1年半をかけて語られてきた物語も最終話となった第25話「再生」。
刹那とリボンズの最終対決にしびれました。
そして意図的に消化不良にしたと思われる部分はなんと劇場版へ。
いやー、まじで面白かったです、ガンダムダブルオー。
これまでのガンダムシリーズに無いオリジナリティーがありながら、どこかでファーストガンダムへ真っ向から挑戦している、という姿勢が非常に好きでした。
そして難解に仕組まれた仕掛けが徐々に徐々に、そして2ndシーズンからは一気に開花し始め、ラストへ向かうに従って「対話」というキーワードが本当に登場人物同士の「対話」として直接の台詞回しに投影されていくという、ガンダムシリーズで究極の明示的相互理解ストーリーだったんじゃないかと思います。
ガンダムダブルオーでは、作品のテーマ的な部分を暗喩的にせず(マクロ描写するところは当然暗喩表現となるんだけれども)、個人ベースの登場人物が語る部分というのは直接的な「対話」として分かりやすく表現していた、というのが特に印象的でした。
ラスト部分では沙慈とルイスという、これまたダブルオーの裏主人公たち二人によってエピローグが語られていき、その中で「分かり合う努力をしないといけない、世界についてもっと関心を持たないといけない」という強いメッセージを、沙慈とルイスという放送当初最も視聴者の目線に近い二人にして、最終的には凄く大きな悲劇の渦の中に巻き込まれていった最も視聴者的に感情移入対象となった二人に「対話」として語らせる、というのが本当に象徴的だったんじゃないでしょうか。
先週がテーマ的には最終回か?とも思わせる内容でしたが、それどころか、さすが最終回。
テーマ部分に絞っていけば、更に上の表現・演出をしてくれたと思います。
最後の最後まで「対話」の重要性に拘ったガンダムダブルオー。
凄く面白かったです。
物凄くたくさん書きたいことがあるんだけれども、順を追って書いていきたいと思います。
僕の中でガンダムダブルオーは、特に2ndシーズンに入ってからなんだけれども、ダブルオーという物語はP・F・ドラッカー的な物語なんだ、というのを何度か書いてきました。
端的に言うと、ドラッカーは「真のイノベーション」についてこんな感じのことを言っているんですよね。
イノベーションというのは少数の天才がなし得るものではなく、体系化された組織・方法論によってなされるべきである、と。
要するに、現在世に出回っている「イノベーション」という言葉は誤用であって、一部の先進者のみがイノベーションを成しうると考えられているが、実はそうではなく、組織的に、ある集団の中で自然発生的に生まれてくる仕組みを作ることにある。一部の先進者のみにスポットが当たるものではない、と言っているわけです。
つまりこれがダブルオーでの「イノベイター」になっていたわけですね。
最終話でまずしびれたのが、リボンズとティエリアの「対話」だったのですが、ここをまさにドンズバで言い表わしていたところに僕は正直鳥肌が立つくらい嬉しかったですね。
そもそも「イノベイター」と「イノベイド」は別のものであって、「イノベイド」が「イノベイター」ではない。
一部の「イノベイド」が人類を導く、という発想自体が間違っている。
それこそ「イノベイター」の誤用である、みたいな。
人類の革新、進化を促していく仕掛けであって、コントロールする立場のものではない、とティエリアが明言するところ、これはしびれましたね。
ラストではティエリア自身がヴェーダの一部となり、人類を見守っていく立ち場に回っていくわけで、そういう意味では彼も「イノベイター」としての資質みたいなのがあるんじゃないかと思ったりもしますね。
人類の革新を促す仕組みの一部となっていくのだから。
さらにティエリアとリボンズの「対話」ではもう一つ重要なことを語っていて、それは上からの立場で人を見下ろして理解しようとしない、という点なんですよね。
これもこの感想で大分語ってきたことの一部なんですが、水島監督のインタビューなんかでも、常に相手の上位に立とうとする姿勢は、相手を理解するという姿勢になく、むしろ相手が何をするか分からないから、怖いから上位に、優位なポジションに立とうとする、というわけです。
こういう中で「対話」自体が成立するわけもなく、事実リボンズは「対話」すら拒み、この作品のマクロテーマであるところの対話による相互理解というところの対極に位置する、という結果になっているわけなんですよね。
