島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

特別定額給付金

2020-06-14 | ノンジャンル
 
 先週、特別定額給付金の申請書が我が家にも届きました。
二人で計20万円、早速保険証と家内に見せてもらった貯金通帳を、印刷機でコピーして送りました。
そろそろ他府県への宿泊旅行も行けそうだし、そしたらブログも不評の天皇陵巡り以外の、旅行のネタも書けるし、豪華なパフェや氷も、給付金で食べられそうです。
 
 と胸算用してましたが、申請書が届いた同じ日に、5番目の孫が産まれました。
京都市内の病院での出産ですが、コロナ期間なので、もちろん面会も禁止中、島に居る頃に遠くで孫が産まれたことを、風の便りで聞いたのと同じです。
違うのは、スマホで動画が見れることです。
5人の孫全員が男となりましたが、この子には給付金は配られないようです。
 産後の娘が帰ってきてしばらく家に居るので、旅行は当分お預けになりました。
申し訳ありませんが、また退屈な天皇陵巡りが続くと思います、なるべく御陵以外の写真も入れながら行きますので、お許しください。
 そして写真のアベノマスクも届きました。
給付金は二人で仲良く分けようね、と言っていた家内は、アベノマスクは気前よく、あんたにあげると言ってくれました。

      返事
花水木さん:朝橘さんのNOTEも、
    母親の言葉を守って継続ですね。
    私も花水木さんを裏切らないように、頑張って面白いことを入れます。
     ケーキの写真、上から写しすぎでした。
大雪男さん:車運転、好きではなくなっては来てます。
     自粛はやりすぎです。
    確率的に大丈夫な所が、今はほとんどだと思います。
    心配しすぎて、皆が宇宙旅行服のようなのを着て、
    生活するようになったら、世も末ですよ!

コメント (4)
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他府県へ

2020-06-12 | 
 
 先週土曜日、もう良いだろうと他府県まで、不要不急のドライブです。
他府県ナンバーの車やバイクもたくさん走っていて、「赤信号みんなで渡れば浮ュない」の心境です。
 朝早めに出たので、時間つぶしに若狭瓜割名水公園に寄りました。
紫陽花はまだチラホラでしたが、池の花菖蒲は咲いています。
 
 いつもの若狭小浜お魚センターで魚を少し買って、マーメイドテラス近くの店で昼も魚を食べて、満足です。
 
 小浜の古い町並みも少し歩いて、腹ごなし。
小浜市まちの駅に、市内から移築復原された明治期の芝居小屋旭座内部です。
熊本山鹿市の八千代座よりも小ぶりですが、花道は有りました。
 
 甘いものは別腹なのと、散策で昼食より少し経ったので、小浜のいつものケーキ屋によって、ケーキです。
スイーツを外で食べるのは、3カ月ぶりぐらいですかね。
 自粛してる皆さんには申し訳ないですが、やっぱり他府県は良いですね。

      返事
toitenlabeeさん:仕事を趣味にしたら楽しくなりますよ。
    H病院は綺麗な人が多かったので
    (あの頃のtoitenさんも綺麗でしたよ)、
    私は毎日楽しかったです。
花水木さん:今回もちょこっとだけになりました。
     子供の時から「やり始めたら途中でやめるな」と言われ育ちました。
    すみませんが最後までお付き合いお願いします。
    でも、もしかしたら、天皇陵巡りも極めてしまうかもしれませんがね。
     例によって私の「物事を極める」は、
    進歩しないし、上手にならないので嫌になる。
    すぐに飽きて、退屈する。  です。

コメント (2)
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64-3円融天皇皇后遵子

2020-06-10 | 天皇陵巡り
 
 藤原実頼(サネヨリ)次男で関白の頼忠(ヨリタダ)(924~989)と、第60代醍醐天皇第3皇子代明親王(ヨシアキラ)の娘厳子女王(ゲンシ)(~1014)との間に産まれた次女が、今回の藤原遵子(フジワラノジュンシ・ノブコ)(957~1017)です。
同母弟にはちょっとわがままな藤原公任(キントウ)(966~1041)(道長と同い年)がいます。
写真の小倉百人一首55番の大納言公任です。
また母方の従姉妹として、冷泉天皇女御で花山天皇の母の贈皇太后懐子(カイシ)もいます。
 
 前回の媓子に遅れること4年、978年に2歳年下で20歳前の第64代円融天皇に入内し女御になり、中宮であった媓子が亡くなったので、982年に中宮になりました。
 中宮と皇后はややこしいですが、基本的にはと言うか元々は同じだと思ってます。
 
 遵子には子は無く、もう一人の女御、父が兼家の詮子(センシ)(962~1002)には第1皇子懐仁親王(ヤスヒト)(980~1011がいたにもかかわらず、遵子が中宮になったのは、円融天皇の兼家に対する反感があったようです。
しかしこの時、遵子の同母弟公任が得意になりすぎたので、詮子や兼家の恨みを買ってしまったという話もあるようです。
 円融天皇譲位後は、遵子も仏道に入って静かに余生を送り、宇治陵制札4番目に圓融天皇皇后遵子の名があがっています。

    返事
toitenlabeeさん:私も自粛で
    体重2Kg・腹囲2cm増えましたが、アベノマスクはまだ着きません。
     「5日連続で働かなくてもいい生活になりたいって」
    30年早いわ!

