面白かった。これは凄く面白かった、ノエイン。
こういうことがあるから深夜枠はやめられません。
思い起こせば第1話の出だしから凄かった。
きっとそこで心をつかまれていたんだと思う。
それからは、まだ作中の意図が掴めなくて、良く分からないまま展開していったんだけど、それがじわじわと変わっていったのはいつだっけな?
きっとハルカがラクリマに行ったあたりだった頃だと思う。
その頃から、ああこの感想書きたいなって思い始めたんだった。
そしてそれが爆発したのがあの第12話。
あれは凄かった。本当に凄かった。
そして何より録画を失敗していた自分が痛かった(泣)。
後にも先にも、ノエインで録画を失敗したのはこの第12話だけだったんだ。
でも、一番凄かったのも第12話なんだけど。
そこから書き始めたノエイン。
今、最終回を観終わって、やっぱりすごく面白かった。
大作ではないけれど、意欲作。
こういう雰囲気で、こういうのを作ってやろう、という意気込みが凄かった。
独特の静寂な雰囲気と、それにあわせた作画、そして音楽がとても良かった。
そして何より、僕が好きだったのは、量子論というギミックを用いて一見複雑そうに隠していたそのテーマだった。
これはこれまでの感想の中で何度となく思ってきたことだったんだけど、テーマ自体は凄くシンプル。
でも、それを量子論で隠して、隠すことでテーマを浮かび上がらせる、そういう手法。
それで浮かび上がってきたテーマが、たぶんこの作品の雰囲気とマッチしていて、それがとっても好きだったんだ。きっと。
最終回まで凄く面白かったです。
ありがとう。
* * *
ノエインという作品のテーマ部分については、これまで一貫して感想を書いてきたんですが、今回はその回答のオンパレードでした。
そのあたりがそのまま語られたくだりなんかは、かなりしびれましたよ。
今回一番しびれたポイントはですね、ハルカでも、カラスでも、ユウでもなく、トビくんなんですよ。
それはこれまで、ここがテーマだよね、という部分をそのまま語ってくれた部分なんです。
違うんだよ
レイズシステムでバーチャルな観測者を作り出しても駄目なんだ
存在を確定させるには
人が人を観測し、認識することが重要なんだ
お互いを認識し、分かり合えれば
存在は確定できるんだよ
この時空に来て ハルカと出会って 分かったんだ
人は存在を認識することで、それを確定できるんだよ
まさにここ。
第18話「ワルイユメ」の感想でも書いている(ひょっとするともっと前にも書いたかも)んですが、
観測されることで初めて過去・現在・未来が確定される、逆に言えば観測されなければ常に存在は可能性の世界・確立の世界に過ぎないという不安定さ。
こういう量子力学の考え方を、ハルカとユウを中心として、大切に想っている人のことを認識することで、それは仮想でも確立の世界でもなく、現実なんだよ、と認識していくプロセスの対比がこの作品の妙味のような気がしますね。
#むしろこれは監督の思春期における存在の確かさ・不確かさに不安を覚えた実体験から、量子力学を演出のギミックとして捉えて作られた物語なんじゃないかと思えるほどです。
つか、それって対比じゃなくて、人を想って互いに認識するってことは=観測して認識するってことと微妙に同義なんだよね。
という感じで。
今回、奇しくも同じ第18話の感想で、トビくんはきっとこの物語の語り部なんだな、と思ったところに、まさにそれをトビくんが語ってくれたわけで、もうこの時点で僕としてはこの作品観て、もう満足でした。
そして語り部は語るべき物語がなくなったら去るんじゃないか?なんて思っていたら、その通り語り部は去ってしまいました(泣)。
また、今回、ノエインはこんなことを言っているわけですが、
私は誰だ?
誰も私を認識しなかったのか?
