チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 『迷う』:チャンネル桜・瓦版、国連は、国際平和を追求する中立的な機関ではない

2016-05-07 17:54:40 | 迷う心
     <『迷う』とは、どういうことでしょうか?>

 (1) 今どこにいるかが、わからない。 (位置)
 
 (2)  どの方向に、行けばよいかが、分からない。 (方向)

 (3) どの様に、したらよいかが、分からない。 (方法)
 
 と、いうことであろうと、思います。
 
 日本経済が、どの様になるかが、分からない、ということは、まず、日本経済の現状(位置)
が、どうなっているのかが、わからない、という場合があります。

 次に、日本経済が、どのように動いていく(方向)なのか、(流れ)が、分からないという事があります。

 さらに、それでは、どの様にしたら(方法、hOw TO)良いかが、分からない、ということになります…。

 悩みの『原因』:チャンネル桜・瓦版、ビッグコミック:S-最後の警官ー連載中、東宝系にて公開

2015-10-19 22:24:35 | 迷う心

 <悩みの『原因』ならびに「当たり前。」と「有り難い。」について>

 人は誰でも、希望を持ちその実現に努力していますが、なかなか自分の思うようにいかないために、それが『悩み』ともなっています。

 自分の思うよう(自己中心的)に世の中が動いてくれることが希望であり、さらに「人は誰もが、自分が一番かわいい。」というのが『真理』(この世の仕組み)でありましょう…。

 そこで世の中とか、相手とか、環境とかが「自分の思うように。」変わってくれることを希望するわけでありますが、これがそうはいかないことは誰もが嫌と言うほど体験しているわけでありますよ…。

 ここで「希望通り。」いかない、すなわちこれが『悩み』となるわけですが、この『悩み』の原因について『真理』(道理・世の仕組み)では、次の3つであるとしています…。

 1、自分の性格傾向(実体・遺伝的要因)からくるもの

 2、過分欲(自分の能力・容量・持ち分を超えたもの)

 3、喪失感

 であります。

 各々については他のブログで述べておりますが、ここでは、物のとらえ方として、現状を「当たり前。」こととして考えるか?「有り(有ることが)難い(難しい)。」ことなのだと考えるかというスタンスの違いについて述べてみましょう…。

 現在ある状態を「所与のもの。」であり、「有ること。」が『当然』(当たり前)であると考えたときには、『不足』するもの、気に入らないものについて『不満』であり、もっと(モア・ザ・ベター)こうなってほしい(希望)と考え、そうならないことは『悩み』となるわけであります…。

 けれども、現在の状態が『当然』ではなく、もしそれが「無かったとしたら。」と考えたとき、それはとても「困った・大変なこと。」になりはしないか?ということでありますよ…。

 例えば、前歯が1本抜けてしまった(喪失感)としたら「見栄え。」も悪く『悩み』でもあるわけですが、前歯が無くなって初めて、有るのが「当たり前。」のことでなく「有り(有ることが)難い(難しい)。」ことだったと思うのでありましょうか…?

 曽野綾子はこのようなときに、「失ったものを惜しむよりも、残されたもの(残りの歯があること)に『感謝』でありましょう…。」と述べています。

 言い換えると、人は往々にして、「無いものねだりの、有るもの誹(そし)り。」をする傾向(性格)があるようであります…。

 今有るものは有るのが『当然』(当たり前)だとしてして「蔑(ないがし)ろ。」にして、もっとこうなれば(希望)と無いもの「ねだり。」(過分欲)というのが私たちの常でありましょう。

 「亡くなって知る、親の恩。」とか「こんなに早く亡くなってしまうのだと知っていれば、あれするなとか言わず、もっと好きにさせれば良かった…。」とかいう人がおりますよ…。

 家族の行状や病気のことで『悩む』人もいますが、いるのが「当たり前。」だと思ってあれこれ『希望』(もっとこうなって欲しい・過分欲?)することになりますが、では「いないほうが良いのか?」と考えたとき、いるだけでも「有り難い。」ことだと思えるということでしょうか…??