更に、やはりこれも、という感じだったのは、リボンズの存在理由なんですよ。
自分でもいつごろから書いたか忘れましたけど、リボンズの行動原理は自分が廃棄されたことにあって、その有用性の証明のために、自分のプライドのために行動しているんじゃないか、という点です。
上位種である(と自分が思っている)はずの自分が廃棄されるのはおかしい、イオリア計画のために生み出された自分が廃棄されるのはおかしい、ならばその計画の遂行自体を自分がやってしまえば良いじゃないか、つまり自分の有用性を証明することがリボンズ自身の存在理由であり、それをやらないと自分の存在価値を認められない、という目的と手段が入れ替わってしまっている、という点なんですよね。
いやー、これをずばり刹那が切り込んで、リボンズがついに自分の本心を吐露する、という展開が、これまでずっとそうじゃないかと思ってみてきた僕としては非常に痺れる展開でした。
水島監督が自分のエゴを押し通そうとする人間はコミュニケーション不全に陥って自滅してしまう、というようなことを仰ってましたが、リボンズしかり、王留美しかりネーナしかり、アリーしかり、とそういった登場人物はバッドエンドに辿り着いてしまっているという点(さらに孤独)で、これもまたひとつのテーマの体現だったんだろうなぁ、としみじみ。
とはいえ、リボンズと刹那の新旧ガンダムバトルは僕個人としては最高にしびれましたね。
ガンキャノンっぽいのが変形して最新型のガンダムになって、更にツインドライヴという最終奥義まで披露したり、それが刹那のダブルオーとグリグリの大激戦を繰り広げるあたりは、見ていてこれぞバトルエンタテイメント!と痺れてしまいましたね。
いやー、最後1話のために新型ガンダムを投入してくるなんて豪気だ!!
さ・ら・に、本当に痺れたのはこの後。
やっぱりエクシアと0ガンダムの最終対決。
これは最高でした。
痺れた。
何に痺れたかって言うと、僕はこのガンダムダブルオーはこれまでのガンダム作品とアプローチの仕方は違えど、実は最もストレートにファーストガンダムに挑戦している作品なんじゃないかって、ずっと思ってきたので、その最終対決がアムロの乗るファーストガンダムと、新ガンダムで新しい形を切り開いていく最初のガンダムとして登場したエクシア(R2!!)の対決っていうのは、まさにファーストガンダムへのガチンコ勝負になってるじゃないですか。
まじで痺れました。
だってあの0ガンダムのビームサーベルの構え。
あれだけで分かる人は分かっちゃうでしょう。
それもアムロですよ。
それがガチで殴り合って、ラストはエクシアと刺し違えるじゃないですか。
燃えた。
いやー、バトルエンタメとしても非常に面白かったです。
ダブルオーという作品とファーストガンダムの真っ向勝負。
素晴らしい勝負でした。
いやー、やっぱりエクシア、かっこいいなぁー。
MG出たら買うな、間違いなく。
あと、たくさん書きたいところもあるんだけれども、テーマ的な部分で行けばあと一つだけ。
この物語の小さな物語のエンドとして、沙慈とルイスの物語があって、それは全体から見ると小さい二人だけの話なんだけれども、作品全体としては裏主人公であり、もうひとつの大きな流れだったと思うんですよね。
愛すべきバカップルだった二人が、戦争に巻き込まれてしまう、戦争をリアルに体験してしまうことで離れ離れになって、そして最後は憎しみが増幅されて、殺しあう仲までエスカレートしてしまう。
だからこの物語としては、そんな最も視聴者に近かったはずの二人が、最も遠い存在になってしまった、けれども、沙慈がルイスを取り戻す、その物語だったと言っても過言ではないと思います。
その中で沙慈が最後までルイスに語りかけ、叫び続け、理解して受け入れようとしたからこそ、いくつものバッドエンドを超えてグッドエンドに辿り着くことができた。
そのグッドエンドを演出した二人の指輪。
この指輪が並んで見える模様、それも実は「∞」を意味していたのかもなぁ、なんて思います。
つまり、あの指輪も「∞」=ダブルオー、ダブルオーという作品を象徴していたものの一つだったんじゃないかって。
その二人がラストでエピローグとして、もっと理解しあわないといけない、もっと世界について知らないといけない、と最も身近で最も簡単で、最も大きなテーマをメッセージとして残していく。
そんな終わり方に、このガンダムダブルオーという作品のメッセージの伝え方を見た気がします。
