<悩みの『原因』ならびに「当たり前。」と「有り難い。」について>
人は誰でも、希望を持ちその実現に努力していますが、なかなか自分の思うようにいかないために、それが『悩み』ともなっています。
自分の思うよう(自己中心的)に世の中が動いてくれることが希望であり、さらに「人は誰もが、自分が一番かわいい。」というのが『真理』(この世の仕組み)でありましょう…。
そこで世の中とか、相手とか、環境とかが「自分の思うように。」変わってくれることを希望するわけでありますが、これがそうはいかないことは誰もが嫌と言うほど体験しているわけでありますよ…。
ここで「希望通り。」いかない、すなわちこれが『悩み』となるわけですが、この『悩み』の原因について『真理』(道理・世の仕組み)では、次の3つであるとしています…。
1、自分の性格傾向(実体・遺伝的要因)からくるもの
2、過分欲(自分の能力・容量・持ち分を超えたもの)
3、喪失感
であります。
各々については他のブログで述べておりますが、ここでは、物のとらえ方として、現状を「当たり前。」こととして考えるか?「有り(有ることが)難い(難しい)。」ことなのだと考えるかというスタンスの違いについて述べてみましょう…。
現在ある状態を「所与のもの。」であり、「有ること。」が『当然』(当たり前)であると考えたときには、『不足』するもの、気に入らないものについて『不満』であり、もっと(モア・ザ・ベター)こうなってほしい(希望)と考え、そうならないことは『悩み』となるわけであります…。
けれども、現在の状態が『当然』ではなく、もしそれが「無かったとしたら。」と考えたとき、それはとても「困った・大変なこと。」になりはしないか?ということでありますよ…。
例えば、前歯が1本抜けてしまった(喪失感)としたら「見栄え。」も悪く『悩み』でもあるわけですが、前歯が無くなって初めて、有るのが「当たり前。」のことでなく「有り(有ることが)難い(難しい)。」ことだったと思うのでありましょうか…?
曽野綾子はこのようなときに、「失ったものを惜しむよりも、残されたもの(残りの歯があること)に『感謝』でありましょう…。」と述べています。
言い換えると、人は往々にして、「無いものねだりの、有るもの誹(そし)り。」をする傾向(性格)があるようであります…。
今有るものは有るのが『当然』(当たり前)だとしてして「蔑(ないがし)ろ。」にして、もっとこうなれば(希望)と無いもの「ねだり。」(過分欲)というのが私たちの常でありましょう。
「亡くなって知る、親の恩。」とか「こんなに早く亡くなってしまうのだと知っていれば、あれするなとか言わず、もっと好きにさせれば良かった…。」とかいう人がおりますよ…。
家族の行状や病気のことで『悩む』人もいますが、いるのが「当たり前。」だと思ってあれこれ『希望』(もっとこうなって欲しい・過分欲?)することになりますが、では「いないほうが良いのか?」と考えたとき、いるだけでも「有り難い。」ことだと思えるということでしょうか…??
『悩む』というのは心が悩むのであって(禅問答みたいだが)、その状態(それ自体ではなく)を(その人の)心が「受け止めきれない。」ところに生じるのだというのが『真理』(仕組み)に云われております。
例えば、借金の『悩み』があるというのは、「その借金がなければいいのに。」と悔んだりして「受け止め。」なければ『悩み』でありますが、「借りたものだから、少しづつでも返していこう。」と度胸良く「受け止める。」ことだというのですよ…。
さらに、世の中は「自分の思うように動かない。」というのがこれまた『真理』でありますから、相手とか環境(客観的事実)を「思うように変える。」ことはできないわけで、変えることが出来るのは自分の「考え方・物のとらえ方。」であるということであります。
このことについて、淡谷のり子が『人生相談』において、「我慢する(受け止める)か、別れるか。」のどちらかだと言っていましたよ…。
つまり、「相手を変えることなどできない。」から、自分が「変わる。」(受け止める)か、「別れる。」かのどちらかだというのですけれどね。
しかし、「別れる。」というのは「『縁』を切る。」ということで好ましいことではなく、「我慢する。」というのも実は『無理』がありますよ…。
ここでは、「相手を変えること。」はできず、変えるこたができるのは自分の心の受け止め方であることについて述べたわけであります…。
では、「どうしたら良いのか?」については、別バージョンとするとして、今回は『悩み』の原因とその扱いについての一端を述べてみました。
(続く)