 『悩む』というのは心が悩むのであって(禅問答みたいだが)、その状態(それ自体ではなく)を(その人の)心が「受け止めきれない。」ところに生じるのだというのが『真理』(仕組み)に云われております。

 例えば、借金の『悩み』があるというのは、「その借金がなければいいのに。」と悔んだりして「受け止め。」なければ『悩み』でありますが、「借りたものだから、少しづつでも返していこう。」と度胸良く「受け止める。」ことだというのですよ…。

 さらに、世の中は「自分の思うように動かない。」というのがこれまた『真理』でありますから、相手とか環境(客観的事実)を「思うように変える。」ことはできないわけで、変えることが出来るのは自分の「考え方・物のとらえ方。」であるということであります。

 このことについて、淡谷のり子が『人生相談』において、「我慢する(受け止める)か、別れるか。」のどちらかだと言っていましたよ…。

 つまり、「相手を変えることなどできない。」から、自分が「変わる。」(受け止める)か、「別れる。」かのどちらかだというのですけれどね。

 しかし、「別れる。」というのは「『縁』を切る。」ということで好ましいことではなく、「我慢する。」というのも実は『無理』がありますよ…。

 ここでは、「相手を変えること。」はできず、変えるこたができるのは自分の心の受け止め方であることについて述べたわけであります…。

 では、「どうしたら良いのか?」については、別バージョンとするとして、今回は『悩み』の原因とその扱いについての一端を述べてみました。

                (続く)

 

 

 


何はともあれ、レスポンスをするのがエチケット:反省なし、木村社長退任で、『朝日』は許されるか!

2014-11-08 19:18:59 | 迷う心
  <何はともあれ、レスポンスをするのがエチケット>

 先日、書籍を宅急便でお送りしましたが、ご連絡がないので未着ではないかと心配しておりました。

 あるいは、本が多量でありましたことや書籍内容が気に入られなかったのではないかと、いささか不安に思っております。

 大企業や大組織に入られる方は、コミュニケーションを大切にしていられるようですが、野良犬稼業(中小企業)の私は、どうも他の方とのコレスポンデンス(意思疎通)が不得手であります…。

 以前何かで読んだ話ですが、「俺はリンカーンが嫌いだ…。」という人に「なぜか?」とたずねたところ、「俺はリンカーンのことを良く知らないからだ…。」と言ったというのですよ…。

 人は「良く分からない(不明な)もの。」を嫌うということは理解できます。

 「名前の付いたお化けは怖くない。」と言われるように、「未知のもの、状況不明、連絡がない…。」など「確定していないもの。」に対して、人は『不安』を持つのだと思います…。

 もうひとつは、レスポンスのないのは、相手が「不快に思っているためか?」と心配になることなのです…。

 例えば、こちらが挨拶をしたのに、相手が返事をしない(ノーレスポンス)としたら「何か怒っているのかしら。…?」と『不安』になります

 こちらが挨拶をするということは、「あなたを認めていますよ、敵意はありません。」という意思表示であるというので、「返事をする。」(こちらも同様ですよ)というのはエチケットであるというのですよ…。

 もっとも、「おはよう!」とか挨拶をして、相手が返事をしないと「なんだ,彼奴! そうか!もう挨拶なんかしないぞ。」というのは『違う』のだそうですよ…。

 挨拶というのは、あくまでも「こちらの問題。」であり、返事がなくても「何か虫の居所が悪かったのかな…、体調でも悪いのかな?」と思って、また会ったときにも、さりげなく挨拶をする(こちらの問題)ものだそうですよ…。

 (もっとも、明らかに嫌われているときは「敬して遠ざかる。」わけですけれどもね…)

