チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 世界大動乱(1)。地銀・信金・農協の大再編成:O大学病院・がんカルテ精査、80%は、がん治療副作用で死亡

2016-09-10 22:28:29 | 価値

  <Sさんとのメール:世界大動乱(1)>

 『世の流れは、大きく変る…』とあるわけですが、近い将来に50%以上の職種がなくなるというのは、興味深いですね!

 無人タクシーとか長距離輸送トラック運転手が要らなくなるなんて、考えられますか?

 そういえば、駅員が改札口で「切符切り。」をしていたのは、つい最近のことですよね? (先ごろ行ったJR北海道では、スイカがなく切符切りをやっています!)

 地銀、信金・信組が大幅減(10分の1以下、25万人→5000人!??)になるというのも、ATM→コンビニ→スマホ決済とどんどん変化していれば、銀行支店とか窓口職員はいりませんよね。

 「どうなるのか?」は、お任せで「高みの見物。」(練って待ちますがね)で良いのですが、「何もやらなくても、今までも上手くいっていましたよ…。」(銀行役員)という「茹で蛙。」状態の世の人々が多いので、楽ですねえ…!


 人生の「不確実性。」:チャンネル桜・瓦版、官邸にも影響を与えているSakuraSoTvをご覧ください

2015-05-27 05:28:14 | 価値

    <人生の「不確実性。」>

 人間は、単に生きるだけでなく、効率的に生きるだけですらなく、「良く生きる。」ことについて本格的な関心を持つ動物である。

 なぜそうなるかというと、人間は『未来』の、というより『只今』の時間意識の流れの「不確実性。」の中で自分が何らかの『選択』をなさねばならないことを自分で意識してしまう存在だからである…。

 しかも、その「不確実性。」たるや、技術的な効率の計算によって取捨をするわけにはいかないような程度に達する。

 その意味で、たえず『危機』に直面しているのが人間の生というものであり、そして危機のただなかにおいても選択が可能となるのは、『良心』という価値であると言えるでしょう…。

 つまり、『価値』の感覚なり想念なり観念なりがなければ、人間は「選択不能。」に陥るだろう。

 その価値が、物の見方に依存して「相対的。」(価値相対主義)だといわれる。

 そして、(他者の価値を理解してしまうことの当然の帰結として)自分のうちに複数の価値が『併存』していると言われる。(世の中いろいろあらあな…、「価値相対主義。」という嘘話)

 そうなると、価値相対主義とは、価値観における『分裂』とそれゆえの「行為選択。」における『不能』とを是認する立場だということになる…。

 この価値の「分裂症。」(状況適応主義)と行為の「不能症。」とを避けようとすると、真理相対主義の場合と同じように、他者の価値への「不感症。」に陥らざるをえないのである。

 (ブログ:27・5・2『価値相対主義』を参照ください)

 

 

 

 


 「価値『相対』主義。」は、ニヒリストを生み出す:チャンネル桜・瓦版、国家は株も土地も吊り上げる

2015-05-02 18:33:10 | 価値

      <「価値『相対』主義。」は、ニヒリストを生み出す>

 「価値相対主義。」が絶対視されているこの時代にあっては、「価値の多様性。」がもてはやされ、「状況適応主義。」を生み出す。

 そうなると状況が変わるにつれて適応の仕方が変わるため、昨日の適応の方向や速度が今日のそれらとは一変するということが起こりうる…。

 例えば、戦争中は好戦主義者(朝日新聞)であったものが、敗戦となれば平和主義者に急変するというのがそれだ。

 そのような筋道なき変化の過程を「価値相対主義。」者が明確に記憶していれば、その『自己』はまたしても「価値分裂症。」に陥る…。

 つまり、自己の「インテグリティ(人格一貫性)。」を自分で信じられなくなるということである。

 そして、その自己不信、さらには自己喪失がその人を「ニヒリスト。」に仕立てるのである…。

 ニヒリストであるにもかかわらず現代人は状況へのアンガジュマン(関わり)をやめない。

 「科学者。」であれ『世人』であれ、インテリゲンチャの『政治』主義的な知識やインテリジェントの『専門』主義的知識を振りかざして、状況への関与をなしつづけている…。

                                         

 

 


 価値喪失:チャンネル桜・瓦版、高齢者医療費激増は、低すぎる自己負担率が原因

2015-04-21 23:06:04 | 価値

       <価値喪失>

 日本社会が方向喪失、価値喪失の姿をさらしつつある。

 敗戦後のアメリカナイゼーションによって、日本社会は産業主義による「豊かさ。」そして民主主義による「等しさ。」という方向に決定的に傾いたわけだが、それもいまや終焉の兆しをみせている…。

 「豊かさ。」と「等しさ。」に対して人々が過剰適応した結果、それらの価値を懐疑するという意識が顕在化しつつある。

 つまり、「豊かさ。」と「等しさ。」は人間の生活にとって、社会の成り立ちにおいて、目的ではなく単なる『手段』ではないのかという懐疑である…。

 「豊かさ。」の絶頂において『退屈』がいや増し、「等しさ。」の極端において「苛立ち。」が募っている。

 「豊かさ。」と「等しさ。」を超える、より上位の価値を求めたいという気持ちが人々の間に広がっているのである…。

 「上位の価値。」とは、かっては宗教であり、芸術であり、そして学問であった。

 しかし、「豊かさ。」と「等しさ。」の歯車がめぐりに廻った挙句、宗教、芸術そして学問は、それぞれ噛み砕かれてしまったも同然のありさまになった…。

 そして同時に、価値探究方法としての良き「言葉遣い。」、良き『討論』といったものの風習が壊されてしまった。

 さらに、言葉遣いと討論の崩壊のあとにマネタリズム(貨幣主義)とテクノロジズム(技術主義)という、いわば「沈黙の言葉。」だけが果てしなく増殖している…。

 その結果、教育についていうならば、学校という主体は貧血し、学問という客体も色褪せ、そして学者と学問の相互作用の場である学校もまた荒れ果てている。