島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

47-2舎人親王

2019-05-17 | 天皇陵巡り
 
 舎人親王(トネリシンノウ)(676~735)、その名前は太安万侶と共に日本書紀を編纂したとして、教科書にも名前が挙がっているので有名ですね。
 菖蒲の節句発祥の地らしい京都藤森神社は、菖蒲→勝負に通じていたり、5月5日の藤森祭で曲乗りの駈馬神事(カケウマシンジ)が行われることからも、競馬の勝負運の神様として、私も少しは頼りにしている神社です。
 
 藤森神社のの祭神として、日本書紀を編纂したので日本最初の学者とされる舎人親王もあがっています。
 
 舎人親王の父は天武天皇で、母は天智天皇の娘新田部皇女(ニイタベコウジョ)ですので、血統的には申し分ありません。
第40代天武天皇の沢山いる息子の中では、一番最後まで行き残り、天武系の皇親政治を補佐するとともに、やや藤原氏寄りの政治活動もしてきました。
当麻山背(タイマノヤマシロ)との間に、第7皇子として大炊王をもうけたのは、死ぬ3年前の55才過ぎです(すごい!)。
 
 舎人親王の死後20年以上経ってから、息子の大炊王が思いがけずに第47代淳仁天皇に成れたので、天皇の父として崇道尽敬皇帝(スドウジンキョウコウテイ)とすごい名前の追号を貰っています。
 
 黄金塚陵墓参考地(コガネズカリョウボサンコウチ)(奈良市田中町)として宮内庁が舎人親王の墓(陵)と定めた、ここ奈良の平城京の東南の山すそですが、発掘調査では舎人親王の時代より100年ぐらい前の時代の墓の様で、正式名帯解黄金塚古墳(オビトケコガネズカコフン)です。
入り口を探すのに苦労して歩き回りました、このなんの目印もない脇道を入っていった所にありました。

     返事
花水木さん:心が折れたことも、もう忘れてしっまてる。
    これが年寄りの良い所です。
数さん:和さんの変換間違いでしょうね?
     賀茂川土手の木々の間を抜ける行列は、
    街中で観るより気持ち良かったです。

コメント (1)
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