作品の当初、水島監督は群像劇にしたいと思っていたけれども、実はそれだと各キャラの台詞が少なくなって黒田脚本の良いところを消してしまっていた、ということに気がついたと言います。
黒田さんは黒田さんで監督の世界感を表現しようと歩み寄っていた。
でもその結果、非常に淡々と進んでしまって、キャラが立たなくなってしまった、というようなことをインタビューで仰っていたように思います。
ここから二人の「対話」があって、今の形に落ち着いたと言われていて、この明示的なメッセージや作風はそういった「対話」を通じて作られたんだなぁとしみじみ思います。
あと最後にマリナ姫から刹那への手紙なんだけれども、実はこれが僕にとって一番の回答だったような気がしました。
ダブルオーの描く∞の輪が地球を覆って、一瞬でも人類が分かり合える、という展開もありなのかと思っていました。
それはそれでドラマティックだな、なんて。
でもね、このダブルオーって凄くマクロの物語とミクロの物語を使い分けてるんですよね。
マクロ的にはまだまだ人類は分かり合えないんだ、とかなり現実を直視した回答を提示した、というのが最終回だったと思うんです。
けれども、ミクロ的には「対話」を重ねることで沙慈とルイスのようにグッドエンドに辿り着ける、コーラサワーとカティさんのように思いを伝えて結婚するエンドもあった。
やっぱりマリナ姫と刹那、ルイスと沙慈、というダブル主人公制を引いたのは、そういうマクロとミクロの描き分けをして、そういうエンドになるように考えていたのかもしれないなぁ、なんて。
もちろんマリナ姫と刹那はマクロ側を投影した存在になっているんだけれども、マリナ姫から刹那への手紙が届かなかった、刹那は読んでいない、というのがマクロ的に人類はまだまだ分かり合えない、という部分の回答を悲しくも提示したように思えてしまいました。なるほどなー、みたいな。
けれどもね、その中でマリナ姫の言う、優しさの連鎖みたいなのが広がっていく、それを絶えず追求していくことが自分たちには必要なんだ、というメッセージ。
ある意味このマリナ姫の独白が一番最終話で深かったんじゃないのかな、と思うし、それが沙慈が語った言葉とリンクしているんじゃないかと思うわけです。
だからダブル主人公、だからダブルオー、みたいな。
メッセージ部分以外のところについては、実は消化不良なところも感じていたりしたんですが、謎が解けました。
答えは劇場版。
なるほど。
この物語の延長線上になるかどうかはまだ分からないですけど、ラストでイノベイドたちが民衆に紛れ込んでいて、統一政府にもアニューと同じ顔をしたメンバーもいたし、リボンズタイプもいたわけなので、まだまだ何かありそうですよね。
ティエリアにしても、マリーを戦場から遠ざけるためにソレスタルビーイングから外れているけれども、その表情と、マリーが実はティエリアが抱える矛盾を見抜いているんじゃないか、という表情に、まだまだ続きがあるんだな、と思わせますよね。
不死身のコーラサワーは本当に不死身だったし(笑)。
カティさんと結婚しちゃうし!!
#おめでとう!!
ロックオンなんかは最後の相手がアニューと同タイプのリヴァイブだったりと、演出的にも憎いなぁと思いながら見てました。
そういう中でミスター・ブシドー改め、グラハム(いや、もともとそっちが本名だ)。
切腹をにおわせるところで終わっていたけれども、実際に切腹していたのはホーマー・カタギリでした。
おそらくグラハムをブシドーの世界に引き込んだのはホーマーだったと思うけれども、ここでも「イノベーション」の誤用ならぬ「武士道」の誤用を指摘したんじゃないかとも思うんですよね。
武士道とは死ぬこととみつけたり、というのは死んで忠義を果たせということではなく、(主君の横暴があるならば)死を覚悟して正しいことを追及せよ、というのが本来の趣旨であるわけで、あのとき、刹那との対話を経て、あえて生き残ったのがグラハムであるなら、引責として切腹したのがホーマーという、そういう構図もあったのかな、なんて思います。
#あのあとビリーが開発していたマスラオ後継機?みたいなのも劇場版の伏線なのか?
いやー、もっと書きたいことはあるけれども取りとめがなくなりそうなんで、この辺で。
ガンダムダブルオー、2ndシーズンからは特に好きでした。
僕の中で傑作化したのも2ndシーズンでした。
素晴らしい作品を素晴らしい情熱で届けてくれた水島監督ならびに制作スタッフの皆様に心から拍手を!!
