島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

52-2嵯峨天皇皇后橘嘉智子

2019-11-13 | 天皇陵巡り
 
 愛宕神社一之鳥居前にある平野屋を以前紹介しましたが、ここで昼食を食べた時の目的地は、この左手の道しるべの道を行った嵯峨陵(サガノミササギ)(京都市右京区嵯峨鳥居本)です。
 
 嵯峨陵にはこの道しるべから500m程、車の通る道を歩いてすぐでしたが、この道は水尾にまで続いているので、歩いてはしんどいですが、清和天皇陵の参道にもなっています。
 
 道路から参道に入る入り口が見えてきましたが、やっぱりまだ通行止めでした。
 4月24日のこのブログでも紹介した橘諸兄、その息子で藤原仲麻呂(恵美押勝)に対抗して反乱をおこし(757年)獄死した橘奈良麻呂、この乱の直後に産まれた奈良麻呂の息子橘清友(タチバナノキヨトモ)、その清友の娘が今回の第52代嵯峨天皇皇后の橘嘉智子(タチバナノカチコ)(786~850)です。
 
 ここで通行止め、しっかり閉ざされていました。
破門する気になれば行けなくもなかったですが、年とってからは法を犯す気がなくなっています。
 嵯峨天皇が即位した時、桓武天皇皇女で異母妹の高津内親王(コウズ・タカツナイシンノウ)(?~841)が妃となり、二人の間に産まれたのが業良親王(ナリヨシシンノウ)(?~868)です。
血統から言えば次期天皇の候補であるべき業良親王は、精神的に不安定だったようで、それが原因かどうか高津内親王は妃をすぐに廃されしまいました。
裏では陰謀があった可能性大の状況ですね。
 その頃に、少し遅いですが23歳で嵯峨天皇に入内したのが嘉智子です。
 
 塀の上からのぞくと、奥に続く参道には当リもあって、まあ宮内庁がせっかく通行止めにしているので、山奥でちょっと浮「と思うこともあって、ここから参拝です。
 
 参拝したらこんな感じと、案内板の写真でお許しください。
嘉智子は正良親王(マサラシンノウ)(後の第54代仁明天皇)と、たぶん双子の正子内親王(マサコナイシンノウ)(後の第53代淳和天皇皇后)の他に、2男5女をもうけていますので、すごい美人だったこともあって嵯峨天皇に愛されたのだと思います。
それでも嵯峨天皇は、他に30人の妃に50人の子供ももうけていますがね。
 
 その後815年に皇后になった橘嘉智子、祖父の橘奈良麻呂が逆賊として獄死していることを考えると、不思議な運命ですね。
 仏教に深く帰依し、嵯峨野に今はもうありませんが、日本最初の禅院である檀林寺(ダンリンジ)を創建したことから、檀林皇后とも呼ばれています。
 
 遺体は埋葬せず、帷子ノ辻(カタビラノツジ)に放置して、腐乱・白骨化していく様を描かせたという伝説もあります。
九相図(クソウズ);打ち捨てられた死体が、朽ちて行く過程を9段階に分けて描いた仏教画。
 檀林寺跡に建った大覚寺近くの嵯峨釈迦堂清凉寺、その境内には嵯峨天皇・檀林皇后の宝塔が並んでいて、手前が檀林皇后の宝塔です。
明治以前はこれが御陵とされていたそうです。
 
 梅宮大社(ウメノミヤタイシャ)は橘氏の氏神として京都の南の井手町にあったのを、嘉智子がここ嵐山の南、松尾大社と桂川をはさんで反対側に移しています。
 
 皇后は皇子に恵まれなかったので、梅宮大社の奥の神殿横にあるこの「またげ石」を跨いで、子を授かったどころか7人もの母親になってますので、この周囲の白砂は安産のお守りとされています。

      返事
花水木さん:逆でしょうと言われましても、
    奥さんの写真の裏に小百合さんの写真を入れて、
    隠れキリシタンのように眺めているのがばれたら、
    それこそ、逆さ水責め・いびり火あぶりの刑が処せられるので、
    やっぱり小百合さんの写真の裏に家内の写真ですよ!
    まあ、今は入っていませんが。

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52?嵯峨天皇

2019-11-09 | 天皇陵巡り
 
 大覚寺の前身・離宮嵯峨院を建立した第52代嵯峨天皇の嵯峨山上陵(サガノヤマノエノミササギ)(京都市右京区北嵯峨)は、その大覚寺の北西にありました。
大覚寺から北西に少し歩いた(一度迷いましたが)、ここが陵への登り口です。
 
