5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

能登女のあぎと

2015-01-26 22:51:06 |  文化・芸術
午後からは雨になった。時折強くなる。時雨だが寒くはない。

今日もTVはイスラム国の日本人人質のニュースばかり。ブログテーマを決めかねて、大岡信の「折々のうた」を開くと、こんな冬の句を見つけた。

「うつくしきあぎととあへり能登時雨」

作者は雨山ではなく飴山とある。醗酵醸造学を専攻した化学者の俳人で、敗戦の前年に「芭蕉七部集」一冊を頼りに句を作り始めたという簡単な説明がある。初めて聞く俳人だ。

WIKIを読むと、飴山実は昭和元年(1926)に石川県の小松で生まれ、京大農学部で酢酸菌の研究を専門にして一生を大学の教職で過ごした。第四高校に在学中から句作を始め、芝不器男に触発されるとある。古格を重んじる句は不器男ゆずりということだろうか。観察には無駄が無く情緒の懐が深いとは大岡のコメントだ。

顎を表す「あぎと」というちょっと面白い音感のことばを使っていることにこちらの気持ちが惹かれる。

能登の旅で時雨にあった。その時雨の中を美しいあごをしたひとりの女性が通り過ぎてゆく。飴山の旅情はそんな女性の顎の微妙なカーヴに極まったというわけだ。

WEBを探すと飴山語録の頁が見つかった。

「季語はきちんと使うべきで崩しては駄目だ」
「言い過ぎる句は狭い」
「五七五は長くてもたつきやすい」

社会性俳句の中で「論理に支えられた叙情」を主張したものが、後年は季語を重視した平明な作風に変わったとWIKIにはあったが、発表の時期から云えば、この「あぎと」の句も「語録」の意味するところも、彼の作風が変化してからのものだということになる。

といっても「人間のもつ屈折をどう表現するかが知恵なのだ」というのも彼の言葉だ。この能登時雨の句も旅情句ではなく「あぎと」には屈折した気持ちを込めてあるのだぞと怒られるかもしれない。



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