ダブルオーのガンプラはかっこいいので、たぶんまだしばらく買って遊ぶことになりそうです。
そして、劇場版。
楽しみにしております。
■機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン 2 [Blu-ray]
■機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン 3 [Blu-ray]
刹那とリボンズの最終対決にしびれました。
そして意図的に消化不良にしたと思われる部分はなんと劇場版へ。
いやー、まじで面白かったです、ガンダムダブルオー。
これまでのガンダムシリーズに無いオリジナリティーがありながら、どこかでファーストガンダムへ真っ向から挑戦している、という姿勢が非常に好きでした。
そして難解に仕組まれた仕掛けが徐々に徐々に、そして2ndシーズンからは一気に開花し始め、ラストへ向かうに従って「対話」というキーワードが本当に登場人物同士の「対話」として直接の台詞回しに投影されていくという、ガンダムシリーズで究極の明示的相互理解ストーリーだったんじゃないかと思います。
ガンダムダブルオーでは、作品のテーマ的な部分を暗喩的にせず(マクロ描写するところは当然暗喩表現となるんだけれども)、個人ベースの登場人物が語る部分というのは直接的な「対話」として分かりやすく表現していた、というのが特に印象的でした。
ラスト部分では沙慈とルイスという、これまたダブルオーの裏主人公たち二人によってエピローグが語られていき、その中で「分かり合う努力をしないといけない、世界についてもっと関心を持たないといけない」という強いメッセージを、沙慈とルイスという放送当初最も視聴者の目線に近い二人にして、最終的には凄く大きな悲劇の渦の中に巻き込まれていった最も視聴者的に感情移入対象となった二人に「対話」として語らせる、というのが本当に象徴的だったんじゃないでしょうか。
先週がテーマ的には最終回か?とも思わせる内容でしたが、それどころか、さすが最終回。
テーマ部分に絞っていけば、更に上の表現・演出をしてくれたと思います。
最後の最後まで「対話」の重要性に拘ったガンダムダブルオー。
凄く面白かったです。
物凄くたくさん書きたいことがあるんだけれども、順を追って書いていきたいと思います。
僕の中でガンダムダブルオーは、特に2ndシーズンに入ってからなんだけれども、ダブルオーという物語はP・F・ドラッカー的な物語なんだ、というのを何度か書いてきました。
端的に言うと、ドラッカーは「真のイノベーション」についてこんな感じのことを言っているんですよね。
イノベーションというのは少数の天才がなし得るものではなく、体系化された組織・方法論によってなされるべきである、と。
要するに、現在世に出回っている「イノベーション」という言葉は誤用であって、一部の先進者のみがイノベーションを成しうると考えられているが、実はそうではなく、組織的に、ある集団の中で自然発生的に生まれてくる仕組みを作ることにある。一部の先進者のみにスポットが当たるものではない、と言っているわけです。
つまりこれがダブルオーでの「イノベイター」になっていたわけですね。
最終話でまずしびれたのが、リボンズとティエリアの「対話」だったのですが、ここをまさにドンズバで言い表わしていたところに僕は正直鳥肌が立つくらい嬉しかったですね。
そもそも「イノベイター」と「イノベイド」は別のものであって、「イノベイド」が「イノベイター」ではない。
一部の「イノベイド」が人類を導く、という発想自体が間違っている。
それこそ「イノベイター」の誤用である、みたいな。
人類の革新、進化を促していく仕掛けであって、コントロールする立場のものではない、とティエリアが明言するところ、これはしびれましたね。
ラストではティエリア自身がヴェーダの一部となり、人類を見守っていく立ち場に回っていくわけで、そういう意味では彼も「イノベイター」としての資質みたいなのがあるんじゃないかと思ったりもしますね。
人類の革新を促す仕組みの一部となっていくのだから。
さらにティエリアとリボンズの「対話」ではもう一つ重要なことを語っていて、それは上からの立場で人を見下ろして理解しようとしない、という点なんですよね。
これもこの感想で大分語ってきたことの一部なんですが、水島監督のインタビューなんかでも、常に相手の上位に立とうとする姿勢は、相手を理解するという姿勢になく、むしろ相手が何をするか分からないから、怖いから上位に、優位なポジションに立とうとする、というわけです。