これが意味していることって、ノエインという存在=他者の拒絶という意味なんですよね。
他者を拒絶した世界、それって世界に誰もいないのと同じ。
それってこの物語上のシャングリラなんですよ。
だから自分を認識してもらうこともできないし、他人を認識することもできない。
ましてや自分にとって大切な人すらもそこには居ないんです。自分だけの世界を創って拒否しているのだから。
だから自分自身を見失ってしまう。
だから不確定な存在になってしまう。
しかし、これもある意味のメッセージ。
「お前たちは必ず戻ってくるよ この時空に」という捨て台詞は、可能性の未来も、他者への拒絶、絶望に対する敗北、希望を持てなくなったとき、いつでもその時空=もう一人の自分は顔をのぞかせる、そういうメッセージがあったんじゃないかなぁ。
ただね、今回の最終話を見ていて確信したのは、この作品って絶対に若者に向けてのメッセージだと思うんですね。
赤根監督は「自分探し」という言葉を使っていたんですが、大きなメッセージとしては、もっといろんなことやってみればいいじゃん、自分にはできないとか、それは無理だとか、いろいろ悩むのも大事だけど、でもまずは何でもやってみようよ、みたいな、そういうメッセージが感じられるんですよね。
それこそ、確定された未来なんてない、選択肢の無い未来なんてない、だからまずやってみようよ、失敗するかもしれないけれど、未来は辛いこともたくさんあるかもしれないけれど、でも可能性は、可能性の未来は無限に分岐してるんだよ、だからまずやってみようよ、みたいな、むしろ若者へのエールなんじゃないのかなぁ。
これを後押ししたのが実はアトリ。
今回のアトリはまさに光ってた。
そんなアトリについて僕は第23話「オワリ」の感想で、
アトリってあのちょっとどころかかなりイッてしまったキャラが魅力だったんですが、それでも、彼がラクリマを飛び出した行動原理は一貫していたんじゃないかと思えます。
龍のトルクが欲しかった?
ほんとにそうだったのか?
アトリこそ、実は可能性の未来を信じたかった、そういうキャラだったんじゃないかなぁ。
だからこそ、鈴村ボイスで語る
でもよ、未来なんて分かんねーから面白いんだろ(アトリ)
に、しびれるわけです。
そしてその回答になっていたのが、今回のアトリのこの台詞。
未来を消させやしねーよ!!
トビくんがテーマの語り部であるならば、アトリはテーマの回答者だったんじゃないかな。
#ほんとの回答者はユウでありハルカであるんですが、どちらかというと二人は模索者であり、アトリんは制作サイドの答えをズバリ言う役だったのかもね。
ノエインという存在は、だから反面教師。
時空を収束させたかったのは、辛いことに耐え切れずゼロにしたかったから。
自分を受け入れてくれる存在を失ったから、他者を拒否してしまった存在。
収束させたかったのは、リセットしたかったから。
それに対してハルカとユウを通じて描いたのは、大切な人を認識することで、自分自身を保っていられる、相手を理解しようすることで、自分も理解される。
誰かがいるから、自分もいる。
世界は自分ひとりで構成されているんじゃなくて、きっと周りに自分を見てくれる人がいる。
それを大事にしようよ、みたいな対比なんじゃないのかな。
ちょうど第21話「マボロシ」の感想でもこういうことを書いていて、
量子論の不確定さを引き合いに出して難しい内容を呈しているとは思いますが、恐らくそれは主題を浮かび上がらせるためのギミックだと思うんですよね。
赤根監督は「自分探し」と仰っていましたが、未確定で不安な未来に対して、どうやって自分を認識していくか、それは一人でじゃなくて、大切な相手を認識する、ということなんじゃないかな、と思うんですけどね。
ユウが抱く現在への不満なんていうのも、恐らく誰しもが抱えた経験があるものかもしれないし、何となくメッセージとしては流されるな、自分をちゃんと見るんだよ、不確定な未来に怯えるんじゃなくて、今を自分をちゃんと大事にしようよ、大人になったら懐かしくさえ思うよ、みたいな感じなんじゃないかな。
今回の最終話で、未来のアイや、ちょっと未来のユウ、現代のイサミなんかが、現実=今を見据えて、状況を受け入れていく描写が成されているんですが、それがやっぱりここの回答になっていたんじゃないかと思います。
つまり、今を、そして自分を大事にしようよ、みたいな。
絶望することなく、今でも何でもできるかもしれない、可能性の未来はあるんだよ、そういうエールなんじゃないかな。
最終話ということもあって長々と書いてしまったのですが、このノエインという作品、個人的には非常に面白かったです。
26話構成というのがやっぱり良い長さなのかのなぁ、なんて思います。
こうしたSFの中に隠された、シンプルなテーマを描く作品っていうのが、やっぱり個人的には好きなんだなと改めて実感です。
またこういう意欲作が出てくるといいなと、心から思います。
こういう面白い作品が世に出たことに、何となく感謝の気持ちです&終わっちゃうのが寂しいですね。
このスタッフの皆さんの次回作にも期待しちゃいます。
■ノエイン もう一人の君へ DVD第4巻
フクロウ、カッコイイなコレ。
こういうことがあるから深夜枠はやめられません。
思い起こせば第1話の出だしから凄かった。
きっとそこで心をつかまれていたんだと思う。
それからは、まだ作中の意図が掴めなくて、良く分からないまま展開していったんだけど、それがじわじわと変わっていったのはいつだっけな?