 つづら折れの500段以上の石段を登らなければならないと、かなりしんどそうに紹介されていましたが、石段は綺麗に整備された直後で、まあ一気には登れませんでしたが、途中所々で振り返って嵯峨野を眺めながら休憩したので、それ程辛くはなく登れました。
 
 以前紹介した大覚寺や大沢池も眼下に広がっていますが、こうしてみると、大沢池も意外と小さく見えました。
 
 父第50代桓武天皇と母藤原乙牟漏(オトムロ)との間には、安殿親王(アテ)(後の第51代平城天皇)がいましたが、その同母兄に遅れること12年、786年に産まれたのが神野親王(カミノシンノウ)。
生れた時には父はもう天皇、同母兄の安殿親王はもう皇太子でした。
 
 母の乙牟漏は、神野親王の4歳の時にはもう亡くなっています。
同母兄第51代平城天皇の病気による譲位を受けて、神野親王は809年平安京で即位し第52代嵯峨天皇(サガ)(786~842)(在位809~823)になりました。
皇太子には、同母兄平城天皇の皇子高丘親王(タカオカシンノウ)をたてました。
 
 平城天皇の項で記したように、810年の薬子の変に対しては、迅速に行動してこれを平定、高丘親王も廃太子とし、今度は異母弟の大伴親王(オオトモシンノウ)(後の第53代淳和天皇)を皇太子にたてました。
 以後は比較的安定した治世が続き、818年弘仁格(コウニンキャク)を発布し死刑を廃したり、文化面でも嵯峨天皇は空海・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)と共に三筆と言われています。
 この辺りから平安京を舞台にした平安時代が始まりました。(私的には高校時代の日本史を学んでいた頃は、平安時代は退屈でしたが)
 
 父桓武天皇もたくさんの子供に恵まれ、その子供たちが桓武平氏と言われる平氏一族になりましたが、嵯峨天皇も29人以上の皇妃達に50人の子供をもうけ、子の養育費が皇室財政を圧迫することを苦慮し、源姓を与えて臣籍に降ろす、賜姓源氏(シセイゲンジ)の初例を開きました。
 
 多数の皇妃の内、皇后は橘嘉智子(タチバナノカチコ)で、その間には正良親王(マサラシンノウ)(後の第54代仁明天皇)をもうけました。
 823年には異母弟の淳和天皇に譲位して上皇になり、淳和は嵯峨上皇の皇子正良親王を自分の皇太子にしました。
嵯峨上皇は淳和・仁明両朝においても家父長的存在として重きをなし続けたようです。
 
 この嵯峨山上陵は陵の周囲をぐるっと回れましたが、丁度裏側には見た人は呪われると言われてる血の池が有ります。
有ったので見てしまいましたが、写真の様にやや赤っぽい感じの、大きめの水たまり程度の池でした。
こんな山の上には誰もいませんでしたし、浮「ので足早に後ろも見ずに、急いで陵を一周しました。
 まだ呪いは、私には及んでいないようです。
 
 嵯峨天皇陵の麓近くにある、嵯峨天皇のゆかりもある嵯峨釈迦堂清凉寺(セイリョウジ)、その境内の一画に嵯峨天皇の宝塔がありましたが、明治まではこれが御陵だったと清凉寺のパンフレットには書いてありました。

      返事
花水木さん
 
   実は私の机の隅にはもう50年以上、
   吉永小百合さんのこのブロマイドが飾ってあります。
   若い時の一時期は、この写真の裏側に、今の家内の写真も入れていて、
   友達などにばれないよう、隠れキリシタンのように、祈っていた時も有りました。
和さん:ランチは1300円で、
    わずかにパフェが高かったですが、
    「最高・・・ 」の映画の中で、
    京都のからふね屋で吉永・天海さんが食べていたパフェは5万円なので、
    まあこのチョコレートパフェぐらいが、私の最高の人生です。
    「最高の・・・」映画は、特別に福江会館でも上映されたそうですよ。

コメント (1)
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楽園期間も映画に

2019-11-06 | 趣味
 
 10月はW杯ラグビー一色で、あまり時間の余裕が無いままに過ぎてしまった、楽園のような1ヶ月でしたが、なんとなく日本映画を3本続けて観に行ってしまいました。
 
 1本目は「楽園」
ラストが福江島の大瀬崎灯台であった「悪人」と同じく、吉田修一さん原作の作品だったので、なんとなく観てしまいましたが、やっぱりやや重い作品でした。
 
