含められている。

 日本が、アメリカという大国の『庇護』の下に合った状態では、こうした独りよがりの平和主義も、ヒューマニズムも生命第一主義も、許されたであろう。

 だが、日本が大国となり、世界の最前線で他の大国とのせめぎ合いを演じなければならないという状況になれば、いやおうなく国際『摩擦』という形での危険が押し寄せてくるのである。

 又、外国との摩擦という形に限らず、国内においても様々な葛藤がありうる。

 このことは、失業社会の訪れとともにますます明確になってきている。

 だとしたら、日本人もそろそろ人間性に対する半ばの『絶望』の下に、人生も歴史もタイトロープを渡るような作業なのだということを「わきまえ。」なければならないだろう。

 その綱渡りの「平衡術。」を特定の個人や時代だけによって準備することは不可能であり、長い歴史の知恵としてのみ鍛えられているのだという、「歴史感覚。」を持たなければならない。

                以上

 

 

 


 死生論。『死』があるからこそ、仕合せ:チャンネル桜・瓦版、中国崩壊後、デフレは深化

2015-06-25 14:23:52 | ヒューマニズムという虚説

     <死生論。『死』があるからこそ、仕合せ>

  「掛け替えのない命。」という決まり文句を聞かされたり、読まされたりせぬ日は、先ずないというのが、日本列島における戦後の暮らしというものです。

 失われた命は、取り返しようがないという意味では、その文句は、疑いもなく正しいといわざるをえません。 

 しかし、精神にとって、手段にすぎぬものとしての命は、何らかの精神的な目的のために、犠牲にされることもありうべし、といった代物にとどまります。

 「命に替えても、守るべき価値がありうる。」と『前提』しておかなければ、軍隊や警察におけるものをはじめとする、生命の危険や危機にかかわる類の仕事は、すべて無益さらには、有害ということになってしまいます。 

 不老不死の薬が発明されて、人間が永遠の命が、保証されたと想定してみましょう。 

 しかし、いつまでも、背徳の世と付き合うのを潔しとしない人も、相当数、いるはずです。

 どだい、地球資源が『有限』であることを考えると、人々の不老長寿とは、子孫の誕生や延命を「許さない。」という非道につながります。 

 もっというと、「生きること、それ自体。」が最高の価値だとすると、人間の食生活は、他の動物の生命を殺戮しつづけているという点で、その最高価値への『冒涜』だということになるのではないでしょうか?

 自分の目前に、野蛮・卑劣・愚昧・臆病だらけの長命な人生航路と、節制・正義・聡明・勇気につながれた短命な人生航路とが、開けているとしましょう。

 どちらを取るか、判断も決断も難しいではありましょうが、後者の道を進みたいという思いの一片を抱かない者は、バイ・ディフィ二ッション(定義上)、人なのです。 

 背徳や有徳といった抽象的で、普遍的な概念を具体的にかつ個別的に規定するのは、困難ではあります。

 しかし、隣人の男が(自分の退屈や焦燥の気分にかられて)幼い子供を殴っている、というような具体的かつ個別的状況を思い浮かべてみると、その幼児虐待は背徳なり、と簡単に判別できるはずです 

 そういう判断能力を持った人間は、短い有徳の人生よりも、長い背徳の人生を選ぶことに、少なくとも甚だしい自己嫌悪を、覚えずにはいないでしょう。 

 そういう者が一定割合でいる、あるいはそういう気持ちがあらゆる人間のなかに一定割合あるという意味でなら、人間性礼賛の「ヒューマニズム。」にも言い分があります。

 言い換えると、自己の『性悪』を少々自覚するという程度の『性善』は、たしかに人間の一般的な傾きだということです。

 とはいえ、死を「受け入れる。」覚悟は、どうあがいても生命体であることを免れえない人間にとっては、(不可能ではありませんが)至難の業です。

 そんなことは、老人医療に対する社会保障が不足していることに対して、75歳以上の「後期高齢者。」がどういう物言いで反発しているかを見れば、一聞にして明らかといえましょう。

 「後期高齢者とは、もうじき死ぬ齢ということで、我々年寄りに対し失礼な表現。」、「後期高齢者への医療費の本人負担を増やすのは、我々に死ねということだ。」、「社会的入院つまり介護を受ける目的で入院を禁止するのは、我々に“姥捨て山”に行けということだ。」と老人たちが、猛反発しております。