きっとハルカがラクリマに行ったあたりだった頃だと思う。
その頃から、ああこの感想書きたいなって思い始めたんだった。
そしてそれが爆発したのがあの第12話。
あれは凄かった。本当に凄かった。
そして何より録画を失敗していた自分が痛かった(泣)。
後にも先にも、ノエインで録画を失敗したのはこの第12話だけだったんだ。
でも、一番凄かったのも第12話なんだけど。
そこから書き始めたノエイン。
今、最終回を観終わって、やっぱりすごく面白かった。
大作ではないけれど、意欲作。
こういう雰囲気で、こういうのを作ってやろう、という意気込みが凄かった。
独特の静寂な雰囲気と、それにあわせた作画、そして音楽がとても良かった。
そして何より、僕が好きだったのは、量子論というギミックを用いて一見複雑そうに隠していたそのテーマだった。
これはこれまでの感想の中で何度となく思ってきたことだったんだけど、テーマ自体は凄くシンプル。
でも、それを量子論で隠して、隠すことでテーマを浮かび上がらせる、そういう手法。
それで浮かび上がってきたテーマが、たぶんこの作品の雰囲気とマッチしていて、それがとっても好きだったんだ。きっと。
最終回まで凄く面白かったです。
ありがとう。
* * *
ノエインという作品のテーマ部分については、これまで一貫して感想を書いてきたんですが、今回はその回答のオンパレードでした。
そのあたりがそのまま語られたくだりなんかは、かなりしびれましたよ。
今回一番しびれたポイントはですね、ハルカでも、カラスでも、ユウでもなく、トビくんなんですよ。
それはこれまで、ここがテーマだよね、という部分をそのまま語ってくれた部分なんです。
違うんだよ
レイズシステムでバーチャルな観測者を作り出しても駄目なんだ
存在を確定させるには
人が人を観測し、認識することが重要なんだ
お互いを認識し、分かり合えれば
存在は確定できるんだよ
この時空に来て ハルカと出会って 分かったんだ
人は存在を認識することで、それを確定できるんだよ
まさにここ。
第18話「ワルイユメ」の感想でも書いている(ひょっとするともっと前にも書いたかも)んですが、
観測されることで初めて過去・現在・未来が確定される、逆に言えば観測されなければ常に存在は可能性の世界・確立の世界に過ぎないという不安定さ。
こういう量子力学の考え方を、ハルカとユウを中心として、大切に想っている人のことを認識することで、それは仮想でも確立の世界でもなく、現実なんだよ、と認識していくプロセスの対比がこの作品の妙味のような気がしますね。
#むしろこれは監督の思春期における存在の確かさ・不確かさに不安を覚えた実体験から、量子力学を演出のギミックとして捉えて作られた物語なんじゃないかと思えるほどです。
つか、それって対比じゃなくて、人を想って互いに認識するってことは=観測して認識するってことと微妙に同義なんだよね。
という感じで。
今回、奇しくも同じ第18話の感想で、トビくんはきっとこの物語の語り部なんだな、と思ったところに、まさにそれをトビくんが語ってくれたわけで、もうこの時点で僕としてはこの作品観て、もう満足でした。
そして語り部は語るべき物語がなくなったら去るんじゃないか?なんて思っていたら、その通り語り部は去ってしまいました(泣)。
また、今回、ノエインはこんなことを言っているわけですが、
私は誰だ?
誰も私を認識しなかったのか?