 2本目は「記憶にございません」
やっぱり映画は楽しくないとと、三谷幸喜監督作品です。
意外と真面目な感じでまとめていて、期待したハチャメチャ感は少なかったように思います。
 「楽園」にも出演していた佐藤浩市さんが、ここでも出ています、最近映画によく出てきますね。
 
 3本目は「最高の人生の見つけ方」
NHKで最近吉永小百合さんの密着映像が流れていたのと、元になった同名の洋画(ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン主演)を長崎の映画館で観てるので、観に行きました。
 
吉永小百合さんは70過ぎてもウェディングドレスが似あいますし、普通のおばあさんにもなれますね。
洋画版より、やっぱり邦画版の方が真面目に仕上がっていました。
主人公の郷里が福江島の設定なので(NHKTVでも、吉永小百合さんが懐かしい福江港の常灯鼻(ジョウトウバナ)に行ってました)、魚津ヶ崎(ギョウガサキ)の水ノ浦教会がロケ地になっていました。
パンフレット写真の二人の奥に写る灯台の島の前で、コスモスやヒマワリやあじさいと一緒に写真を撮って、このブログにもよくあげていたことを思い出しています。
 映画は1本観ると、続けて観たくなりますね、予告編で観た「ターミネーター」や「スター・ウオーズ」の最新作も観たくなっています。
 
 「最高の人生の見つけ方」を観た帰り、小さな最高の人生ですが、チョコレート専門店で、映画代よりもその日のランチ代よりも高いパフェを食べました。
いつも食べる安いパフェの下の方は、ほぼコ―ンフレークが多いですが、これは多層すべてが美味しい!!

       返事
大雪男さん:先生の目は確かでしたと言われても・・・・。
    南アフリカの勝利を予想したのではなく、
    南アフリカに勝ってほしいと思ってただけです。
    今までは、私がスメ[ツで予想したチームや人や馬は、
    ほぼ負けますし、
    選挙で投票した人は、ほぼ落選します。
花水木さん:花水木さんのコメントがないと、
    お義母さんが・・・、と思ってしまいます。

コメント (2)
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速報 決勝戦

2019-11-02 | 趣味
 
 W杯ラグビー、とうとう決勝まで来てしまいました。
決勝戦に残った南アフリカは神戸で、イングランドは大分で、幸いなことに両チーム共に生で観戦することが出来ましたが、イングランドよりは南アフリカの方が好きなので、南アフリカのユニホームを着こんでTV観戦です。
 孫Ⅲ≠PもW杯のユニホームを着て、一緒に応援してくれましたが、そんな孫を気にかける余裕は、今日の私には有りませんでした。
 
 後半途中までは南アフリカのFWが完全にスクラムで勝っていたのが、一番の勝因ですが、相変わらずデクラークは細かく動いていましたし、両ウイングのトライもすごかったですね!
 
 これで世界ランクは、1勝1敗同士の南アフリカ・イングランド・ニュージーランドのどこになるんですかね。
日本は4位か5位ぐらいまで行けるかもですね。
 
 息子がW杯ラグビーの切手シートを届けてくれました。
私の家も家族中がW杯ラグビーを楽しんだ2か月でした。
日本中でも皆が盛り上がって、今後もラグビーの楽しみとその精神が続いてくれることを祈ってます。
 
 本日土曜日決勝戦前の16時発走の福島12レースに、デクラークと間違えたデクレアラーと言う馬が出走していたので、これから流して3連複を買いました。
結果は4着か5着だったので、南アフリカちょっと心配しましたが、負けたのは私の競馬だけでした。
 
 そして明日のアルゼンチン共和国杯(GⅡ)には、
なんと南アフリカの優勝を暗示してたような:
 1枠1番:アフリカンゴールド 南アフリカの金メダル
 2枠3番:ハッピーグリン   幸せの南アフリカのチームカラー緑
まさにこれを買うしかないという馬が出てるので前売りで買っています。
しかも1枠は白・3枠は赤と、裏にはイングランドのカラーがあるし、3番の騎手は池添です。
 6枠(緑)の9番ノーブルマースの3連単1≠R≠Xと3連複1・3・9、もちろん馬単・馬連1≠Rも買いましたが、皆が気づいてオッズが下がらないことを祈ってます。
 
     南アフリカ おめでとう!!
   日本もほんまによくやった!!!
 明日の競馬で、おすそ分けをお願いいたします!

       返事
大雪男さん:ちょっと前までは、
    最後あんなふうに重量FWが突っ込んでくる戦法で、
    日本はズタズタにされていました。
    最近はこの戦法は普通になってますが、
    実力差が有りすぎると、この戦法は楽しくありませんね。
コメント (2)
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