 そういえば、先日メールをもらって、貰ったことのREメールをしていないことに気が付いて、慌ててメールをしなければと思っている今この頃ではあります…。

 思い付きで、まとまらない文章となってしまいました…。

            以上であります。




チャンネル桜が朝日を謝罪に追い込んだことは余り知られていない:不安のない心

2014-09-17 18:45:19 | 迷う心

 人は誰でもが手にしたいのが、喜び多い「いい人生だな~。」という悔いのない人生です。

 これは、明日、明後日手に入るようなものではなく、生涯をかけて一歩ずつ手にしていくものです。

 しかし、人が生きていく上では、きりがないほど『不安』なことが起こります。

  いつ何があるか分からない世の中です。 現実に予想もしないようなことが起きています。

 そのような「心の不安。」に対して、どこまで備えておけるかといえば、いろいろなことを学び、備品を用意しておくくらいで、完璧にはできません。

  心の不安は、こうした現状を「受け止めきれない心。」から生じるものです。

 こうした不安は、やがて不満となり、これが結果として『悩み』の原因となります。 

 人間は弱いものだから、心は「不安定。」(不安)になるものであります。

  私達が、捉えていなくてはならない2つのことは、(1)は「人間は、心で生きている。」こと、(2)は「人間は一人では生きられない。」ということであります。

 (1)については、人が、「仕合せである、不幸だ。」と感じるのも心であり、「満足だ、不安である。」と感じるのも心であります。

 物質的に、地位・肩書に恵まれても「真実の幸福。」(生きていて、よかったあ)は、保証されるとはいえず、健康面とか「家庭の不和。」とかの悩みも、担保されるとは限らないのです。

  「真実の幸福は、心の安心感(不安でない)。」といわれます。

  (2)については、現代社会は、古来からの日本的「お互いさま。」の共同社会の伝統に対して、戦後、近代欧米思想である「近代的自我。」とか「個の確立。」が、アメリカの日本支配と、コミンテルンによる反日プロパガンダ(亡国を目的とするマスコミ)により、「人は、他人を頼らず一人で生きていかなければならない。」という教育が導入されていることに関係があります。

  これらは、グローバリゼーション、TPP加入、民主教育、家庭の破壊、歴史・伝統の否定、「日本国は、日本人だけのものでなく、皆のもの。」、「ヒューマニズム最優先(一人の命は、地球より重い)。」「開放経済。」「原発廃止。」…などに展開されています。

 そして、これらによって、社会的にも「心の不安。」は増長されているのが、現代社会の病因でありましょう…。

 そのうえに、溢れるほどの情報・知識に振り回されている私たちは、『自我』による「自己主張。」ばかりが強くなり、本来あるべき「公共心。」(公徳)を欠き、現状に不満を持ち(現状を受け入れられない)、『不安』の心は、やがて『悩み』となり、「悔いのない人生。」とはほど遠いものとなり、「心の不安定。」は、ストレスとなり『がん』になったりします。

  人は、知識・努力で、学問・科学で、「よい教え。」・考え方(哲学・宗教)で、「心の安定。」を得ようとします。

 しかし、「人の世の中、心(運命実体)で回る。」というのが真理(原理・仕組み)であります。

  ここに、天(自然)と共に生きる「安心感。」(不安のない)のすごさがあります。

 「安心感。」に包まれた人生を歩んだ結果、誰もが願う開運、つまり「悔いのない人生。」が手にできる素晴らしさ(運の良さ)があるのです。

 


朝日廃刊:「先の読めない人間は、迷い重ねて人生行くもの。」、心『迷う』今、なすべきは、何なのか??

2014-09-05 01:52:30 | 迷う心

「『心迷う』、そのときに…。」つまり、何かあったときに、「『何で? どうして…? え~っつ?」と思うとき、「あ~っ! これが、大切なのだ。」、というのです。

 その「迷う心、右往左往する心。」が、私達の人生、私たちの心の善悪、自分の『思い』を見直す、『大事なとき』だというのです。 (う~ん。 いきなり、『深い』ことを言うなあ…。) 

 すなわち、「先の読めない人間は、迷い重ねて、我が人生行くもの…。 心『迷う』今こそ、なすべきことは、何なのかなあ?」と『現実』(真実)を見直す、とても大事な機会(チャンス)だというのであります。

 (う~ん。 しかし実際には、心が、『迷って』いるときというのは、心が『右往左往』してしまっていて、心を『見直す』などという余裕は、私には、とてもなく、とにかく、『現場対応』で、あの手この手を打って、『裏目』の連続となりました…。)