こういう中で「対話」自体が成立するわけもなく、事実リボンズは「対話」すら拒み、この作品のマクロテーマであるところの対話による相互理解というところの対極に位置する、という結果になっているわけなんですよね。
更に、やはりこれも、という感じだったのは、リボンズの存在理由なんですよ。
自分でもいつごろから書いたか忘れましたけど、リボンズの行動原理は自分が廃棄されたことにあって、その有用性の証明のために、自分のプライドのために行動しているんじゃないか、という点です。
上位種である(と自分が思っている)はずの自分が廃棄されるのはおかしい、イオリア計画のために生み出された自分が廃棄されるのはおかしい、ならばその計画の遂行自体を自分がやってしまえば良いじゃないか、つまり自分の有用性を証明することがリボンズ自身の存在理由であり、それをやらないと自分の存在価値を認められない、という目的と手段が入れ替わってしまっている、という点なんですよね。
いやー、これをずばり刹那が切り込んで、リボンズがついに自分の本心を吐露する、という展開が、これまでずっとそうじゃないかと思ってみてきた僕としては非常に痺れる展開でした。
水島監督が自分のエゴを押し通そうとする人間はコミュニケーション不全に陥って自滅してしまう、というようなことを仰ってましたが、リボンズしかり、王留美しかりネーナしかり、アリーしかり、とそういった登場人物はバッドエンドに辿り着いてしまっているという点(さらに孤独)で、これもまたひとつのテーマの体現だったんだろうなぁ、としみじみ。
とはいえ、リボンズと刹那の新旧ガンダムバトルは僕個人としては最高にしびれましたね。
ガンキャノンっぽいのが変形して最新型のガンダムになって、更にツインドライヴという最終奥義まで披露したり、それが刹那のダブルオーとグリグリの大激戦を繰り広げるあたりは、見ていてこれぞバトルエンタテイメント!と痺れてしまいましたね。
いやー、最後1話のために新型ガンダムを投入してくるなんて豪気だ!!
さ・ら・に、本当に痺れたのはこの後。
やっぱりエクシアと0ガンダムの最終対決。
これは最高でした。
痺れた。
何に痺れたかって言うと、僕はこのガンダムダブルオーはこれまでのガンダム作品とアプローチの仕方は違えど、実は最もストレートにファーストガンダムに挑戦している作品なんじゃないかって、ずっと思ってきたので、その最終対決がアムロの乗るファーストガンダムと、新ガンダムで新しい形を切り開いていく最初のガンダムとして登場したエクシア(R2!!)の対決っていうのは、まさにファーストガンダムへのガチンコ勝負になってるじゃないですか。
まじで痺れました。
だってあの0ガンダムのビームサーベルの構え。
あれだけで分かる人は分かっちゃうでしょう。
それもアムロですよ。
それがガチで殴り合って、ラストはエクシアと刺し違えるじゃないですか。
燃えた。
いやー、バトルエンタメとしても非常に面白かったです。
ダブルオーという作品とファーストガンダムの真っ向勝負。
素晴らしい勝負でした。
いやー、やっぱりエクシア、かっこいいなぁー。
MG出たら買うな、間違いなく。
あと、たくさん書きたいところもあるんだけれども、テーマ的な部分で行けばあと一つだけ。
この物語の小さな物語のエンドとして、沙慈とルイスの物語があって、それは全体から見ると小さい二人だけの話なんだけれども、作品全体としては裏主人公であり、もうひとつの大きな流れだったと思うんですよね。
愛すべきバカップルだった二人が、戦争に巻き込まれてしまう、戦争をリアルに体験してしまうことで離れ離れになって、そして最後は憎しみが増幅されて、殺しあう仲までエスカレートしてしまう。
だからこの物語としては、そんな最も視聴者に近かったはずの二人が、最も遠い存在になってしまった、けれども、沙慈がルイスを取り戻す、その物語だったと言っても過言ではないと思います。
その中で沙慈が最後までルイスに語りかけ、叫び続け、理解して受け入れようとしたからこそ、いくつものバッドエンドを超えてグッドエンドに辿り着くことができた。
そのグッドエンドを演出した二人の指輪。
この指輪が並んで見える模様、それも実は「∞」を意味していたのかもなぁ、なんて思います。
つまり、あの指輪も「∞」=ダブルオー、ダブルオーという作品を象徴していたものの一つだったんじゃないかって。
その二人がラストでエピローグとして、もっと理解しあわないといけない、もっと世界について知らないといけない、と最も身近で最も簡単で、最も大きなテーマをメッセージとして残していく。
そんな終わり方に、このガンダムダブルオーという作品のメッセージの伝え方を見た気がします。
