5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

瀬戸のノベルティ

2007-11-08 22:03:53 |  文化・芸術

「ゆるり秋の窯めぐり」と題した瀬戸市のイベントについてのリーフレットの中に、市の博物館「瀬戸蔵ミュージアム」がイベント関連企画展「オキュパイドジャパンの焼き物」を開催中とあったので、ひさしぶりに瀬戸線に乗って出かけた。



終点瀬戸駅はモダンに化粧直しをし、埃っぽかった瀬戸川の回りも舗装が行き届いて歩きやすくなった。万博効果だ。川を挟んで駅向かいに建った瀬戸蔵ミュージアムは始めての訪問。中学生の社会科見学が多いようで、オーストラリアだろうか外国人学生たちも一緒だ。



目的の企画展はどこだろうと探すと、ロビースペースの一部をつかってディスプレイケースが2つ並んでいる。あっと言う間に通り過ぎてしまいそうだ。常設展示の古窯からの発掘品は見事な数の時系列展示がしてあるし、陶器の製造工程を示すスペースもしっかりとってあるのだから、ちょっと期待はずれだ。展示品は地元のノベルティ製造会社6社から、ディスプレイ品、食器、玩具などが40点ほど。陶製の人形は西洋、東洋、宗教と全展示の3分の1ほどになる。兵隊やキューピーの玩具があるのも時代を思わせる。



1945年の敗戦後、日本から輸出されるすべての商品には、「メードイン・オキュパイド・ジャパン」の文字を入れることをGHQ命令で義務づけられた。この「オキュパイド・ジャパン」という刻印は1951年のサンフランシスコ講和条約締結まで続いた。



「瀬戸のノベルティ生産の歴史は明治末期に、こども玩具である「浮き金魚」や「水入れ人形」が作られたことに始まる。その後の第一次大戦で本場ドイツに替わるアメリカ向けのノベルティ供給地として瀬戸が注目され始める。瀬戸の陶工技術はノベルティ制作にも力を発揮して、やがて本格的な「マイセン人形」や童話風の「ハメルン人形」が企画・生産され始めて拡大するが、第二次大戦の勃発で一時中断する。敗戦後、待っていたようにノベルティの製造も再開された。「Occupied Japan」製品の輸出である。そして、ヨーロッパの模倣から開放された日本独自の製品も開発され、1950年代から70年代にかけて日本最大のノベルティ産地となった。しかし、それ以後は「国際競合」「円高ドル安」により、輸出向けノベルティの生産は中止の状態。現在では貴重な瀬戸ノベルティ文化は絶滅の危機状況にある。」ということはWEBで調べた。



確かに、70年代、前にいた会社にはアメリカからノベルティバイヤーが何人も訪れていたものだ。人件費の安い中国や東南アジアに製造拠点が移って久しい。今や瀬戸にはノベルティ会社もほとんどないわけだから、戦後のめずらしい商品も多くが散逸してしまって、こうした企画展に出展できなかったのだろうか。



博物館からの帰り道に、会社の同僚の生家であるM陶器の前を通ってみた。以前は有名なノベルティ製造会社だったのだが、事務所の扉は閉まってひっそりとしていた。






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