島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

111-1後西天皇

2022-09-14 | 天皇陵巡り

 まだまだ暑い日が続いてる9月ですので、削り冷凍苺に練乳をかけた氷の小を頼んでみました。

苺の下は氷と思ってたら、ソフトクリームとババロアでした、と言うことでまた月輪陵です。

 もう上皇になっていた第108代後水尾天皇(1596~1680)(在位1611~1629)と後宮櫛笥隆子(クシゲタカコ)(1604~1685)との間に生まれた第8皇子で幼名は秀宮(ヒデノミヤ)ですが、叔父にあたる高松宮初代好仁親王(ヨシヒト)(1603~1638)が世継ぎの無いまま亡くなったので、唯一の遺児明子女王(1638~1680)を娶る形で相続し、1647年に高松宮2代となりました。

  秀宮はその後、1648年親王宣下を受け良仁親王(ナガヒトシンノウ)となりましたが、異母兄第110代後光明天皇(1633~1654)(在位1643~1654)が亡くなり、同帝の養子になっていた次期天皇候補の異母弟識仁親王(サトヒト)(1654~1732)は生後間もなくであったし、他の兄弟候補は出家の身であったりしたので、中継ぎ天皇として急遽良仁親王が即位し第111代後西天皇(ゴサイ)(1638~1685)(在位1655~1663)となりました。

 在位期間は10年弱でしたが、父の後水尾上皇が院政を敷き、後西天皇自身は学問に力を注いで、著作や和歌の世界に没頭したようです。

 ただ治世中には、江戸で明暦の大火(振袖火事)、伊勢神宮・大阪城炎上や諸国の天災など忌まわしい出来事が多く起こりましたし、次期天皇候補識仁親王も10歳になったので譲位しました。

 譲位後も宮中の記録類の筆写を続けさせたりし、49歳で崩御後は月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に葬られています。

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53.かれい最中

2022-09-09 | 菓子たくさん

 大分県日出町(ヒジマチ)は、別府湾の北で国東半島の付け根にある町です。

この町の海岸沿いに建つ日出城(ヒジジョウ)周囲の海底から清水が湧き出ているので、ここで獲れるカレイは特別な味がして、城下カレイ(シロシタカレイ)というブランド品になっています。

 私も昔この町には行ったことあるのですが、城下カレイを食べる金は持ち合わせていない頃でした。

 このブランド高級魚城下カレイの形をした最中が、今回の「かれい最中(モナカ)」、決して私のような「加齢真最中(カレイマッサイチュウ)」ではありません。

 1920年(大正9年)創業の笑和堂(ショウワドウ)の製造販売なので、もち米で焼き上げたカレイ型の皮には、笑和を表わす「〇(ワ)と笑」が刻まれています。

 1個が200円ぐらい、皮はパリッとしてますし、中は粒餡です。 

味はまあ普通でした。

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越前海岸

2022-09-05 | 

 なんかしんどいままに、引きこもってる間に終わってしまった今年の8月、9月になってもそう良くはなってませんが、久しぶりの往復300㎞以上のドライブに出かけました。

途中のマキノ高原の栗はまだでしたが、さすがに9月秋ですね、メタセコイア上空の空が高い。

 越前海岸の「蟹かに亭」の刺身、これが2000円です。

十種盛りで、皆美味しい!

 家内は海鮮丼3000円ですが、食が細くなっていて、五分の二ぐらいしか食べません。

 したがって残りは私が食べました。

上の魚が多すぎて、ご飯が見えない海鮮丼ですが、このご飯が私好みの甘さでした。

 完食です。

帰りは一度止まってスイーツやコーヒー休憩しただけで、まっすぐ帰っただけでした。

 頑張ってまた出かけたいです。

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110-2後光明天皇皇女孝子内親王

2022-09-01 | 天皇陵巡り

 22歳で亡くなった第110代後光明天皇(1633~1654)(在位1643~1654)には、典侍庭田秀子(ニワタヒデコ)(?~1685)との間の孝子内親王(タカコナイシンノウ)(1650~1725)しか子はいませんでした。

  大通りに面した一画にある般舟院陵(ハンジュウインノミササギ)に一歩入ると、写真のように静かです。

 したがって、次の天皇には異母弟が成りましたが、孝子内親王は嫡流の皇女として重んじられ、またもしもの時の中継ぎ天皇として使えるかもしれないとの思惑があったのか、出家や摂関家に嫁ぐこともなく、生涯独身を通し76歳で亡くなり、この般舟院陵(上京区般舟院前町・千本今出川)に葬られました。

  制札後ろから5番目に後光明天皇皇女孝子内親王墓とあります。

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