作品の当初、水島監督は群像劇にしたいと思っていたけれども、実はそれだと各キャラの台詞が少なくなって黒田脚本の良いところを消してしまっていた、ということに気がついたと言います。
黒田さんは黒田さんで監督の世界感を表現しようと歩み寄っていた。
でもその結果、非常に淡々と進んでしまって、キャラが立たなくなってしまった、というようなことをインタビューで仰っていたように思います。
ここから二人の「対話」があって、今の形に落ち着いたと言われていて、この明示的なメッセージや作風はそういった「対話」を通じて作られたんだなぁとしみじみ思います。
あと最後にマリナ姫から刹那への手紙なんだけれども、実はこれが僕にとって一番の回答だったような気がしました。
ダブルオーの描く∞の輪が地球を覆って、一瞬でも人類が分かり合える、という展開もありなのかと思っていました。
それはそれでドラマティックだな、なんて。
でもね、このダブルオーって凄くマクロの物語とミクロの物語を使い分けてるんですよね。
マクロ的にはまだまだ人類は分かり合えないんだ、とかなり現実を直視した回答を提示した、というのが最終回だったと思うんです。
けれども、ミクロ的には「対話」を重ねることで沙慈とルイスのようにグッドエンドに辿り着ける、コーラサワーとカティさんのように思いを伝えて結婚するエンドもあった。
やっぱりマリナ姫と刹那、ルイスと沙慈、というダブル主人公制を引いたのは、そういうマクロとミクロの描き分けをして、そういうエンドになるように考えていたのかもしれないなぁ、なんて。
もちろんマリナ姫と刹那はマクロ側を投影した存在になっているんだけれども、マリナ姫から刹那への手紙が届かなかった、刹那は読んでいない、というのがマクロ的に人類はまだまだ分かり合えない、という部分の回答を悲しくも提示したように思えてしまいました。なるほどなー、みたいな。
けれどもね、その中でマリナ姫の言う、優しさの連鎖みたいなのが広がっていく、それを絶えず追求していくことが自分たちには必要なんだ、というメッセージ。
ある意味このマリナ姫の独白が一番最終話で深かったんじゃないのかな、と思うし、それが沙慈が語った言葉とリンクしているんじゃないかと思うわけです。
だからダブル主人公、だからダブルオー、みたいな。
メッセージ部分以外のところについては、実は消化不良なところも感じていたりしたんですが、謎が解けました。
答えは劇場版。
なるほど。
この物語の延長線上になるかどうかはまだ分からないですけど、ラストでイノベイドたちが民衆に紛れ込んでいて、統一政府にもアニューと同じ顔をしたメンバーもいたし、リボンズタイプもいたわけなので、まだまだ何かありそうですよね。
ティエリアにしても、マリーを戦場から遠ざけるためにソレスタルビーイングから外れているけれども、その表情と、マリーが実はティエリアが抱える矛盾を見抜いているんじゃないか、という表情に、まだまだ続きがあるんだな、と思わせますよね。
不死身のコーラサワーは本当に不死身だったし(笑)。
カティさんと結婚しちゃうし!!
#おめでとう!!
ロックオンなんかは最後の相手がアニューと同タイプのリヴァイブだったりと、演出的にも憎いなぁと思いながら見てました。
そういう中でミスター・ブシドー改め、グラハム(いや、もともとそっちが本名だ)。
切腹をにおわせるところで終わっていたけれども、実際に切腹していたのはホーマー・カタギリでした。
おそらくグラハムをブシドーの世界に引き込んだのはホーマーだったと思うけれども、ここでも「イノベーション」の誤用ならぬ「武士道」の誤用を指摘したんじゃないかとも思うんですよね。
武士道とは死ぬこととみつけたり、というのは死んで忠義を果たせということではなく、(主君の横暴があるならば)死を覚悟して正しいことを追及せよ、というのが本来の趣旨であるわけで、あのとき、刹那との対話を経て、あえて生き残ったのがグラハムであるなら、引責として切腹したのがホーマーという、そういう構図もあったのかな、なんて思います。
#あのあとビリーが開発していたマスラオ後継機?みたいなのも劇場版の伏線なのか?
いやー、もっと書きたいことはあるけれども取りとめがなくなりそうなんで、この辺で。
ガンダムダブルオー、2ndシーズンからは特に好きでした。
僕の中で傑作化したのも2ndシーズンでした。
素晴らしい作品を素晴らしい情熱で届けてくれた水島監督ならびに制作スタッフの皆様に心から拍手を!!
ダブルオーのガンプラはかっこいいので、たぶんまだしばらく買って遊ぶことになりそうです。
そして、劇場版。
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