大阪城での四季のうつろい

相棒や友人たちとの日々の行動を記録するため、2005年(平成17年)リタイア後ブログをはじめました。

鳥羽離宮

2017年05月05日 | 史跡
先日、京都の城南宮へ行った際、白河・鳥羽・近衛天皇の御陵に立ち寄り、この辺りが鳥羽離宮であったことを知りました。

鳥羽離宮
鳥羽殿・城南離宮とも呼ばれる。

鳥羽は、平安京羅城門の南約3kmに位置し鴨川(現在より東を流れていた)と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であり平安京の外港としての機能を持った。
また、水郷の広がる風光明媚な場所で、貴族達が狩猟や遊興を行う地としても有名であった。このため古くから鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び市が立つなど都市として発達していた。

鳥羽離宮は,11世紀院の近臣であった藤原季綱が鳥羽の別邸を白河天皇に献上。
その後白河天皇が拡張工事を行い譲位後の御所とした。鳥羽上皇の代にほぼ完成し14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
敷地は、東西1.2~1.5キロ・南北1キロ、面積約180万㎡。

白河天皇は敷地内に三重塔を建設(安楽寿院・写真上左)し自らの墓所(成菩提院陵・写真上右)とした。
鳥羽上皇の代にも増設を繰り返し本御塔・新御塔を建立し本御塔を自らの墓所(安楽寿院陵(写真下左)とし、新御塔は後に近衛天皇の墓所(安楽寿院南陵(写真下右)とした。
鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し広大な池を持つ庭園が築かれました。

院政期の鳥羽は,京とともに政治・経済・宗教・文化の中心地だったのですが,南北朝の内乱期戦火により多くの殿舎が焼失し,その後急速に荒廃しましたが,安楽寿院を豊臣秀吉・秀頼が再興。
近衛天皇陵の多宝塔(写真上右)は、慶長11(1606年)秀頼によって再建された。
安楽寿院は、鳥羽・伏見の戦では官軍の本営となりましたが,兵火を免れました。しかし,わずかに残っていた諸堂も,昭和36年の第2室戸台風などで倒壊し,のち本堂が再建されました。

夫々の天皇陵は一辺数十mの小ぶりな御陵でしたが、周辺は緑豊かできちんと手入れが行き届き、今も大切に保存されていることがうかがえると共に、院政を敷いた上皇たちの強大な権力も偲ばれました。
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城南宮

2017年05月03日 | 史跡
昨日、あまりの上天気につられて相棒と共に城南宮へ。
JR京都駅からバス、下車後暖かい陽射しの中徒歩10分程度。

石造りと朱塗りの立派な鳥居をくぐり境内へ。
受付の巫女さんの丁寧な応対に誘われて庭園へ。

城南宮
延暦13年(794年)平安遷都の際、都の守護と国の安泰を願って創建。
皇女和宮が徳川家茂に嫁ぐ際には道中安全の祈祷が修められたことから、現在は方除けの大社として信仰されている。

境内の神苑は、緑が豊かで枝垂れ梅と椿に始まって桜・山吹・藤・ツツジ・新緑に春秋の七草や紅葉と京都の花の名所として知られており、源氏物語に登場する植物が100種以上植栽され源氏物語花の庭とも呼ばれ、地下水を引く池には大きな鯉が悠々と泳いでいる。

源氏物語縁の植物に添えられた説明板を読み、青紅葉・ツツジ・藤・トキワマンサクが見頃の庭園を散策し、年2回の曲水の宴が催された際には新聞紙上をにぎわせる曲水の畔で王朝の雅の雰囲気を楽しみました。

本当に気持ち良い空気の中、美しい庭園内の花々特に藤とツツジを堪能した相棒はご機嫌でした。

城南宮西側の鳥羽伏見の戦いが始まった地や白河・鳥羽・近衛天皇陵にも立ち寄り、近鉄竹田駅から京都駅経由で帰途に。
結構歩きましたので相棒も私も電車内では新大阪駅のアナウンスまでグッスリ。
昨夜も朝までグッスリ、運動の効果を実感しながらこの記事をUPしています。

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