島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

64-3円融天皇皇后遵子

2020-06-10 | 天皇陵巡り
 
 藤原実頼(サネヨリ)次男で関白の頼忠(ヨリタダ)(924~989)と、第60代醍醐天皇第3皇子代明親王(ヨシアキラ)の娘厳子女王(ゲンシ)(~1014)との間に産まれた次女が、今回の藤原遵子(フジワラノジュンシ・ノブコ)(957~1017)です。
同母弟にはちょっとわがままな藤原公任(キントウ)(966~1041)(道長と同い年)がいます。
写真の小倉百人一首55番の大納言公任です。
また母方の従姉妹として、冷泉天皇女御で花山天皇の母の贈皇太后懐子(カイシ)もいます。
 
 前回の媓子に遅れること4年、978年に2歳年下で20歳前の第64代円融天皇に入内し女御になり、中宮であった媓子が亡くなったので、982年に中宮になりました。
 中宮と皇后はややこしいですが、基本的にはと言うか元々は同じだと思ってます。
 
 遵子には子は無く、もう一人の女御、父が兼家の詮子(センシ)(962~1002)には第1皇子懐仁親王(ヤスヒト)(980~1011がいたにもかかわらず、遵子が中宮になったのは、円融天皇の兼家に対する反感があったようです。
しかしこの時、遵子の同母弟公任が得意になりすぎたので、詮子や兼家の恨みを買ってしまったという話もあるようです。
 円融天皇譲位後は、遵子も仏道に入って静かに余生を送り、宇治陵制札4番目に圓融天皇皇后遵子の名があがっています。

    返事
toitenlabeeさん:私も自粛で
    体重2Kg・腹囲2cm増えましたが、アベノマスクはまだ着きません。
     「5日連続で働かなくてもいい生活になりたいって」
    30年早いわ!

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする