チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

全ての情報は「誰か(犯人)の利益のプロパガンダ」で見ると『真相』が分かる。 チャンネル桜の「草莽崛起。」を応援しょう!

売国の朝日新聞廃刊・NHK解体を:『いま沖縄で起きている、大変なこと』

2014-09-09 23:07:04 | 沖縄

 那覇市で、国際通りにあるN観光ホテルのオーナー・Mさんに会いましたが、相変わらず大らかにしていられました…。

 なるほど、シナによる「沖縄侵攻計画。」は着実に実現に向かっていると実感できました…。 

 つまり、沖縄チャンネル桜に出演していた、恵隆之介さんから署名入りにて購入した本・『いま沖縄で起きている大変なこと』が現実になることを予感させるものでありました。

 9月6~8日の「チャンネル桜、沖縄・『龍柱』建設反対集会。」に参加して、シナの「沖縄のクリミア化。」戦略の実情を知りました…。

 沖縄チャンネル桜のパネラー金城テルさん(87歳)によれば、沖縄侵略のシンボルである『龍柱』は、観光地のあちこちに建設が進められていて、首里城近くの「都ホテル。」のロビーにも設置されているというのです…。

 那覇市の税金1億7000万円を支出して、シナに「4000万円。」で発注されシナを潤し、差額1億3000万円はシナと親中派の沖縄(琉球)人で山分けだとのことであります…。

 時あたかも、NHKは9月3日の「歴史秘話ヒストリア」で「遥かなる琉球 王国~南の島の失われた記憶~」を放映し、満州の清朝皇帝のことを「中国皇帝」と言い換え、琉球王国が「中国皇帝」の支配下にあったと洗脳する姑息なNHKの印象操作番組でありました。

 これらのことを、M社長に話したところMさんは「え~つ!」と目を丸くしていましたので、私も思わず「え~つ!?」と言って驚きました…。



チャンネル桜・瓦版:民主主義。 絶対権力としての、民主

2014-09-09 20:20:40 | 民主主義

 観念の論理として、あるいは言説の一貫性において、絶対・崇高が意味を持つのは、17世紀から18世紀にかけての、絶対君主の権力に関する、「神授説。」だけではないでしょうか? ゴッド(神)は崇高成存在と、最初から『定義』されているのです。

 それから授かった権力もまた、崇高だということになります。 民衆は、「どこから。」、崇高を「授かった。」のでしょうか?

 ニーチェは、「神は死んだ、人間が、神を殺したのだ。」といいましたが、まさにその通りで、『近代』とは信仰の感覚を希薄にしたという意味で、セキュラライゼーション(世俗化)の時代のことなのです。

 それがヴァルガラアイゼーション(俗悪化)に至っているのも、日々現認されているところではありませんか?  近代人は、半ば無自覚とはいうものの、神の地位におのれらを祭り上げたのです。

 そうでなければ、自分らに崇高な存在にのみ、ふさわしい主権を与えるわけがありません。 民衆主権(民主)の考えは、非現実だから不必要ということであるのみならず、有害きわまりないのだとそろそろ認めるべきです。

 神や仏ならぬ身としての人間は、これも定義上、特性においても理性においても、イムパーフェクト(不完全)です。 不完全な者が完全性をもつ者だけに限られるべき、主権者を名告(の)げるのは、僭称というものです。

 日本人は、民主の『主』をマスター(主人)といった意味で、使っていることが多いのでしょう。 マスターの能力が本当にあるのなら、さっさと公平(キャンディド)にして、無遠慮(キャンディド)な立候補者(キャンディデート)となって代議士に打って出て、議会で政策論議を丁々発止とやればよいではありませんか?