コメント (2)
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64-2円融天皇皇后媓子

2020-06-07 | 天皇陵巡り
 
 先週から復帰した仕事もあって、久しぶりに5日連続で働いたのと、急に夏になってきたこともあって、体の調子がくずれかけています。
今回は短いので、なんとかブログを仕上げて、これから競馬を考えて(当たらない方向にばかりですが)、競馬貯金があまり減らないように、レース数を絞って買います。
 藤原兼通(カネミチ)(925~977)と第60代醍醐天皇第7皇子有明親王(アリアキラ)の次女昭子女王(ショウシ・アキコ)(~994)との間に産まれた兼通長女が、今回の藤原媓子(フジワラノコウシ・テルコ)(947~979)です。
 
 円融天皇の下で、媓子の伯父伊尹(コレタダ)の死後、父兼通が927年に関白になりました。
当時は中継ぎ天皇と思われていた円融天皇には、入内する娘がいなかったので、973年に媓子が27歳で14歳の円融天皇に入内し女御となりました。
 宇治陵総拝所の制札には、遵子の後5番目に円融天皇皇后媓子として名があがっています。
 
 12歳年上女房でしたが、夫婦仲は良かったようです。
しかし子供には恵まれず、父兼通も亡くなって後ろ盾も失い、立后から6年で33歳で亡くなり、やはり宇治陵に葬られています。
 宇治陵総拝所に接して藤原氏塋域の石碑が建っています。
「塋域」とは墓地のことで、37号まである宇治陵はまあ藤原家の墓とも言えます。

      返事
花水木さん:まだマスクも申請書も届きません。
     伊尹はコレタダ・コレマサとも読みますが、読めませんよね。
     子が付く名前も色々な読み方が付いてます。
    私の近い近い親族にもヤスコは二人いますが、
    子はシと読む方が平安朝らしいので、お姫様の名はシとしてます。
     今回の媓子は媓の漢字の変換がなかなか出てきませんで、苦労しました。

コメント (1)
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64-1円融天皇

2020-06-04 | 天皇陵巡り
 
 守平親王(モリヒラシンノウ)は第62代村上天皇(926~967)の第5皇子として生まれましたが、母安子(アンシ)(927~964)は藤原忠平次男の師輔(モロスケ)(909~960)の長女だったので、第4皇子で異母兄為平親王(タメヒラ)(952~1010)を越えて、同母兄第63代冷泉天皇の皇太子に成りました。
 陵は福王寺の五叉路を父村上天皇陵へ登って行く途中の、住宅街に突然現れます。
 
 為平親王の舅になった源高明(ミナモトノタカアキラ)に実権が移るのを阻止すべく、藤原北家が引き起こした陰謀安和の変(969年)で、高明は失脚しました。
 その半年後に冷泉天皇は譲位し、11歳の守平親王が即位し第64代円融天皇(エンユウ)(959~991)(在位969~984)となり、母安子はもう死んでいたので同母姉資子内親王(シシ)(955~1015)が母替わりとなりました(准三后)。
 
 幼い天皇の為、大伯父で太政大臣の藤原実頼(サネヨリ)(900~970)が摂政になっていますが、やはり天皇との血のつながりが薄いために、揚名関白(ヨウメイ)(名ばかりの関白)でした。
実頼死後は、外祖父師輔の長男藤原伊尹(コレタダ)(924~972)(母安子の同母兄)が摂政関白となりましたが、わずか1年ぐらいで亡くなり、謙徳公を送られています。
 
 長男伊尹死後は、伊尹の同母弟の次男兼通(カネミチ)(925~977)が摂政関白になりましたが、3男の同母弟兼家(カネイエ)(929~990)と激しい争いを繰り返し、死んでも弟兼家に関白職を譲り渡したくなかった兼通は、円融天皇自身の兼家嫌いもありましたが、伯父実頼の次男頼忠(ヨリタダ)(924~989)に関白職を譲っています。
 
 こうした藤原北家内の権力争いに迄Mされた円融天皇は、20歳ころになってやっと手腕を発揮しようと思う間もなく、復権して来た兼家の辣腕の前ではどうすることも出来ず、唯一の息子懐仁親王(ヤスヒト)(980~1011)の立太子を条件に、24歳で同母兄第63代冷泉天皇の息子で甥になる師貞親王(モロサダ)に譲位し、太上天皇と成りました。
 
 円融天皇は藤原家から媓子(コウシ)・遵子(ジュンシ)を中宮に入れていますが、唯一の子懐仁親王を産んだのはあまり好きでなかった兼家の娘詮子(センシ)でした。
 仁和寺の山の上の宇多天皇陵に行った後に、そのまま山をぐるっと回って、今度は龍安寺の上の山にある円融天皇火葬塚を巡りました。
山道の途中、我が家の方向の向こうに比叡山を眺めます。
 
 太上天皇になってからは気が楽になったのか、985年正月には「子の日の遊び」を開催、平兼盛・
 
 清原元輔・
 
 源重之・
 
 大中臣能信などが参列してます。
 
 また、この会に招待されなかった曾禰好忠も貧しい恰好で参加し、追い出されたという話も残っています。
 
 円融天皇の後村上陵(ノチノムラカミノミササギ)(右京区宇多野福王寺町)はまあ普通の陵でしたが、円融天皇火葬塚(右京区竜安寺朱山)は龍安寺の裏山の上にありますが、きれいに整備された立派な円丘でした。
 このまま龍安寺の方に降りて行くと、一条天皇陵など六つも陵が集まっていて、いっぺんに廻れました。

      返事
toitenlabeeさん:近所の息子の家には、
    アベノマスクだけはもう来たそうです。
    子供のいる家には早く来るそうですよ、知らんけど。
和さん:負の連鎖でしょうね、
    安倍さんの言葉は、ますます空虚に聞こえますね。
じょんのびかあさんさん:そうです、
    ちょっと他府県ですが大飯のウミンピアです。
     今週から仕事もとに戻りだして、老体疲れてます。

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