 彼らには、「息子よ、村の食費を減らすために、私を担って森にゆけ。」と『自ら』頼んだ往時の老人たちの覚悟のことなど、想像すらできないのです。

 死を忌む気持ちで、心が占められてしまったら、生におけるどんな努力も破局はむなしい終着点に至る、という「虚無感。」が否応もなく胸中で、水位を増します。 

 実際、死について「考え深く。」なるのではなく、生について「疑い深く。」なるという厄介な心境に、現代人はいともたやすく引きこまれているようにみえます。

 簡単に言うと、現代人の心中で、「平均寿命。」が延びるにつれて憂鬱症がはびこっております。 

 メランコリーとは、脂っこい食事が原因で生じる「黒い胆汁。」のことで、それが「不機嫌。」をもたらすと考えられていたのです。

 たしかに「豊かな社会。」における、脂っこいと形容してよいような生活は、一方では、長命を可能にしているのですが、他方では、「生の意味。」のまことに希薄な「流出する社会。」を到来させております。

 この意味では、消極的「虚無主義。」が、現代人の心的特質となっております。

                 以上

 

 

 

 


 人間中心主義という思い上がり:チャンネル桜・瓦版、現代医学の大崩壊

2015-06-22 09:02:46 | ヒューマニズムという虚説

     <人間中心主義という思い上がり>

 ルネッサンス以来、人間中心主義の時代になり、「ヒューマニズム。」があふれ出てきて、人間性というものを解放した素晴らしい時代がやってきた、というふうに今日われわれは思っています。

 だから、マックス・ウェバーも「近代とは、宗教的なものからの解放だ。」といい、ニーチェのいうように、『神』も「イデア。」もただの幻影であって、そんなものに縛りつけられている理由はどこにもないといえます…。

 けれども、絶対的なものをことごとく否定した結果出てくるものは何かというと、「人間自身。」を、つまり自分自信を絶対化してしまうという「自己中心主義。」であります。

 たとえば人間の『自由』を絶対的なものとして打ち立てると、自由への欲望は無限に広がってゆき、快楽や欲望を無条件に肯定して、その無限の追求に歯止めがかからなくなってしまうでありましょう…。

 しかも、それを万人が持って生まれた基本的人権、人間が生まれ持つ「自然の権利。」だというのが、近代という時代になってゆくのでありますよ。

 その一番の根底にあるものは、次のような考え方です…。

 人間が人間として生まれてくることによって、「そのままで絶対的に価値がある。」ということです。

 「人間が生きているということ。」それ自体を「絶対的な価値。」と見なすことこそが、「近代のヒューマニズム。」であり、そこから人間の「基本的権利。」というような思想も出てくるのであります…。

         <続く>

 

 


 人間中心主義(ヒューマニズム)という思い上がり:チャンネル桜・瓦版、日本は世界一の「医療被曝。」大国

2015-06-20 10:40:36 | ヒューマニズムという虚説

   <人間中心主義(ヒューマニズム)という思い上がり>

 西洋の場合には、「絶対的なもの。」は、『神』という形で『表象』されてきましたし、ギリシャ哲学では、プラトンはそういう絶対的なものを「イデア。」といったわけであります。

 人間を超えたものが存在するということは、逆にいえば人間が考え出すこと、人間の行動などというものは、しょせん限界があるということであります…。

 そこから人間の思い上がりに対する、非常に強い疑念が生まれてきました。

 だから、ユダヤ・キリスト教は、ことさら人間は罪深い存在であると主張し、悔い改めることを強いて、つねに自己を見つめ、謙虚でなければならないと説いています…。

 ギリシャ人が警戒したのも、人間が思い上がること、つまり「ヒュプリス。」であり、人間が傲慢になることを常に戒めねばならないと考えられました。

 そして、有限で限界を持った人間を超えた、もっと「永遠で、普遍的な何か。」を求める、そういう思考が「西洋文明。」を生み出してきたのであります…。

 ところが、ニーチェは、まさにそういうことをすべて否定して、『神』も「イデア。」も全部インチキだといっているわけですよ…。

 だが、それらが破壊されたらどうなるか?というと、われわれが生きているこの世界が「相対的。」である、という自覚が失われてしまうということになります。

 つまり、人間が人間を超えたものを想定することによって、自分の行動や認識に対して『限界』を設定して、自らを戒めてきたのですよ…。

 そして、その限界がなくなってしまうと、人間は、自分こそがこの世界の主人だと思い始めるわけです。

 これはひとつの「思い上がり。」で、「ヒュブリス。」であり、「人間中心主義。」(ヒューマニズム)であります…。

 さあ、人間の「基本的権利。」という思想は、この「ヒューマニズム。」から出てきていることが『問題』なのでありますよ…!!

       <続く>