 そういう主人になれないからこそ、民衆は、選挙民に、甘んじているのです。 

 「多数参加と多数決。」は、一個の政治体制にすぎません。 その制度から正が出るか邪が出るか、それは、民衆の『資質』と代表者の『能力』とにかかっております。

 民主政治に『価値』があるとしたら、それは、「民衆の慣れ親しんでいる、慣習のなかには、『伝統』という、平衡感覚が『内包』されているに違いないので、民衆の声には、しっかりと耳を傾けるのがよい。」という、相当に消極的なものにとどまるものです。

 その『消極』に、『主権』を与えて、『積極』と化せば、いつなんどき、民衆がオクロス(衆愚)やモッブ(愚民)に、変じないとも限りません。

                   


朝日新聞の廃刊の目指す:高密都市こそ環境にやさしい

2014-09-09 17:00:09 | 日本の都市は世界一

 英・高密都市派プランナーのリーダー、R・ロジャースが書いた『都市、この小さな惑星の』のクローズド系の概念図は、ズバリ山手線に囲まれた東京都心部であります。

 そして、オープン系は中央線、田園都市線、小田急線、京王線といった都心と住宅地をつなぐ郊外電車の模型図そのままというものです。

 『大きくなりすぎた高密都市は、必ず環境劣化によって崩壊する。』という欧米都市計画学の常識を尻目に、東京は成長しつづけています。

 23区の就業人口は740万人、圏域居住人口は3100万にまで成長したが、規模の限界にぶち当たった形跡はありません。

 圏域居住人口でも、都心部就業人口でも、半分以下の規模の欧米の都市よりはるかに清潔で安全な都市として、膨大な人口の日常生活をサポートしています。  

  鉄道がネットワークとして機能しているから人口が増え続けても、経済成長が抑制されないのです。 規模が大きいほどコストが下がる鉄道は、圧倒的に大都市型の交通機関です。


 日本経済の突出したエネルギー変換効率は、欧米諸国では前世紀の遺物になった鉄道が、日本ではネットワークとして、有効に機能しているためなのです。 

欧米では、大都市圏でも鉄道で行ける場所は限られています。 乗り換えも不便ならダイヤも不正確で、車内もみすぼらしくて汚いです。

 日本の鉄道は乗り換えも便利で、ダイヤも正確で清掃や手入れも行き届いています。

 都心ならどこでもJR、私鉄、地下鉄の組み合わせで行けるから、エネルギー消費量が、小さく環境にやさしい暮らしが出来るのです。




朝日廃刊:(再録)チャンネル桜・水島総氏は、日本を救う大軍師・平成の黒田官兵衛

2014-09-09 16:02:06 | チャンネル桜

 日本文化チャンネル桜・水島総氏は、「敗戦利得者。」に占有されている戦後日本の政・官・財、大学・マスコミ・法曹界から「本来の『日本』。」(瑞穂の国)を取り戻すための「救世主。」であると考えるものであります。

 戦勝国・アメリカによる「戦後レジューム。」という堅いコンクリートの上に、11年前に一粒の麦の種(チャンネル桜)を蒔き、苦節の『草莽崛起』の努力が「今花咲き、実を付ける秋(とき)を迎えようとしています…。

 第2次・安倍晋三内閣を生みだし、逸材(本命)田母神俊雄の登場を練り出した政治軍略は、真に見事で大いに称賛するに値するものと感銘しています…。

 そして、申し訳ないことではあるのですが、反日勢力(中・韓・米、さらに国内各界)に囲まれた、四面楚歌の安倍内閣を叱咤激励かつ「支える。」氏という『国士』へのさらなる『期待』に、日本の命運が懸っています…。

 それにつけても、水島氏が頼りとする相談相手(ブレーン)が、素晴らしいと思います!

 すなわち、世紀の大天才・日下公人氏、それに日本が誇るべき大思想家・西部邁氏のお二人であります。

 まさに、「鬼に金棒。」であり、孫悟空(水島さん)の変幻自在の如意棒の働きを生み出す、知恵袋でありましょう。

 日本文化チャンネル桜、頑張れ日本!全国行動委員会(水島幹事長)の活躍により、ついにNHKに勝訴、朝日新聞不買・倒壊運動により、「30年間・誤報道の慰安婦問題記事取り消し。」を引き出すなど、いよいよ『草莽崛起』の力が世に発揮され始めています。

 この時節到来の折から、皆さんの賛同を得て『国益』のために日本国民を挙げて、水島総氏という「日本の宝。」を応援してゆきたいものと考えております…。






チャンネル桜・瓦版、朝日新聞・廃刊を目指す:道徳。 コモンセンス

2014-09-09 10:08:26 |    国家・道徳・憲法

 他者の言い分を理解するにつれ、そう簡単に折り合いのつかぬ、いくつもの意見が、存在することになる。 そして、他者理解が、価値判断を、ぜひもなく要求することに気づく。