これが意味していることって、ノエインという存在=他者の拒絶という意味なんですよね。
他者を拒絶した世界、それって世界に誰もいないのと同じ。
それってこの物語上のシャングリラなんですよ。
だから自分を認識してもらうこともできないし、他人を認識することもできない。
ましてや自分にとって大切な人すらもそこには居ないんです。自分だけの世界を創って拒否しているのだから。
だから自分自身を見失ってしまう。
だから不確定な存在になってしまう。
しかし、これもある意味のメッセージ。
「お前たちは必ず戻ってくるよ この時空に」という捨て台詞は、可能性の未来も、他者への拒絶、絶望に対する敗北、希望を持てなくなったとき、いつでもその時空=もう一人の自分は顔をのぞかせる、そういうメッセージがあったんじゃないかなぁ。
ただね、今回の最終話を見ていて確信したのは、この作品って絶対に若者に向けてのメッセージだと思うんですね。
赤根監督は「自分探し」という言葉を使っていたんですが、大きなメッセージとしては、もっといろんなことやってみればいいじゃん、自分にはできないとか、それは無理だとか、いろいろ悩むのも大事だけど、でもまずは何でもやってみようよ、みたいな、そういうメッセージが感じられるんですよね。
それこそ、確定された未来なんてない、選択肢の無い未来なんてない、だからまずやってみようよ、失敗するかもしれないけれど、未来は辛いこともたくさんあるかもしれないけれど、でも可能性は、可能性の未来は無限に分岐してるんだよ、だからまずやってみようよ、みたいな、むしろ若者へのエールなんじゃないのかなぁ。
これを後押ししたのが実はアトリ。
今回のアトリはまさに光ってた。
そんなアトリについて僕は第23話「オワリ」の感想で、
アトリってあのちょっとどころかかなりイッてしまったキャラが魅力だったんですが、それでも、彼がラクリマを飛び出した行動原理は一貫していたんじゃないかと思えます。
龍のトルクが欲しかった?
ほんとにそうだったのか?
アトリこそ、実は可能性の未来を信じたかった、そういうキャラだったんじゃないかなぁ。
だからこそ、鈴村ボイスで語る
でもよ、未来なんて分かんねーから面白いんだろ(アトリ)
に、しびれるわけです。
そしてその回答になっていたのが、今回のアトリのこの台詞。
未来を消させやしねーよ!!
トビくんがテーマの語り部であるならば、アトリはテーマの回答者だったんじゃないかな。
#ほんとの回答者はユウでありハルカであるんですが、どちらかというと二人は模索者であり、アトリんは制作サイドの答えをズバリ言う役だったのかもね。
ノエインという存在は、だから反面教師。
時空を収束させたかったのは、辛いことに耐え切れずゼロにしたかったから。
自分を受け入れてくれる存在を失ったから、他者を拒否してしまった存在。
収束させたかったのは、リセットしたかったから。
それに対してハルカとユウを通じて描いたのは、大切な人を認識することで、自分自身を保っていられる、相手を理解しようすることで、自分も理解される。
誰かがいるから、自分もいる。
世界は自分ひとりで構成されているんじゃなくて、きっと周りに自分を見てくれる人がいる。
それを大事にしようよ、みたいな対比なんじゃないのかな。
ちょうど第21話「マボロシ」の感想でもこういうことを書いていて、
量子論の不確定さを引き合いに出して難しい内容を呈しているとは思いますが、恐らくそれは主題を浮かび上がらせるためのギミックだと思うんですよね。
赤根監督は「自分探し」と仰っていましたが、未確定で不安な未来に対して、どうやって自分を認識していくか、それは一人でじゃなくて、大切な相手を認識する、ということなんじゃないかな、と思うんですけどね。
ユウが抱く現在への不満なんていうのも、恐らく誰しもが抱えた経験があるものかもしれないし、何となくメッセージとしては流されるな、自分をちゃんと見るんだよ、不確定な未来に怯えるんじゃなくて、今を自分をちゃんと大事にしようよ、大人になったら懐かしくさえ思うよ、みたいな感じなんじゃないかな。
今回の最終話で、未来のアイや、ちょっと未来のユウ、現代のイサミなんかが、現実=今を見据えて、状況を受け入れていく描写が成されているんですが、それがやっぱりここの回答になっていたんじゃないかと思います。
つまり、今を、そして自分を大事にしようよ、みたいな。
絶望することなく、今でも何でもできるかもしれない、可能性の未来はあるんだよ、そういうエールなんじゃないかな。
最終話ということもあって長々と書いてしまったのですが、このノエインという作品、個人的には非常に面白かったです。
26話構成というのがやっぱり良い長さなのかのなぁ、なんて思います。
こうしたSFの中に隠された、シンプルなテーマを描く作品っていうのが、やっぱり個人的には好きなんだなと改めて実感です。
またこういう意欲作が出てくるといいなと、心から思います。
こういう面白い作品が世に出たことに、何となく感謝の気持ちです&終わっちゃうのが寂しいですね。
このスタッフの皆さんの次回作にも期待しちゃいます。
■ノエイン もう一人の君へ DVD第4巻
フクロウ、カッコイイなコレ。