島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

64-2円融天皇皇后媓子

2020-06-07 | 天皇陵巡り
 
 先週から復帰した仕事もあって、久しぶりに5日連続で働いたのと、急に夏になってきたこともあって、体の調子がくずれかけています。
今回は短いので、なんとかブログを仕上げて、これから競馬を考えて(当たらない方向にばかりですが)、競馬貯金があまり減らないように、レース数を絞って買います。
 藤原兼通(カネミチ)(925~977)と第60代醍醐天皇第7皇子有明親王(アリアキラ)の次女昭子女王(ショウシ・アキコ)(~994)との間に産まれた兼通長女が、今回の藤原媓子(フジワラノコウシ・テルコ)(947~979)です。
 
 円融天皇の下で、媓子の伯父伊尹(コレタダ)の死後、父兼通が927年に関白になりました。
当時は中継ぎ天皇と思われていた円融天皇には、入内する娘がいなかったので、973年に媓子が27歳で14歳の円融天皇に入内し女御となりました。
 宇治陵総拝所の制札には、遵子の後5番目に円融天皇皇后媓子として名があがっています。
 
 12歳年上女房でしたが、夫婦仲は良かったようです。
しかし子供には恵まれず、父兼通も亡くなって後ろ盾も失い、立后から6年で33歳で亡くなり、やはり宇治陵に葬られています。
 宇治陵総拝所に接して藤原氏塋域の石碑が建っています。
「塋域」とは墓地のことで、37号まである宇治陵はまあ藤原家の墓とも言えます。

      返事
花水木さん:まだマスクも申請書も届きません。
     伊尹はコレタダ・コレマサとも読みますが、読めませんよね。
     子が付く名前も色々な読み方が付いてます。
    私の近い近い親族にもヤスコは二人いますが、
    子はシと読む方が平安朝らしいので、お姫様の名はシとしてます。
     今回の媓子は媓の漢字の変換がなかなか出てきませんで、苦労しました。

コメント (1)
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