 なぜといって、自分の精神のうちに入りこんできた、何人もの他者たちの間の優劣判断を、とりわけ他者たちを理解する以前の、自分と彼らの間のそれを下さなければ、自分が、分解してしまうからである。

 その優劣を、科学が決めてくれるというのは、『虚偽』だということは、分かっていた。 科学は、何らかの『前提』のもとに出発し、何らかの枠組みの中に収められ、何らかの方向へと発展させられる。

 そして、その前提・枠組み・方向は、「科学以外。」の判断によって定められ、その科学以外のものが、科学の成果の優劣を、おおよそ決めるのである。 その物事の優劣を決める肝心かなめの基準は、つまるところ、人々の間で、「長期間。」にわたって共有される、「コモン・センス。」(共同の感覚、および共同の意味)だということになる。

 そいう常識があるとしなければ、錯綜している、さまざまの感覚・意味を、整序できないのである。 そう分かって以来、価値の多様性とか意味の差異性を、呑気に主張する人々の表情に、エゴティズム(自己中心主義)をみるようになった。

 つまり彼らは、他者の抱いている、自分のとは異なる感覚・意味・価値に、実は、何の関心もないのである。 それで、彼らの精神は、葛藤から無縁でいることができているわけだ。 だから、彼らの唱える、個人主義や自由主義は、他者への冷酷な無関心と、隣り合わせになっている、と言わざるをえない。

 そうでないとしたら、彼らは、価値判断の問題に、いいかえれば、道徳の問題に死活の覚悟で、取り組んでいるはずである。

 あまりにも、多くのエゴティストに会ってきたせいで、他人が、私に無関心であり、私の行ったことに、馬耳東風であることについては、さしたる嫌悪は感じない。 ただ、自分にのみ関心があるという、私自身の精神状態が、おぞましいものに思われ、いつのまにやら、「他人のことを、理解しようとしている、自分がいる。」と、考えるようになったのである。

 コモンセンスとは、何かと尋ねているうち、少なくなっているとはいえ、コモンマン(普通人)とでもいうべき人がいて、そういう人々と世間話をしているときに、「コモンセンス。」を、濃く感じ取ることができた。

 同時に、状況の最先端にいて、のるかそるかの決断をしている人々が、いわば限界状態のなかで、喘ぐように欲しているのが、古典群からの知恵であり、普通人からの『激励』であることも察しられた。

 保守的精神は、『主義』という言葉によって、示されているような、思想の「イデオロギー化。」を嫌うなどと、悠長に構える気はなかった。 枯死寸前のコモンセンスを、生き永らえさせるための言論には、無理を承知で、とりかかるほかなく、で、好むと好まざるとにかかわらず、それは、言論戦の様相を帯びる。

 つまり、滅びゆくものに、哀切の情を寄せるとなると、内心では、負けを覚悟の喧嘩であるから、肩肘いからせても、仕様がないと知りつつも、せめて外見で、新奇なものにとびつく自称『進取』の態度を撃つについては、『守旧』と罵られるのを、誇りに思うくらいでなければ、ならないのだ。

 そう身構えてみると、意外にも、すでに滅びたと思っていたトラディション(伝統)が、つまり、歴史という時間の流れのなかで、「運ばれ来たりしもの。」が、随処で、命を長らえていることに、気づかされた。

 あえていえば、自分の感覚や意識の主観世界が、そして、それに対応する客観世界も、自分の決心一つで、相当に色合いを変えるものだと、改めて知らされたのである。 つまり、それまで、よく見えていなかったトラディションが、生きいきと現前するのを感じとることが、できるようになったということだ。

 換言すると、人間は、狂気に彷徨うのでないかぎり、保守的でしかありえないということである。 というのも、人間を人間たらしめている、この言葉というものは、そのほとんどが、すべてトラディションというほかないもの、だからである。

 独創的とかいう代物も、言葉の未来への運び手の一人たる自分が、その運搬途上で、言葉を揺るがせたり、ひび割らせたりしている程度のことにすぎない。